婚約破棄には深海より愛をこめて

作者: いえこけい

「ここにリードファリス王国第一王位継承者ルキウスの名において、ノブリス侯爵令嬢との婚約破棄を宣言しよう」


 ブロンドの髪の男は冷淡に、しかし、切れ長の瞳に強い憐憫を宿して会場に声を響かせた。


 ここはリードファリス王国のパーティー会場だ。

 ゆらゆらと影を作る釣燭台(シャンデリア)と、窓から差しこむ満月が会場を照らし尽くしていた。

 その場にいる人々の驚きの表情すら誰にでもわかるくらいだ。


 誰一人として言葉が出ない。


 舞台には身の丈以上の大盾を構える初代国王の彫像が鎮座し、ただ事態を見下ろしていた。


「殿下……、栄ある場で何を!?」


 ようやく言葉が出たのは美しい少女からだった。

 金の髪を揺らし、悲痛な声を上げるのはターコイズブルーの瞳の少女。

 ルキウスと歳は同じくらいだろうか。十四か十五、周囲の人々も同じだ。


 このパーティー会場は学園を卒業した者のみが出席を許されていた。

 リードファリス王国は貴族のみが通える学園があり、彼らはその学園の卒業者となる。

 パーティー会場が夜会のように設えているのも、その場を仕切るのが卒業生と学園生なのも彼らが社会でやっていくための経験を積むためでもある。

 第一王位継承者ルキウス主催の学園卒業パーティーは社会人として、王族として、王位継承者としても夜会を執り仕切れるという証明であり、足がかりの一つ。


 万が一にも失敗してはならない、成功して当たり前の仕事だ。


 にも関わらず、当の本人がパーティーの失敗を宣言したのだからノブリス侯爵令嬢だけでなく、周囲も驚いたのだ。


 やがて、騒ぎを聞いて、別室から卒業生たちも顔を覗かせた。

 扉から見える豪華な食事もこの騒ぎで着々と冷えつつあった。


「ノブリス侯爵令嬢では私の伴侶として、共に歩めないということだ」

「その理由をお聞きしたいのです!」


 婚約者として幼い頃から共にあったと自負があるノブリス侯爵令嬢。

 その自負をルキウスに否定され、胸が潰れそうになった。


 気づいているのだ。


 婚約破棄を宣言する前の最初の一言。

 名前を呼ばずノブリス侯爵令嬢と呼んだ時点でわからないわけがない。


 親しくなければ名前を呼んではならない。

 貴族ほどその傾向が強く、王家はその模範というべきだ存在だ。

 その王子が名前を呼ばないのならつまり、婚約者なのにノブリス侯爵令嬢は親しい存在ではないと言われているのと同じだ。


 それでも縋らずにはいられない。


「私は常、こう考えている。民の幸せについてだ」


 ルキウスは言いながら、ノブリス侯爵令嬢の心から目を逸らすように背を向けた。


「民を見よ。医師は未だ病気の民を救いきれず、数も足りず、そして、技術も足りない。農業を見よ。不作になれば何もできず、ただ少ない穀物を税に上げ、日々の暮らしも覚束ない。産業を見よ。数多の職人たちが作り出す物は優れてはいる、しかし、新たな試行を追求できずいる。王都を出れば道が途切れ、道なき道を行かねばならず、衣服は着たままの者もいる」


 声には悲嘆が混じっていた。


 ルキウスの言うことはある意味、正しい。

 リードファリス王国は特に目立ったものもない、文明的にも進んでいるとは言えない国だ。

 北に少し海に面しているとはいえ平凡、あるいは凡庸と言ってもいい。


 特筆すべきものもないからこそ他国から攻められることもなく、辺境に近いという背景もあって歴史こそそこそこ長いがそれまでだ。

 国が暮らしていける資源があり、ほどほどの国民がいて、文明も各国からみても平均、ならば次代の王はどうなるのか。


 何もできない。


 先に進めず、先鋭化の兆しは一向に見えてこない。

 滅びるほどの腐敗が蔓延する余裕もない。

 ならば両足をしっかり地につけて、今を維持し続けるしかない。

 必然、先代も先々代も保守的だった。


 次代の王もそうなる予定だった。


「足りないのだ。圧倒的に」


 だがそれで何が変わるというのだろうか?


