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第100話 今川の終焉 上

当初は100話でこの話が終わる予定でしたが途中分割などでずれこんでいます。

 遠江国 向笠むかさ


 北条新九郎氏康・宗哲そうてつ(後の幻庵)・多目ため元忠・大道寺だいどうじ周勝かねかつら20000の軍勢は、斯波の軍勢18000と事前に示し合わせて同日に渡河を行った。北条は富士川を、斯波は天竜川を渡り始めた。この数日前には武田大膳大夫晴信が富士大宮司の大宮城を降伏させ、上流から蒲原に圧力をかけており、その為特に富士川の渡河は妨害もなく行われた。



 遠江に5000、駿河に4000の兵しか残っていない今川義元は、遠江の向笠に布いた陣幕の中で、北条から届いた書状をじっと睨む様に眺めていた。


「駿府城を出て小田原暮らしを受け入れよ、か。街道沿いの城も代官を置き、我らは事実上何も出来なくなる……此れは受け容れられぬ。」


 義元はこのままでは滅びを待つばかりである現状を理解できていた。頼りにしていた武田信虎は現在社山(やしろやま)城の守将として務めているが、つまり援軍を連れてくる勢力はもうない事を意味していた。

 なので、義元は自らの活路を開くためにも局地戦でも良いので勝利を得ようとしていた。


「斯波に……織田に一矢報いて少しでも我らがまだ戦えると思わせねばならぬ。」


 覚悟を決めた義元は、二俣城に兵500を残し、自ら4000の遊軍を率いて斯波の軍勢の弱い部分を叩くべく向笠に陣を布いた。

 見附みつけ匂坂こうさか社山やしろやまの諸城をフォローできる位置にある向笠で、義元は大量の斥候を放って斯波の軍勢を待ち構えたのだ。


 やがて、彼の元に各地の情勢が続々と入ってきた。


「見附城に向かう敵軍は総勢5000。大将は犬山の織田信康に御座います!」

「匂坂城に向かう敵軍は総勢5000。大将は弾正忠弟の織田信光に御座います!」

「二俣城に向かう敵軍は総勢4000。大将は弾正忠家の当主信秀に御座います!」

「社山には備えで500が送られただけの模様!匂坂の軍勢と頻りに連絡を取り合って居ります!」

「斯波義統は天竜川西岸市野に陣を敷いている模様!」


挿絵(By みてみん)


 義元はその報告に耳を疑った。


「確か、斯波の軍勢は総勢18000であったな?」

「其の様に聞いて居ります。」


 答えたのは今川を支える勇将・岡部親綱である。


「天竜川以西に斯波義統は残っているのだな?」

「はっ。二つ引きの旗が確認されて居ります。」


 眉間に皺を寄せる義元。


「今から天竜川を渡る。斯波義統(よしむね)を狙う。」

「殿!?其れは……」

「わかっている。罠の危険性が高い。弾正忠の部隊が此方の動きで南下してくると思っていた方が良い。だが……」


 苦虫を噛み潰したような、どこまでも苦悩に満ちた表情で、彼は部下に告げる。


「其れしか此の状況を打開する術が、ないのだ。社山の備えを狙えば匂坂の軍勢に狙われよう。見附と匂坂の軍勢はそもそも此方より兵数が多い。和睦に有利になる様な勝利は難しい上、敵は無理をしないであろう。」


 二俣城は離れすぎていて向かっている間に南部の見附か匂坂が落とされかねない。


「敵軍が街道付近で渡河している間に一気に浅瀬を渡り切る。朝比奈、兵1000を与える。織田信光と社山へ向かう敵を足止めせよ。庵原いはら、兵700で織田信康を足止めせよ。草の話では此方の指揮に其方が世話していた山本なる男が居るそうだ。利用して時間を稼げ。」

「「ははっ!」」


 義元は腹心の朝比奈泰能あさひなやすよし・庵原忠胤(ただたね)2人を使い敵の足止めを謀る。


 そこに待ったをかけたのは重臣の岡部親綱である。


「殿、お二人を陽動に使っては本隊の兵が足りませぬ。しかも朝比奈殿を本隊から離すのは不安が残りまする。」

「違うな。此処で兵を多く渡河させるのは敵に逃げる口実を与える。斯波を生け捕りするしか打つ手がない以上、彼の者が逃げずに戦おうと思える状況に敢えてせねばならぬのだ。」


 その言葉に一同は沈黙する。改めて状況の困難さを認識させられた為である。しかし、


「なればこそ、此処を乗り切れば流れは変わる。此処が命の賭け所よ。何としても斯波を捕まえ、伊勢と和議を結べれば駿府の力で立て直せる。いくぞ!」

「「応!!」」


 義元の奮起は、諸将の覚悟を促し戦意を現状で可能な限り高めるものとなった。


 ♢♢


 遠江国 長上郡 市野


 斯波義統が大和守家の軍勢と共に3500で布陣した市野は、周辺に比して小高い場所である。周辺の荘園をまとめ市が開かれるため地盤が硬く、東の田園地帯は開けている為襲撃にも強い場所と言えた。

