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第11話 近江和議と守護土岐頼芸 その3

歴史ジャンル日間1位という過分な評価に、身が引き締まる思いです。感謝の気持ちで本日は2回投稿です。

(本当は元から今日は2回予定でしたが)


この話も♢♢まで三人称となっています。

 近江国 鎌刃城・大広間


 美濃守護、土岐次郎政頼(まさより)大桑おおが城に戻ることを宣言した。人々は既に土岐左京大夫頼芸(よりのり)を「美濃太守」として扱っていたが、これによって正式にかつ穏便に守護が交代することが内定した。左近大夫規秀(のりひで)は浮かべた笑みを一瞬で戻し、次郎政頼に向かい口を開く。


「政頼様、つきましては斎藤帯刀(たてわき)様にも美濃にお戻りいただきたいのです。」

「利茂か。しかし奴は美濃で長井の息子を殺したと噂になっていると聞いた。命が狙われることはないのか。」

「それにつきましては頼芸様が一番お疑いですので、家中全体もそのようになってしまっています。ですが、その空気をなんとかできるかもしれぬのです。」

「話してみよ。」


 土岐次郎政頼はその言葉にややいぶかしんだ様子ながらも身を乗り出した。朝倉孝景も探るような目つきながら、姿勢は前がかりになっている。


「私と息子の豊太丸が斎藤を名乗るのをお許しいただくのです。」

「何故そなたが斎藤守護代を名乗ることになるのだ。」


 朝倉孝景の眉間にしわが寄る。右手の中指が苛立いらだちを表すように小刻みに膝を叩く。


「実は頼芸様は私に斎藤姓を継がせる気でして。斎藤彦四郎様に生前私がお世話になった縁もあるから、その養子という扱いで入ってはどうかと。」

「今は亡き彦四郎を使おうというのか。」

「ただ、あまり道理として良くないとわしも思っていまして。そこで政頼様と帯刀様が認めていただければ、わしが家中を説得いたしまする。頼芸様も私がご説明いたしますれば、必ずやご納得いただけるかと。」


 口元に手を当てて思案顔になる次郎政頼。彼としても越前までついてきた守護代を見捨てるのは忍びないという思いがある。


「身の安全は保障できるのだな?」

「私と息子を斎藤の一員にしていただけるなら、必ずや。」

「……良かろう。色々あったが主家の頼芸のために動く限り信用してやろう。」

「その御言葉、何よりの褒め言葉と存じます。」


 そばにいた朝倉孝景と大館尚氏おおだちひさうじ、そして味方のはずの揖斐いび五郎光親(みつちか)も、左近大夫の言葉には一様にジト目を送るばかりであった。


 ♢


 美濃国 守護所・枝広えだひろ


 近江国内で話し合いが行われていたのと同時刻、稲葉山のふもとにある頼芸の居館である枝広館では、法要の手続きが進んでいた。

 頼芸自身は左近大夫規秀に期待しつつも、別のルートで朝廷と交渉していた。その結果が良好で、幕府を通じて朝廷から正式に修理大夫と美濃守任官の予定と連絡が来ていた。

 それゆえ、左近大夫の結果を待たずに自分が後継者であると名乗れると考えていた。


「左近大夫の結果は気になるが、まずは周辺諸国に誰が本当の後継者か示さなければな。そうであろう、与十郎。」

「その通りでござりまする。美濃国内にはいまだに旗色を鮮明にしない者もおりますが、修理大夫の任官に加え法要を我らが主導すれば考えも変わるでおじゃる。」


 呼ばれたのは二位殿の通称を持つ鷹司たかつかさ与十郎冬明。摂関家の鷹司家から武士になった一族で揖斐郡の長瀬城主である。日頃から土岐の朝廷・宮中工作を担当しており、そのせいかわざとか中途半端に公家の使う言葉づかいを使いわかりにくくする癖があった。