「民が皆、健康で幸せを享受できる社会とはかけ離れている。医師が民の病気の時に駆けつけることができない。不作に対応すべき別の穀物が足りない。安価で大量な生地がない。新たな技術が見つけられない。そうであっても民が懸命に、そして、賢明に努力していることは知っている。皆、日々の生活を営んでいる。それは政策によって生まれたスラム者たちも同様だろう」


 一度はどの王も何かを変えようと必死になって頑張った。

 農業にしても医療にしても政策にしても少し良くなった

 しかし、その分だけ何かが後退した。


 医療に力を注げば農業が衰退した。

 農業に力を入れれば技術が育たなくなった。

 技術に力を加えれば今度は資源が足りなくなった。


 そして、最後には今を維持し続ける選択をした。


「力が! 意識が! 資源も技術も何もかもが足りない。私の代でその全てを変えることはおそらく出来まい。私と同じ考えの元、何世代続けたとしても辿り着かぬやもしれぬ」


 それは歴代が証明していた。

 ルキウスの言葉はノブリス侯爵令嬢もわかっていた。


 王太子妃に必ず行われる王妃教育。

 そこには国内外問わず、政策によって変化するバランスを凄まじい匙加減で調整しなければ成り立たない、そんな高い知識を国内最高レベルの教育で施される。


 故に歴史的な事実をノブリス侯爵令嬢が知らないはずがない。


「だが、それで王になる者が諦めるのか? 諦められないのだよ。民は幸いであらねばならない」

「それでしたらルキウス様の御意思のままに私もまた……」


 その覚悟なくして婚約者になったわけではない。

 幼い頃、意味がわからずとも王妃教育を通して見えてくるものもあった。

 知れば知るほど王妃になる覚悟を固めていった。


 それはルキウスも同じだったろう。

 同じ覚悟、同じ目線で国を想っていたはずだった。


 これでは酷い裏切りではないか。


「ノブリス侯爵は保守派だ。私のこれから行おうとする考えは尊く、そして貴くあるのだが地に足がついていないと言える。革新的であるが故に保守派は反対するだろう。そこに保守派の後ろ盾を得た王妃と歩めるかと問われれば、おそらくお前は意志とは関係なく私の邪魔をせねばならなくなるだろう」


 初めて聞くルキウスの目論見にノブリス侯爵令嬢は表情を隠すこともできなかった。


「許せとは言わぬ。理解も寄り添いもだ。故に謝らぬ」


 そして、次に現れたのはノブリス侯爵令嬢より小さい、線の細い少女だった。

 柔らかい妖精とでも例えればいいのか。

 銀髪金目の少女はノブリス侯爵令嬢から見ても可愛いと思える容姿だ。


「私のこのウィーリッド男爵令嬢シフォンと婚約する」


 ノブリス侯爵令嬢はガラガラと足元が崩れていくような錯覚を覚えた。

 何のためにルキウスを慕っていたのか。

 何のために国を想い、そして、何のための王妃教育だったのか。


 人生の半分を今、ルキウスによって完全に否定されたのだ。

 地に足つくはずもない。


「彼女の考えは革新的だ。全ての国民の教育の義務化、国民の健康の維持に必要な保険制度、育児介護の支援手段、新しい技術の奨励制度、特許制度、新農法の試験的運用化、生産能力の向上のため問屋制と工場制の草案、文化を育て、国民が共通して幸福を維持するために必要な考えを彼女は持っている」


 話を進めるルキウスの後ろから少女は親しげに寄り添い、小さく会釈をした。


「そして、その資源の元となる場はウィーリッド男爵領! そこには膨大な鉄があるという!」


 この言葉ににわかに場を騒がせたのは周囲の子息令女たちだった。


 鉱脈が発見されたとあれば次に来るのは採掘特需だ。

 鉱脈を彫る者たちの流れに乗って商人たちやその特需に乗ろうと国外商人も外貨を背負ってやってくる。

 当然、他領地を横切る行商ルートも生まれ、人頭税だけでも大きく財源に関わってくる。


 もしかしたら他国が技術提供を持ちかけてくる可能性もある。

 そうなれば技術を教えてもらうか、あるいは盗める可能性だってある。


 他領地が湧くのも当然だろう。

 そして、その次代となる子息令女がその意味を理解していないわけがない。


 子息令女たちが若干、気にかかっている身分の差も鉱脈が解決してくれる。

 ウィーリッド男爵家はこの後、鉱脈発見の功績で子爵に、その後の対応次第では最大、侯爵まで用意されている予定だ。


 ノブリス侯爵令嬢はそれら全てが手に取るようにわかってしまった。


 だからこそ何も見えなかった。

 騒然となる場の中央にいるルキウスとシフォンの二人に光が当たっているように見え、対してノブリス侯爵令嬢の周りは真っ暗だった。


 この心はどうしたらいいのだろうか。

 不意に手を伸ばしてしまった。


 その手が届くとは思っていない。


 だけど、ルキウスに届く寸前、指先はルキウス本人によって払われた。


 そんなに強い力ではない。

 しかし、ノブリス侯爵令嬢にとっては決定的な断絶だった。


 足元から力が抜けていき、ふらりと身体が後ろへと引かれていく。


 ルキウスすら驚き、しかし、反射的にノブリス侯爵令嬢を支えないように手を引っ込めた。

 