 しかし、今回に限ってはそれが裏目に出た。


 先鋒となった若き勇将岡部元信らが渡河した段階で、織田大和守達勝は細い道やぬかるんだ田んぼの中で戦うのは兵数の利を生かせないと判断して小高いその場所で「待ち」を選んでしまったのだ。


 当然ある程度接近してきた段階で大和守の軍勢は弓矢で先手を取ったが、死すら恐れず目の前の敵を倒すしか活路なき軍勢はそれを物ともせず驚異の突撃で大和守の軍勢に辿り着いたのだ。

 そして、この時点で大和守の軍勢と今川軍の勝敗はついていたと言っても過言ではないだろう。


 丘とはいえ田んぼに囲まれたその地域では退くに退けず。さりとて正面の敵は小勢ながら凄まじい突進力で兵たちを次々と呑み込んでいった。無駄に密集した大和守の兵は身動き取れず戦う以前の状態で討たれる者が続出。逆に今川勢は弓矢をかいくぐれば自分達が有利と先鋒が示した事で益々戦意旺盛となった。


「那古屋弥五郎、討ち取ったり!」

「河尻与一、討ち取ったり!!」


 岡部元信の猛烈な攻めに那古屋一族は当主が討たれた。岡部貞綱や岡部久綱といった同族の諸将も勢いづき、ついに大和守家の宿老の1人河尻与一を討つことに成功する。岡部元信はそのまま北へ延びる道を封鎖。大和守家の軍勢が逃げられる先を武衛がいる方角だけにし、その方角を混乱に巻き込もうとする。


 混戦の中で織田達勝は撤退を命じようとしたが、斯波の武衛が先に逃走路側に僅かに退いて布陣し直していたため動きようがなくなっていた。


「おのれ武衛め!御輿に乗ってさっさと逃げてくれて居れば良かったものを!」


 織田大和守達勝は悪態をつきながら側に控えていた坂井大膳に武衛を退かせるべく命令を出す。彼が数名を率いて陣を出た直後、陣幕が破られ今川兵が雪崩れ込んだ。


「瀬名伊予守で御座る!大和守殿と御見受けする!!いざ尋常に勝負!!」

「松下加兵衛!御命頂戴仕る!!」


 先頭を切ってやって来た若武者は瀬名伊予守氏俊。その後方には弾正忠信秀に自身の城を追われた槍の達人松下加兵衛長則。陣内の兵が慌てて刀を抜こうとするが、


「遅いわ!!」


 松下の槍が一閃で正確に2人の腕に斬りつけ、その動きを防ぐと瀬名の後ろに控えていた兵達が身動きの止まった兵を一突きしていく。


「くっ、三位は何をしている!?甚助は何処じゃ!?」

「逃がさんぞ大和守!我が殿の為首を獲らせてもらう!」


 瀬名勢が一気に大和守達勝に殺到する。馬廻りが防ごうとするが勢いの差と槍と刀での間合いの差に次々と討ち取られる。槍の置き場の傍にいて辛うじて手に取った兵は松下加兵衛に優先的に狙われ、絶望的な力量差からその命を散らしていく。


 1人でもと逃げ出した大和守だが、陣幕をめくった先にも地獄が広がっていた。


「逃がさぬぞ大和守。この孕石はらみいし主水佑もんどのすけが御相手致す!」


 孕石主水佑元泰という名の若武者が数名の兵と共に馬上で槍を奮っており、周囲では既に大和守家の兵が地に伏していた。


 咄嗟に刀も抜けずに動きが止まったところで、孕石が大和守に気づき、その槍の矛先が彼に向かった。慌てて動こうとしたその時には彼の傍にいた兵に囲まれ、足を止めた隙に孕石の槍が大和守の脇腹を刺した。

 呻き声すら出せず、口の中に溢れる血の味すら感じる余裕なく、大和守達勝は追撃で絶命した。


 ♢♢


 四半刻(30分)。


 僅かそれだけの時間で大和守家の軍勢は壊滅した。


 織田三位と坂井甚助が必死に戦線を立て直そうとしたが、坂井甚助はその要と判断され朝比奈信置隊によって討ち取られた。

 織田三位の周辺も総崩れとなり、武衛の部隊と交戦を開始し、瀬名・孕石らが武衛の兵500と戦いだしたその時だった。



 義元は北の方角から腹の底に響いてくる音に気づいた。


「僅かに、間に合わなかったか……!」


 悲痛な表情で彼が見た先、



 斯波の武衛も同じ方向を見ていた。市野から北へと伸びる決して太くはない道が見える。


「やれやれ。ヒヤヒヤさせるな弾正忠。」


 馬蹄が地面を揺らし、土埃が舞うその先から、武衛は視線を逸らさない。そこに現れたのは、


「見事な采配だ。予想以上に大和守殿の兵を討ちおった。其方はわしと吉法師にとって大きな仇となれる才覚がある。故に……」


 木瓜の旗を力強くはためかせる、弾正忠信秀その人の軍勢だった。


「今川義元、例え何があろうと其方の首、此処で討ち取らせてもらおう。」

次の更新は木曜です。申し訳ないですが少しお待ちください。


市野周辺は市野荘という荘園があった場所で後に寺院も造られていることから周辺では比較的兵を並べやすい場所です。

それでも天竜川があるので周辺地域はあまり兵を展開できる場所ではなかったかなとも思います。

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