「これほど大規模にやるのは左近大夫殿の交渉の邪魔になりませぬか?」

「大丈夫大丈夫。兄上が不満なら大桑でも法要をやるよう私から進めるまでよ。」

「うーむ……。」


 消極的なのは長井衛安である。彼は長井一族だが現在の本家とは別筋で、土岐の家に直接仕えている。


「兄上、準備はできましたぞ。後は明日を待つのみだ。」

光敦みつのり、すまんな手伝わせて。」

「気にするな。私はもう土岐ではないから、家臣として使ってくれ。」


 鷲巣わしず六郎光敦は土岐政頼・頼芸兄弟の弟(名の通り六男、揖斐が五男)だが、鷲巣氏の養子となり家臣扱いとなっていた。彼と揖斐五郎光親は古くからの頼芸派のため、鷲巣・揖斐周辺は頼芸の影響力が強くなっている。


「既に美濃国内の実権は私にある。それを兄上が戻ってくる前にきっちり示してみせねばな。」


 自身の地位を確かにし、美濃国内で兄政頼が身動きできないよう封じる。それだけが目的ならば、確かにこのタイミングは絶妙と言わざるを得ない。

 問題は同時に行われている交渉には朝倉・六角という勢力が関わっているということだが、目の前の法事に捉われている頼芸にそれを求めるのは無理があった。


 ♢♢


 美濃国 稲葉山城


 頼芸様が父左近大夫規秀に相談なしで土岐政房の17回忌法要を行った――その一報は鎌刃城での会談が終わり、またも大垣城に寄った際に知ることとなった。

 父の側近や家臣団に組み込まれた旧長井家臣たちはこの法要に参加していなかったそうで、参加者は頼芸本人に兄弟の鷲巣六郎光敦、土岐八郎頼香や頼芸の嫡男猪法師丸、一門の各務盛政と二位殿こと鷹司与十郎冬明、長井衛安ら直臣のみ。

 名目上は近親者向けの法要だったそうだ。だがそれは自分が父親の後継者だ!って周囲に主張するために行うものである。兄弟がほぼ揃っていたのは朝倉の下に逃げていた土岐政頼を兄弟総出で出迎えるためだと聞いていたそうな。

 言うまでもなく完全に頼芸様の独断である。父は最初聞いた時信じなかったくらいである。二度目の報告を叔父の隼人佐道利に聞いた父は深くため息をついて、


「朝倉と六角と戦になるな。準備を至急進めてくれ。最悪井ノ口の住民を稲葉山の城に避難させるつもりで準備せよ。」


 と、部下に命令していた。これを現代に例えるなら部下がある会社との商談を命令通りほぼほぼまとめてきたと思ったら、その会社を逆撫さかなでする記者発表を社長が独断で行って商談を仲介した会社まで怒らせたようなものか。割とありそうで困る。


 そして稲葉山城に戻って早々に入ってくるのは悪い知らせばかりだ。


「本願寺の門徒が摂津の石山郊外で細川・三好の連合軍により壊滅。畿内の本願寺門徒による蜂起はほぼ収束するかと思われます。」

「土岐次郎政頼様の手勢が一部大桑城に入り大桑城を奪われました。政頼様は越前に帰還中とのこと。」

「朝倉が抗議の書状を送ってきました。越前国内の噂では収穫後に攻めてくるようです。六角も動員をかけるようです。」


 父が呟いた「世の中なかなか思うようには動かぬものよ。」という一言は、戦国時代の名だたる名将たちの心を代弁しているようだった。



 更に最悪なことが7月1日起こった。大雨が降ったため、長良川が再度中規模に氾濫はんらんし洪水となった。流石に去年や今年の冬の洪水ほどじゃなかったものの、城下に少なからず被害が出た。

 一番被害の大きかったという稲葉山北部では、法要が行われた枝広館が全壊したらしい。土岐の家臣たちは稲葉山の会議のため出払っていて犠牲ぎせい者はほとんどいなかったものの、城下の人々は頼芸様が勝手に法要を仕切ったことに天が御怒りなのだと噂されるようになってしまった。



 そして、ぼろぼろの収穫となった10月の稲葉山城に、六角・朝倉連合軍総勢14000が近江と越前北部の両国境に現れたという報が入った。

明日以降の更新は基本的に0時過ぎか、そこで投稿できなければ20時過ぎになると思います。

予めご理解いただきたく思います。

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