 ルキウスには資格がない。

 そして、手助けすら彼女への侮辱に他ならない。

 婚約者を裏切ってでも進まねばならないと決めたのだ。


 周りは浮つき、助けられた者は助けない。


 だから、誰も助けられない。


 ノブリス侯爵令嬢は無様に床に倒れるしかなかった。



『素晴らしい意見だ。その全てが叶えば確かに幸せなのだろう』



 深く、水にインクを染みこませたような不思議な声が会場に広がった。


 背中から落ちるだけだったノブリス侯爵令嬢の背中に言いようのない感触がする。

 ゆっくりと背を支えられて地面に腰を下ろして、ホッとした。


 そうして、すぐさま背を振り向いた。



『だからこそ王子よ。王継者よ。吾輩はその意見を否定せねばならない』



 ソレはこの世ならぬ光景だった。



 身の丈は2mを越えるだろうか。

 西海岸にいる巨大魚よりもずっとずっと大きい――10倍、20倍はある怪物だった。

 体躯は濁った青で彩られ、全身をぬめる非人間的な装甲に隙間と言えるものすら見当たらない。

 凹凸の激しい、しかし、のっぺりとした腹部より上部を眺めれば先端には三角形の捕食器官があり、牙にも似た楔状の突起が唐突に上下左右に開き、その小さな穴から汚泥よりも粘性のある泡がその身を伝っていった。

 その泡から発つものか、あるいは全身か、海原の底から漂う血のような匂いがこの場にいる全ての鼻孔を刺す。目元の芯まで残る異臭に反射的に眉を顰める者もいるだろう。

 

 突き出た黒い触覚のようなものはひっきりなしに蠢き、キチン質の角膜は感情もなく周囲を睥睨していた。

 細く映る六本の邪悪な足はかぎ爪のように鋭く、先端は床を砕き、身を支えるには不十分に見えてしっかりと自重を支えきっていた。


 何より目立つのはその両腕だ。

 古の盾のように太い右腕、罪人の頭部を砕くハンマーのように丸みを帯びた左腕は人類のどの部位を持ってしても当てはめることのできない、異形を誇っていた。

 強いて言うのならその両腕はハサミに近いのだろう。


『失礼。初対面の者も多かろう。先に名乗らせていただく』


 その全て、もっとソレの全てを端的に表現するのなら――



『吾輩は深海卿。深海領が領主』



 ――巨大なカニがいた。



『真の名は■■■■■■■■――やはり人語では発音できないか。では改めて深海卿と呼ぶがいい』


 深海卿のハサミはノブリス侯爵令嬢の背からゆっくりと離していた。

 どこまで傷一つつけぬようにと繊細な心遣いが傍から見てもわかる動きだった。


 深海卿を認識し、沈黙をした人々は次の瞬間、彼から遠ざかるように部屋の隅にしがみついた。

 いつ異形のカニが牙を剥くかわからないから、という理由ではない。


 もっと原初の本能。


 巨大なものを忌避し、遠ざけようとする逃走の本能だった。


 混乱する場に警備を任された騎士たちも殺到した。

 しかし、場を見て、ぎょっとする。


『ふむ。人の子は溌剌でよろしい』


 騎士たちは思う。

 「いつ入りこんだのか」「というか会場へとどう入ったのか」「このカニ、人語喋っているけど一体、何なんだ」と冷静な頭で複数の疑問が浮かんでくるが身体は警戒態勢のままだった。


