幕間
時間軸上では後になる話です
巨大な門を前にクリアーナは唾を飲み込む。
今日からここで働かせてもらうということになってはいるが、それでも今までの職場よりも大きい館ともなれば緊張してくる。さらに今まで仕えていた主人の格よりも上だ。
クリアーナは横目でチラリと門の左右に控える帝国騎士の姿を確認する。
不動の姿勢を維持したまま動かない騎士の姿は、拒絶するような何かを感じさせた。
――やっぱり止めておけばよかったかなぁ。
クリアーナの前に立つ館の主人は、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯と呼ばれる貴族だ。
つい最近貴族位に昇ったと言うことで、どんな人物かなどの詳しい情報はクリアーナも知らない。前の主人に聞いても大したことは教えてもらえなかった。
ただ、帝国の頂点に座す、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクス皇帝陛下に続く地位の人物であり、帝国貴族社会における台風の目ともいわれるべき存在だということだけは聞けた。
他にも凄い魔法使いだとか、貴族の力を削いでいる皇帝陛下が恐れから高い地位を与えたとか、キラキラ輝いているとか、眉唾な噂話はクリアーナの耳に入り込んできている。
実際のところはさっぱり分からない、そんな貴族だ。
この門の向こうに、クリアーナと天と地ほども地位が違う人が待つ、と思うと気が重くなっていく。
しかし、立候補してしまった以上、逃げることは許されない。そんなことをしでかせば推薦状を書いてくれた前の主人に迷惑が掛かる。さらには悪い噂を立てられた上での無職だ。
次の職場を見つけるのが非常に難しいだろう。
マイナス的な意味合いで意を決し、クリアーナは騎士に向かって歩き出した。
◆
クリアーナはメイドである。
メイドといっても多種多様なメイドがいるが、仮に階級をつけるのであれば上位のメイドという地位につけるだろう。
まず生まれが良い。
よく勘違いされがちだが、一般人がメイドになろうと思ってもそう簡単に成れるものではない。貴族など高い階級の者に仕える以上、教養や礼儀作法は必須だ。さらにはそういった場所で働くことに対する保証なども必要となってくる。
ではクリアーナはどのようにその辺りの諸問題をクリアしたか。
クリアーナの名前はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックと言い、歴とした貴族階級の出身だ。かなり下の貴族であり、貴族ということがおこがましい程度の家であるが。
しかし貴族の生まれであり、家に汚点が無いという事は、十分に身分の保証となってくる。
では次に教養や礼儀作法、特にメイド仕事を学習するかだが、これは彼女の母親が教師となって指導してくれた。
クリアーナの母親は元々大貴族の家でメイドとして働いていたため、自分達の娘達にメイドとしての教育を幼い頃から施したのだ。
これは慧眼だと言うほかないだろう。
下級貴族という地位を最大限に使え、最も未来が広がるように子供達を育て上げたのだから。
そういったことよりクリアーナは幾つかの問題をクリアしていた。
次にメイドとして逃げられない評価がある。
それは顔――美醜だ。
どんなに言葉を綺麗に飾ったとしても、やはり美醜の面で劣る者はそれなりの扱いを受ける。雇う側の貴族でもやはり見栄えが良い女性を集めることは、一つのステータスとなるのだから。
同じ職場でも表の仕事と裏の仕事に篩い分けられるようなものだ。
そしてクリアーナの美醜はどうかといえば、これは……及第点をあげても良いだろう。
決して美女ということは無いが、ほのぼのとした顔立ちをしている。特に特徴的なのはそのぱちくりした目だろう。
そのためか、前に仕えていた貴族に安心できる顔立ちと言われたことがある。ただ、これはクリアーナからすれば喜んで良いことかいまだ不明だが。
◆
帝国騎士に案内され、クリアーナは一つの立派な扉の前に立つ。本館を抜けてきたために左右に同じ扉が並んでいた筈だが、緊張のあまりに周囲を見渡す余裕は無かった。そのためこの館で最も立派な扉のようにも思える。
奥にいるのはかの大貴族、辺境侯だろうか。
数度呼吸を繰り返し、心が些少でも冷静さを取り戻すのを確認しノックする。
「どうぞ、お入りください」
中から返答が聞こえる。
女性?
辺境侯は男性であったはずだ。ではその傍に仕える者の声だろう。
そう納得するとクリアーナは唾を飲み込み、扉を静かに開けた。
「失礼いたします」
そこは応接室だった。中にいるのは2人。
そしてクリアーナは続く言葉を失った。目を何度もぱちくりさせる。
そんな来訪者をどう思ったのか、部屋の中にいた人物が先に声を上げた。
「はじめまして、私はこの館で働いているメイドのルプスレギナと言います」
待っていたのが辺境侯では無いとかの考えはどこかにすっぽ抜けた。
クリアーナが何も出来なくなった理由、それは出迎えたメイドがあまりにも美しかったためだ。
クリアーナが見てきたどんな女性すらも及びもつかない美貌の持ち主。
普段であれば暫く絶句したままだっただろうが、メイドとして受けてきた教育がクリアーナの意識を取りもどさせ、返答させる。
「フラベラ伯爵家より紹介されてまいりました、クリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。よろしくお願いいたします」
深いお辞儀をし、頭を上げたクリアーナは手に持った紹介状を誰に渡すべきかと視線を動かす。
しかし室内にいる相手は目の前のルプスレギナを除けば、もう一人しかいない。
そちらの人物も女性だ。
帝国人によく見かける金の髪は肩口ぐらいで綺麗に切り揃えられている。
顔立ちは整っているが、目の前に絶世の美女がいることを考えれば、まぁまぁの美人だとしかいえない。
服装は私服であり、色は落ち着いたもの。ある程度裕福な街娘が着るような仕立てで、決して貴族が着るものではない。
足元に置かれた鞄、そしてそのピンと背筋を伸ばした立ち方。そういった諸々から彼女の正体は当然見えてくる。つまりは彼女もまたクリアーナと同じメイドなのだろう。それも今日から働くこととなった。
ならば紹介状を渡すべき妥当な相手は、目の前のルプスレギナしかいない。
「こちらが紹介状になります」
差し出した羊皮紙をルプスレギナは受け取ろうとはしない。困惑したクリアーナにその理由を答えた。
「紹介状に関しては後ほど上の者が受け取る手はずとなっております。取り敢えずはそれはそのままお持ちください。私は部屋の方に案内するよう指示を受けただけですので」
え、そんなんでいいの?
