黒騎士 再会する
ぐるぐると目が回る。瞼は開かずどっちが上なのか下なのかも分からない。私は水の流れに翻弄される木の葉のように、揉みくちゃにされながら流されているような感覚。
そして、とても暑い。気温が高いのか、私自身が発熱しているのかは分からないけれど、暑い。暑すぎて息苦しい。
目が回り、暑くて、息が苦しい。
私は左手を伸ばした、なにかが手に触れるかもしれない。必死に手を伸ばし指先でも手の甲でもいい、なにか縋れるものを探す。
これ以上伸びないくらい手を伸ばすと、指先になにかが触れた。
その触れたものは人の手であったようで、私の手を包むように握り込んでくれる。その手が放してしまわないよう、握り返す。
「……い……だ」
声が聞こえる。でも、ちゃんと聞き取れない。目がぐるぐる回る。
握られた手から暑さが引いていくような感じがして「あれ?」と思っているうちに、体から暑さがなくなって息苦しさが消えた。ぐるぐると回っていた目も徐々に落ち着いて来る。
「も…………し……」
ああ、またちゃんと声が聞き取れない。この手の持ち主の声に違いないし、きっと私を助けてくれたんだろうに。
「ね…………て、わ…………すか……」
なに、なんて言ってるの? 握った手を強く握れば、握り返してくれる。それと同時に強烈な眠気がやって来て、私はそれに逆らうことも出来ず意識を飛ばした。
瞼をあけると世界がぼやけて見えた。
何度か瞬きを繰り返すのだけれど、一向にピントの合う気配が無い。世界は酷くぼやけていて、大まかな色と明るいか暗いかしか分からない。
そう言えば、前にもこんなことがあった気がする。そうだ、騎士団をクビになる前、病院で目が覚めたときもこんな感じだった。
あの時と違うのは、ここが病院ではないってこと。
ぼんやりした頭でここがどこなのかを考えれば、鈍った頭でも思い出すことが出来た。そう、ここは宿屋さんだ。
温泉療養をしていたけれど、そこを出て荷馬車に乗せて貰って紹介された宿屋さん。ひとりで宿泊するには十分過ぎる広さと、設備が整っているお部屋。
「…………!?」
左手が重くて動かせなくて、フッと視線を向ければどなたかがベッドに寄り添うように眠っていて、左手をお互いに握り合っている。
赤みの強い茶色の長い髪、日焼けを知らない白い肌、私の手を握る彼の手はペンを握り続けた痕が大きくある文官らしい手だ。私の視界からでは、男性であることと彼のつむじがふたつある、そのくらいしか分からない。
「……」
この髪の色、どこかで見た覚えがある。私はあまり人の顔を覚えるのが得意じゃない、特に貴族なんて黒騎士団関係者しか関わる人がいないから。
どこで見ただろう、と彼のつむじを見つめながら考えているとご本人が目を覚ました。そして、私と目が合う。深い緑色の瞳だ。
「……目を覚ましたのか、良かった。どこか痛みや違和感を感じる所はあるか?」
低く滑らかな声にも聞き覚えがある……ような気がする。
「…………大丈夫か?」
「あ、いえ。大丈夫です」
自分の体に痛みや引き攣り、感覚の低下や痺れなんかがあるのは当たり前になっている。なのに、今の私の体にはそういう感覚が少ない、全くないわけじゃないけど凄く楽になっている。
きっと目の前にいるこの人が治癒魔法をかけてくれたんだろう。
「完治させるには時間が必要だ。根気よく治癒魔法をかけ、薬を飲み、クリームを使ったマッサージを続けるしかない」
「は、はあ」
「心配はいらない、私が責任を持って治療と機能回復に努める」
な、なんで? なんでこの人が私の治療に責任を持つの?
ってか、この人、誰?
「………………もしかしなくても、私が誰なのか、分かっていないな?」
「……」
「正直に言え」
知的な雰囲気に満ち溢れた深緑の瞳がスッと細められ、「嘘を付くな」と圧を掛けられる。
「……はい」
お返事すると、彼は両手で顔を覆い大きな大きな吐息が漏れて固まった。正直に言えというから言ったのに、固まるなんて。
私はゆっくり体を起こして、彼の反応を待つことにした。
「……本当に覚えていないのだな。その可能性が高いことは承知していたのだが」
「…………んん?」
ゆっくりと私を正面に見据えた人を私も見返す。絶対にどこかで見かけるなり、会うなりした人だということは分かる。記憶にないということは、見かけたりしたのはほんの数回でその後の交流はなかったんだろう。
騎士団関係者ではないことは手を見れば分かる。貴族で、文官系で、私よりも少し年上で……赤茶色の髪と深緑の瞳、貴族らしい整った顔立ち。魔力は優しくて温かい感じが……そうだ、この好ましく感じられる魔力には覚えがある。
こんな心地良い魔力は過去に一人だけで、その人は……
「あ……あの、もしかして……」
もしかして、もしかしなくても……ご本人、なように思われる。ご本人だと思えば、見覚えがあるなー程度だったお顔も婚姻届にサインをした日に見た顔だと思えてくる。
「宰相閣下……、で、いらっしゃいますか?」
六、七年前に一度だけお会いして書類を交わし、僅かな時間お茶を飲んだ、私の書類上の結婚相手。私の夫であった方。
「ようやく分かったのか、リィナ。私がキミの夫、ヨシュア・グランウェルだ。幾らずっと顔を合わせていなかったとは言え、夫の顔を忘れるなんて」
「も、申し訳ございません。宰相閣下は、よく私がお分かりになりました、ね?」
「職業柄、一度会った者の顔と名前と職業や役職などは忘れない」
す、凄い。さすが国を支える宰相様、頭の出来が私とは全く違う。
「その、いろいろと申し訳ございませんでした」
私はベッドの中で居住まいを正し、頭を出来る限り下げた。
今の私は騎士でもないただの平民で、上級貴族である宰相閣下と話しが出来るような立場じゃない。離縁届はもう提出されているだろうから、正真正銘の他人だ。
そんな私に治癒魔法をかけて下さるなんて、我が国の宰相閣下はお優しい。
というか、どうして宰相閣下が小さな港街の小さな宿屋に居るのかが疑問だ。偶然……にしては出来すぎているだろうし、私を探す理由もない。
顔を少し上げてチラリと宰相閣下を盗み見れば、物凄い鋭い目付きで私を睨み付けていた。流石のド迫力、恐い。
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