 ルキウスもシフォンもノブリス侯爵令嬢を固まったまま動けない。


 深海卿がガチンガチンとハサミを鳴らせば周囲はさながら岩場から這いよるフナムシの如く、悪寒が全身を舐めた。

 何も気のせいではなく深海卿の威容が問題だった。


 恐怖は伝染し、希望的観測と絶望的妄想の間で揺蕩う精神はギリギリと張りつめた釣り糸のようだったろう。


 その緊張がこう叫ぶ。


 次に何かが起きた時、会場は地獄に変わる。


 そんな予感が周囲を駆け巡っていた。



「ふむ。剛健で何より深海卿」



 緊迫する場に壮年の男性が入ってきた時、新たなる混乱が会場の空気に混じりこんだ。

 男のブロンドの髪に切れ長の瞳はルキウスによく似ていた。ルキウスもあと30年も歳を重ねれば壮年の男性にそっくりになるだろう。


「ち、父上……?」


 リードファリス王国国王の登場に周囲は一斉に『勘弁してくれ』と思っただろう。


 誰も現状を国王に説明できる自信がない。というか国王が来た意味もわからない。

 難題しかなかった。


「父上、お下がりを。今――」


 それでもルキウスは果敢にチャレンジしてみた。

 なんと表現したらいいかわからないのでどもってしまったが、それは勇気ある行いだったろう。


「よい。知己である」


 返ってきた言葉にルキウスが仰天する。

 「え、父上、カニが知己なの?」と反射的に聞き返しそうになって、しかし、意思の力によってなんとか喉元で押しとどめられた。


「わからぬという顔だ。では説明をしよう。かつて北の海で余は一人、釣りをしていた。あの日はそう、曇天が立ち込める重い日だった……」


 威厳ある言葉が国王から紡がれた。


 国王の説明を要約すればこうだ。


 毎日、毎日、匙加減の微妙な政治に疲れた国王は城を抜け出して、趣味の一人釣りに没頭することだけが国王の心の支えだったという。

 この時点で近衛騎士団長と城の警備隊長が責任問題で自殺しかねない話だが、まだ序盤だ。

 その日もストレスが限界だったため、天気も悪いのに一人釣りに向かった国王は大きな当たりに出くわした。

 まるで根掛かりしたかのようにビクともしない竿。

 何度か海に引き釣りこまれそうになりながら、曇天はやがて雨となり嵐となっていった。

 王妃と健康状態を維持している侍女の胃が痛くなる話だがやっと中盤だ。

 やがて国王の腕が大きくしなった時、そこには巨大なカニが釣り上げられたという。


「生涯、忘れられぬ戦いであった――」

『真に称えられるべき釣果であろうな――』


 釣果のカニが釣り人を賞賛するという時点で何人かの令嬢が意識を失ったが、まぁ細かいことだろう。


 つまり、カニと戦いを通して心を通じ合わせた国王は、カニに領地を与えたという話だ。

 勝手に人外と友好を結び爵位を与えているのだから大臣各位は頭を抱えて発狂したくなるだろう。実際、相談された宰相は鼻からお茶を吹いた。


「もっとも深海卿はすでに領地を持っていた。むしろ隣国の王族というべきであろうな」

『だが陸で吾輩に何の権限があろうか。戦友の契りを持って陸では爵位を、海では王国を名乗ることとなった』

「もっとも余は海の王国にはいけぬからの。もっぱら呼ぶのは深海卿だけとなる」


 かんらと笑いあう国王とカニの光景に、幾人かの令息が吐きそうになっていた。

 もう色々とお腹いっぱいなのだろう。


 ルキウスは茫然と、シフォンはオロオロとし、ノブリス侯爵令嬢に至っては魂が抜けたような顔をしていた。

 特にノブリス侯爵令嬢は立ち上がることもできず天井を見上げ続けていた。


『さて。王子よ』


 深海卿のキチン質の瞳がグルンと動き、ルキウスを射竦めた。

 わりと怖かったのだろう。怯えは隠し切れなかった。


「な、何用か深海卿……?」


 ルキウスはカニ相手に卿呼びをすることに深い眩暈を起こしそうになった。


『先の王子の言葉だ』


 言われルキウスとシフォンはノブリス侯爵令嬢に視線をやった。

 ノブリス侯爵令嬢はまだ帰ってこられないようで魂は中空を彷徨っていた。


『吾輩の深海領は王子の言う全ての制度を備えている。それだけではなくより進んだ制度を敷き、おそらくこの国よりも数段、栄えていると自負している』


 国王がいる前で暴言ともとれる言葉だが、そこには嘲りや侮りはない。

 ただ口からブクブクと泡を吹いているだけだ。怖い。


『全ての制度の他に全ての領民が仕事に就く制度、領民の種族、特性に合わせた適職制度、皆、社会のために一丸となり、大きな利益を生み出している』

「やはりか。しかし、私たちよりも革新的な制度を実施している領があろうとは……。素晴らしいな」


 諸々の現実はとりあえず見ないフリをしたルキウスは深海卿の言葉を吟味し、その利点に微笑んだ。


 政策でもっとも面倒な部分とは政策前後のデータを纏めることだろう。


 何が改善され、何が改悪されたのか主観ではなく客観的な数字や変化を情報に変え、改悪されたのであればどういう変化を加えるべきかと精査し、そしてまた情報を入手しなければならなくなる。

 変化の少ない部分や条件も加味すれば、下手をすれば一生分の仕事になりかねない。


 この無限のような積み重ねは必ず行われなければならず、無視することもできない。


 しかし、もしも先んじて政策後の情報を入手できるとすれば?


 面倒な仕事が大幅に減る。

 それだけではなく空いた人的リソースを別の事業に割り当てられる。

 ドン詰まりの王国にとって渡りに船だろう。相手はカニだが。


 深海卿の協力が必要だ。

 この場の混乱を鑑みても深海卿の存在は幸運だ。

 そう考えてみるとカニも意外と悪くないと王子は喜んだ。


 数瞬後、カニに好意を抱いた自分に死にたくなるような嫌悪感を覚えてしまったのはご愛敬だろう。

 彼の名誉のために言うが、これは理屈ではなく本能だ。


『賞賛は嬉しいものだ。だが、その結果を述べようか』


 一方で深海卿の声は静かに沈殿していた。


 まるで懺悔のように聞こえた者はどれだけいただろう。

 少なくとも途中から意識を取り戻したノブリス侯爵令嬢にはそう感じられた。


『我が領民は皆、社会のために生き、社会のために死ぬようになってしまった。社会に貢献できない老個体は殺され、卵であろうとも障害があれば潰され、新たな養分となる。社会に尽くすのが当たり前であり、幸福は特別ではなく義務になり、社会に尽くせない者は反逆者となり、反逆者は養分となるのが幸福になった』


