烏兎匆匆《うとそうそう》のカレンダー
このまま送り出してもいいのだろうか。
何も言わずに、声も掛けずに。
そう思い始めたのは、旅立ちの二週間前。
「お母さん、私一人暮らしする」
私は今日も壁掛けの日めくりカレンダーを破る。
ふう、とため息を吐けば、息白く。寒さがその濃さを増してゆく如月に、娘はこの家を出て行くと決めていたようだった。
電化製品を買い揃えている頃は、まだ平気だった。アパートを内見し契約するもまだ、感じられなかった現実味。
カレンダーをめくり破る。
必要な日用品を買い、洋服を段ボール箱に詰めていく。いくつかの重い段ボール箱が出来上がって、そこでようやく、彼女が生まれ育ったこの家を去るのだと思い至った。
進学? 違う。結婚? 違う。
「ただ何となく」
それが理由。
この家が嫌だったのだろうか。母として、私は嫌われていたのだろうか。
「お父さんなんか大嫌いっ!!」
父親とうまくいかない時もあった。
その間に挟まって、私はどちらの想いも尊重し、意見を擦り合わせてきたつもりなのに。
「お母さんはいつもお父さんの味方だよね」
そう強い口調で言われたこともあったっけ。強い方へと傾き流れる私の性質によって、知らず知らずのうちに娘の方を蔑ろにしていたのかもしれない。
今までの人生は順調で、確かに何かに翻弄された記憶もない。ふと、誰かの後ろをついてきただけなのではと思った。
私がもし、思い通りにいかない人生というものに、気づかなかっただけだとしたら?
考えることを放棄して、迎合しているだけだとしたら?
カレンダーを破る。
ああ。何ということだろうか。娘は成長し大人となり、無我夢中だった子育てはもう終わってしまった。
その今さら感満載のちょっとした気づきに、深く真っ暗なあなぐらに落ちていくような恐怖を感じ、私は立ち止まって恐れ慄いてしまった。
彼女が家を出る。
それがきっかけとなって、自分自身の頭で考える、新たな『自分』が始まってしまったのだ。
私は日めくりカレンダーを前にして、当分の間、動けなかった。そんな私を、娘は怪訝な目で見つめている。
そして、今日。
「身体に気をつけてね。これからはなんでも自分でやらなきゃならないよ」
迷っていたが、そう声を掛けた。
「お母さんもね」
去り際に、娘が笑った気がした。
その後ろ姿を見送ってから私は家の中に入り、カレンダーを壁から剥がして、ゴミ箱に捨てた。
新しいカレンダーを買ってこよう。
ここから。今日この日から。
私の新しい人生が始まる。