 深海卿のショックから立ち直れた人々はその冒涜的な政治体制を聞いて、理解するたびに蒼褪めていった。


 内容が良く理解できない者であっても『老個体』『卵』『栄養』『幸福』『義務』と単語を拾うだけでイヤな予感しかしなかった。


 それは一つのディストピアだった。


 個人の主義主張、自由などにはゴミ以下の価値しかなく、社会こそが優れたる規範であり社会に組み込まれることこそが価値となる世界。

 好きや嫌い、苦手、得意、そうした気持ちは汲み取られず、その事業に適しているのならば未熟な個体だろうがどんな死にかけの個体であろうが関係なく、成果だけを求められるのだ。


 不適格と見做されたらもう終わりだ。

 覆ることもなく、海底の養分として腑分けされ、殺される者からも抗議の声はない。

 当たり前に殺され、次の部品のための部品になろうとするのだ。


 もちろん、適切であるのならば社会は厚く手向かえ、医療も優先的に受けられる。

 しかし、よい部品として長持ちするためのメンテナンス以上の意味はない。


 食事にしてもその味は最悪だ。

 ただし栄養価は非常に高く、安価で大量に生産でき、海の家畜にも使えるとくればこれ以上の効率的な食事はないだろう。


 ありとあらゆる幸福を排除した上に成り立つ幸福の義務。


『吾輩たちはきっと疑いはしないだろう。社会の存続が最大の幸せと。多様な種族でありながら多様さを組み立てて、一つの社会を作った時、多様性が失われていたのだと吾輩たちは気づかなかったのだ』


 語られる度に非人間的な社会に鳥肌が立つ。

 そして、この場にいる深海卿はそんな社会より現れた者だ。


 彼にとって目の前の社会――『貴族社会』はどう映るだろうか。


 少なくとも非常にムダの多い、養分にされる者が多い世界だろう。

 そう見做されているかもしれない、想像するだけで目の前のカニが化け物にしか見えない。見た目は巨大化けガニなので見た目も想像も間違いではないのだが。


『国王陛下に釣られ、海原の空へと上がった吾輩は初めて陸の世界を見た』


 もしも深海卿から語られる陸の世界が醜悪だとしたら。


 深海卿との闘いに発展するかもしれない。

 しかも、その戦いは国同士の戦い、政治や思惑の絡んだものではない。


 社会と社会が殺しあう、生態系が生態系を殺し尽くす、原初の闘争。

 生存競争になる。


 どちらかが滅びるまで戦いあうことになるのだろう。


『貧しく、劣っていた。単純なことすらできず、気づかず、そして、誰も是正しない未熟な社会。社会よりも個人を優先し、それぞれの利益を得ることに腐心し、格差によって隔てられ、命の軽い、同胞すら騙す醜悪な社会……』


 知らず、ルキウスとノブリス侯爵令嬢は唾を嚥下(えんげ)した。

 シフォンに至っては現状、王国にはあの甲殻を貫く武器がないことに気づいて、震えが止まらなくなっていた。


 ただ国王だけは寂しく目を伏せた。


 誰もが木の皮を味わっているような気持ちだっただろう。


『心に去来したものは素晴らしいと囁く、動く心であった』


 深海卿は異形の神に祈るようにハサミを前で合わせ、神妙な声が響いた。


『苦しくとも笑顔があった。病に苦しむ母を失い泣く幼子が居た。父を殺され憤怒する息子がいた。子を亡くし憎悪に染まる男がいた。子を探し裸足のまま歩き続ける女がいた。生存の無事を喜びあう友がいた。新たな服を着て喜ぶ貴族の子がいた。兄のお下がりを喜ぶ平民の子がいた。何度も熱を浴び目が見えなくなった職人が居た。その職人を師事する若い職人がいた』


 ソレを全て見た者はこの場にはいないだろう。

 深海卿はここに来るまでの間、全てを見てきた。その様子が後世、様々な都市伝説として残ることは余談だろう。


『国を想うが故に婚約を破棄する者がいた』


 ルキウスは未熟だ。

 第一王位継承者としての責務を握りしめ、数々の王の苦境を打破するために足掻き、一人の少女を傷つけても民を愛することを選んだ。


『その気持ちを知り、それでも抗う手があった』


 ノブリス侯爵令嬢は裏切られた。

 国を憂慮し、しかし、ルキウスを愛すべきだと信じ、王妃教育を受けきった。苦しみこそが未来を明るくすると信じ、裏切られてもなお信じようとした。


『今を打倒する案を出し、全てを慮って何も言えない声があった』


 その二人の気持ちを知り、何も言えないシフォンがいた。

 改革は国にとって必要なことだ。どこかで誰かがやらねばならず、そのためにルキウスと婚約することに戸惑いと憂いがあった。

 かけられる声などないから今も身を縮ませたままだ。


『ここには深海にない自由がある』


 その奔放なる心が深海卿には眩しく、熱く感じた。

 もしもその熱量が身を焼いていたのなら甲殻は真っ赤に染まっていただろう。


『ノブリス侯爵令嬢』

「は……、はい」

『その哀しみを耐えろと言わぬ。声をあげて良いのだ』


 ノブリス侯爵令嬢は数瞬の思考の空白を経て、慰められていることに気づいた。


『心を乱すことを良しとしない厳格な姿勢は見事ではあるが、張り裂けそうな心を無理に閉じこめてはならぬ。吾輩の甲殻で良ければ見えぬ涙を拭う助けをさせてくれないか?』

「あ、いえ、それはちょっと」


 甲殻は涙を拭うには適してないので普通に断った。

 あと近くで見るとやっぱり怖いのだ。


『残念無念』

「え、っと……、はい。深海卿のお言葉、誠に心に沁みました」

『海産物だけにかね?』

「その冗談はちょっとわかりかねます」


 深海卿の冗句はちょっとハイセンスなのだ。別の言い方をすればアナーキー。


「でもありがとうございます。お優しいひ……、深海卿」


 人と言いかけて、無理やり軌道修正したノブリス侯爵令嬢だった。


『……ふむ』


 深海卿はゴソゴソと甲殻の隙間にハサミを潜りこませるとノブリス侯爵令嬢へと先端をゆっくり差し出した。


 ハサミの先端にあるのは海の匂いが凝縮した、緑のぬめるモノだった。

 まるで差し出すような仕草をされたノブリス侯爵令嬢は頬を引き攣らせながら緑のぬめるモノを両掌で受け取った。


『やはり少女の微笑みには■■■■が一番、良く似合う』


 現実はノブリス侯爵令嬢の引き笑いなのだが、硬質的な眼では若干、違いがわからないらしい。


 ぬめっていた。

 なんかもうスライムで手洗いでもしているかのようにぬめっていた。


 しかも、よくわからない異常な名前を聞いたせいで物体の正体がわからない。

 心臓がドキドキしているのは決して恋ではない。間違いなく物体のせいだ。新手の麻薬かもしれない。


 今すぐ物体を放り出したい気持ちになったが、優しさからもらったモノを本人の目の前で捨てることができず――できなかったことに愕然とした。


 侯爵令嬢として、物を床や机の上に捨てるわけにはいかないのだ。

 誰かに渡すということはすなわち犠牲者を増やすこと。どんな悪心の持ち主であってもやってはいけないラインというものはある。ましてやや善人気質のノブリス侯爵令嬢には無理だ。


 どこに置いたらいいかわからない以上、ずっと物体を持ち続けなければならない。

 軽く地獄である。


『吾輩も国王陛下と出会わなかったのなら、今でも深海領で社会の一部として幸福であっただろう』


 絶望で目をグルグルさせているノブリス侯爵令嬢は放っておいて、ゆっくりと床以外を傷つけぬように深海卿は身体を動かす。

 そのキチン質の眼はルキウスとシフォンを捉え、腹部を見せた。


『王子よ。民の幸いに心苦しむ若者よ。急くな』


 また声をかけられたルキウスは若干、眉を下げた。

 慣れたとはいえ心臓に悪い。

 シフォンは若干、歯がガチガチと鳴っている。


『すべての社会は土台がなくては成り立たぬ。資源、人、技術、何一つとして土台なくして成り立たず、そして、継がれ続けることのできないものだ』


 土台とはすなわち心である、と理解できた者がどれだけいただろう。


 わからなくともいい。

 逆にわかってもいいのだ。


『今の貴族社会に王子のいう社会制度は土台を壊す巨躯の建物よ』


 その土台が例え脆く、儚く、一時のものだとしても。

 無数の土台の上に成り立っているとしてもだ。


『そして、惑うな若人よ。民の幸せは王だけが成すのではない。苦境を幸いだと吠える民の多様性を失ってはならぬ。可能性を狭めてはならぬ』


 可能性を求める心を否定する権利はどこにもない。

 粗製濫造(そせいらんぞう)がこの世に蔓延ろうとも、その中から宝剣が生まれないと誰が否定できるだろうか。


 その宝剣に心動かされた者が新たな何かを生み出すかもしれないことも否定できないのだ。


『一つの物事であっても複数の視点、複数の想いからなる多様性を忘れてはならぬ。幸いと苦しみを切ってはならぬ』


 そして、産みとは苦しみであり、喜びなのだと。

 だから深海卿は海原のような広い声を放つのだ。


 必ず、届くと信じて。


『聡明なる王子よ。例え多様性が世界に氾濫しようとも忘れてはならぬ。そこから一つの形が生まれ、概念となり、そして再び違うものは溢れていくものと。概念を学び、複雑になればなるほど技術や人が育つということを! 吠えよ幸い! 例え概念(テンプレート)に染まろうとも汝らは自由である!』


 深海卿は興奮したのか腕を天に上げ、大きくハサミを開いた。

 その光景に騎士たちは叫びを上げながら剣を抜き、しかし、国王の静止によって剣を震わせるだけで済んだ。


 深海卿は喜んでいるのだ。

 決してカニの威嚇ではない。


 ただより良くのために苦しみを求める者を祝福したいのだ。



『反逆者め!』



 その祝福は一気呵成の声と音が引き裂いた。


 その変化を最初に目の当たりにしたのはルキウスとシフォンだ。


『――ぬ』


 深海卿の腹部に穿たれた穴。

 青い血を滴らせ、深海卿は薄い黄濁色の泡を噴出した。


『貴様は……、■■■■!』


 深海卿の背後であってもキチン質の眼はその姿を映し出していた。


 頭部が赤いタコの形をし、そこから下は人間の姿をした異形の生物の姿を。

 煌びやかな服は陸の名産であり、海にはないものだ。


 直後にして悟る。

 アレは人に寄生したのだろう。


 人の目を誤魔化すためにタコは人間の頭部を食らい、乗っ取ってしまったのだろう。

 手には水中銃によく似た長物を持ち、先端からは謎の赤い煙を漂わせていた。


「その者を逃がすな! 深海卿を襲った一派だ!」


 国王の声で騎士たちが動く。

 それよりも先に深海卿は動いた。

 翻ったと同時に横歩きではなく、一足飛びのような独特な走法で床にヒビを走らせていく。


 謎の水中銃が赤い光を放つ度に深海卿の甲殻に穴が開き、青い血を迸らせていく。


『えぇい、バケモノが!』

『――ふん!』


 勝負は一瞬だった。


 深海卿の振りかぶったハサミは寸分の狂いもなくタコ人間を縦に圧し潰したのだ。


 撒き散らされるタコの破片と人の贓物を見た人々は無意識にせり上がる不快感と恐怖で呼吸がつまり、吐き戻す者も多くいた。


 騒然とした周囲に深海卿はまるで力が抜けたかのようにその場に腹部を床に着けた。


『なんと……、これまでか』

「深海卿! 無事か」


 国王は服が汚れるのも構わずに深海卿に近寄る。


『国王よ。構わぬ。服が汚れるぞ』

「何を言っておる! 友が傷を負っているというのに!」

『……何故ならばこれもまた我が社会における当たり前、そう、社会に背信する者は例え社会の王であっても弑する定め』


 もうハッキリ言って周囲はトップスピードで置き去り中だ。


『最期に、我が領地の葬送にて吾輩を送ってはもらえないだろうか……』


 国王は苦悶し、別れへの覚悟を即座に決めた。

 国を背負う者として表情を改め、背を伸ばす。


「……もちろんだとも。我が莫逆の友よ」

『水を……、我が身が入るほどの器に水を』


 国王も深海卿と同じだった。

 国を、社会を憂い、しかし、どうすることもできなかった者だ。

 前にも後ろにも進めず、社会の必要悪に身を切るほど心を痛めた者だ。


 何も戦っただけが全てではないのだ。

 釣りあげた後の、朝日が昇るまで話し合った海での出来事は国王の心に深く刻まれていた。


「用意しよう。誰か深海卿が入れるくらいの器を持て!」

「は! ちょっと出来かねます!」


 真顔で返事をしたのは近衛の一人だった。

 周囲は国王の命令を反対した愚かさを咎め、られなかった。


「私の命令が聞けぬのか! 余に恥をかか……」


 国王もまた気づく。


 何故なら『2m以上の巨大なカニ』が入る器なんてないからだ。

 普通、そんな巨大なものは作らないし、常備しない。


「……国王陛下、申し訳ございません」

「……うむ。忘れてくれ」


 現実はまぁ仕方ないとしてだ。

 深海卿の願いは叶えてやりたい。


 国王も必死になって頭を回転させるが名案なんて浮かばない。

 何もないパーティー会場で調達できるものではないし、今から用意させては深海卿の容態は危うい。


「あの……」


 シフォンの一言に周囲がザッと目をやる。

 小さく手をあげる姿はまるで物陰に潜む妖精のように見えたが、誰も表現している余裕なんてない。


「……不敬かもしれませんが一つだけ方法が」

「何? 誠か」

「……はい」

「構わぬ。不敬であろうがこの際、目を瞑ろう。して、方法とは」

「初代国王の盾を使ってはどうでしょう」


 シフォンの案と同時に今度は舞台へと視線が注がれる。


 初代国王の持つ大盾。

 それは『人間の姿をすっぽり覆い被せられる』くらい大きな盾だ。


 器として浅すぎるし、深海卿のサイズからすれば小さいものだがこの場で用意できるという条件なら、これ以上のものはない。


 だが、国王が初代の大盾にカニを入れてもいいものか。

 特大の不敬になりかねない、下手をすれば高位貴族たちの機嫌を損ねる可能性もある。

 国王とはいえ無理を通すほどの権威はなく、人望がなければ立ち往かないこともある。


 逡巡は一瞬、思考は永遠にすら思えたが決断はしなければならない。


 そうしなければ名案が近衛騎士たちに不敬と断じられる可能性がある。


「……盾を、深海卿に」


 決断は苦かったが後悔はなかった。


 初代国王の盾は人を守るためにあった。

 後ろにいる者は友であり、大事なものの大事なものだったのだ。


「初代様ならば許してくださろう……」


 もしも初代国王がこの場にいるのなら躊躇いもなく、友のために大盾を与えただろう。


 国王の一言を信じ、近衛騎士が初代国王の盾に触れようとして、少し戸惑う。

 初代国王の逸話を知らない騎士はいない。


 北より現れる悪夢の軍勢に盾を持って民を守ったとされる男の伝説。

 若干、複数名が『北』『悪夢』『守った』のキーワードから『あれ? もしかして初代国王が立ち向かった相手って深海領じゃね?』と思ったが見て見ないフリをした。

 

 世の中、知らなくてもいい真実がある。

 今、この世でもっともそのことを理解しているのはパーティー会場にいる人々だろう。


 大盾に水を注ぐがやはり盾。

 そこまで深くは入りきらない。


 深海卿はずるり、ずるりと蠢き、盾の上でしゃがみこむ。

 やはり盾より深海卿の方が大きいが身体の半分は盾に浸かっている形だ。


「ここからどうしたら良い?」

『温めてくれ』


 言葉に理解が追い付かない。

 いや、意味はわかる。


 深海卿ごと盾に火をつけろ、という意味だろう。

 現に幾人かは理解を放棄し、調理場から持ってきた薪を組み合わせて燃やそうとしている。


 その様子は周囲の人々を一つの感想へと導いた。


『沸騰するくらい、そう、激しくだ。水場に蓋をし、あとは中火でコトコトと煮込むが良い』


 鍋だ、これ。


 パチパチと鳴る火の音だけが現実だと知らせてくれる。

 もう皆、家に帰りたかって布団でも被りたかっただろう。


『吾輩のアスタキサンチンが赤く彩っておる……、ふはは』


 ゆっくりと、ゆっくりと深海卿のキチン質の眼が鈍く黒濁していく。

 うっすらと漂う海の匂いと混ざり、希釈したトリメチルアミンの香りが沸々と胃を突つく。


 匂いが会場に充満する度に現実感の膜がピリピリと音を立てて、捲られていく。

 塩気がある湿度が瞳に沁みて、世界があやふやにさえ見えてくる。


『ご賞味するが良い、我の身を。これぞ我が領地の葬送なればこそ』



 その言葉を最後に深海卿は息を引き取った。



 シリウスもシフォンも、ノブリス侯爵令嬢も国王も、何もかも。


 それぞれ大事なものがあって、それぞれ譲りたくないものがあって。


 自由に幸福を追い求めて、蹴落としあって、縛られて。


 傷つけあって、我慢して、死んで、殺されて。


「私たちは――」


 ノブリス侯爵令嬢は言いかけて、何も言えなかった。

 なんと言えばいいかわからないし、この出来事を一つにまとめることもできなかった。


 ただ何か言わなければならないのに、言いたくもないのだ。


 こんな不自由な心を素晴らしいと叫んだ深海卿を恨み、感謝した。


 やがて、ノブリス侯爵令嬢の隣にきたシフォンはゆっくりと深海卿だったものに近づき、腹部に手をかける。


 ジュッと手のひらが焼ける音にシフォンの顔が歪もうともノブリス侯爵令嬢は彼女を止められなかった。


 力任せに捲った腹部の甲殻から、白い身が飛び出していた。

 純白と鮮赤色が鮮やかな身の色を少し摘まみ、そっと口に添えた。


 それが非常識か常識か、そこにいる者たちには判断つかない。

 貴族令嬢としての慎みに欠ける行為なはずなのにまるで神聖な儀式を見ているようでもあった。


「ノブリス侯爵令嬢……、様」

「なんでしょう」


 シフォンの呼びかけにノブリス侯爵令嬢は反射で答えた。


「私たちは幸福を求めて、幸福に縛られて、幸福を失って初めて自由になるじゃないですか」


 あぁ、なるほどとノブリス侯爵令嬢は思う。


 そのままそっと緑でぬめるものを湯の中に入れ、ハンカチで手を拭う。

 取り切れなかった緑色をそのままにシフォンのように蟹肉を摘まみ、啄むように口付けた。



「なら今の私はきっと世界で一番、自由なのね」

「それは不幸なんですか?」

「いいえ、幸福を失うことは不幸ではないのよ」


 二人、並んで、何の表情も浮かべていなかった。

 ただ何かが通じているように思えた。


「……ごめんなさい」

「いいのよ。きっと」


 聖贄。


「フィーチェって呼んで」

「……はい」


 この瞬間だけ二人はこの世の何ものにも束縛されていなかった。

 今までのことが全て遠い過去のように思えて、ただ茫然と湯気を眺め続けていた。















 なおルキウスは廃嫡された。


あなたは深海より来たる超常の甲殻類を目撃したのでSANチェックです。

1D8/1D20でお願いします。