クリアーナは疑問を抱くが、自分の先輩であろうメイドがそういう対応をする以上、そう納得するほかない。
「畏まりました」
「本来であればお掛けくださいと言うところですが、直ぐに移動しましょう。その前に、貴方とこの子で同室と言うことになっています」
指し示す先にいたのは、予想の通りもう一人の女性だ。
「同室になりましたパナシス・エネックス・リリエル・グランです。よろしくお願いします」
「私はクリアーナ・アクル・アーナジア・フェレックです。こちらこそよろしくお願いします」
互いに頭を下げあい、ちゃんとしたメイドの教育を受けている人のようで、クリアーナは内心で安堵する。メイドというのは専門職ではあるが、中には変なのもいる。そういう人間と同室になったりするともう最悪だ。この館ではそう言った心配がなさそうな雰囲気で、クリアーナは安堵の息を軽く吐く。
「それではあなた方の部屋へと案内しますね」
ルプスレギナに先導され、クリアーナとパナシスの2人は別館まで案内される。
別館が本館に比べて劣るのは当たり前だが、案内された別館はこれまた見事な館だった。
通常の貴族であれば本館と言っても過言ではないだけの立派な作りだ。辺境侯という地位についた貴族の権力をまざまざと見せつけてくれるようだった。
驚く二人を後目にルプスレギナは館に入り、どんどんと進んでいく。二人も慌ててそれに続いた。
やがて幾つかの扉の前を通り越し、一つの扉の前でルプスレギナは足を止める。そして二人の顔を見渡した。
「ここがあなた方の部屋です。この部屋にある全ての家具は2人で仲良く使ってください。仕事着は衣装ダンスの中にあります。サイズ等は問題なく合うはずですので」
少しばかり違和感のある言葉に、クリアーナは内心で頭を傾げる。
それはパナシスも同じだったようで、ルプスレギナに問いかけた。
「仕事着の準備が終わっていると言うことは、私達が来ることをご存知だったと言う意味でしょうか?」
「いえ、違います。メイド服は全て魔法が込められています。存じているかは分かりませんが、魔法の装備品は着る者の体格に合わせて変化しますから」
一瞬だけ何を言っているんだろうとクリアーナは思った。
魔法のアイテムは大抵が高額なものとなる。貸し出すメイド服にそんな価値をつけてどうすると言うのか。
パナシスも同じであったようで、少しばかり口が開いていた。そんな2人の動揺を知ってか知らずか、ルプスレギナは説明を続ける。
「ご主人様への紹介を含めまして、他のメイドたちとの紹介等、後ほど誰かが呼びに来ると思いますので、それまで室内で大人しくしていてください。最後にもし何か問題や疑問等ありましたら、後ほどユリ・アルファメイド長代理補佐指揮官隊長殿に告げてくれれば対処してもらえると思います」
「メイド長代理補佐指揮官隊長殿……ですか?」
困惑して問い返したクリアーナにルプスレギナは笑顔を向ける。
ルプスレギナが浮かべた満面の笑顔は、女のクリアーナが引き込まれてしまうほどの華やかな美しさを放っていた。
「じょーだんっすよ」
まるで別人ではと思われるような、冗談めかした口調でそれだけ言うと、さきほどのメイドに相応しい表情に戻った。
その急激な変化は驚くと同時に、ルプスレギナという女性にあっているようにクリアーナは感じた。
「ユリ・アルファメイド長代理です。では私はこれで下がります。お疲れ様です」
本当に簡単な説明だけで終わらせると、踵を返して歩き出すルプスレギナ。幾つかの疑問や聞きたい点などは残るが、後ほど告げるように言われてしまっては聞くのも失礼だ。
2人は顔を見合わせ、同時に扉に視線を向ける。
「私が開けますね」
「よろしくおねがいします」
パナシスが静かに扉を開き、隙間から顔をのぞかせる。
そして動きを止めた。数秒の時間が経過し、パナシスが驚愕の表情でクリアーナに振り返る。そして感心したように呟いた。
「すっごいわよ、これ」
思わず好奇心を刺激されたクリアーナは爪先立ちに後ろから覗く。
そして思わず瞠目した。
立派な調度品の数々が置かれ、窓には曇ってはいるがガラスがはめ込まれている。最も目を引くのが二つ置かれていた立派なベッドだ。
清潔な純白の布団が掛けられ、入り込んでくる日差しで輝いているようだった。
それはまるで二人が掃除する貴族の部屋のようだ。
「……本当にこの部屋を使っていいの?」
「さっきそう言っていたけど……」
「イジメの一環で罠に嵌めるとか。実は間違えて案内したとか」
ありえる、と二人は顔を見合わせる。
これは貴族向けの来賓用室ではないのだろうかという思いが頭をよぎる。
貴族の娘が行儀見習いの一環として働いているような、特別なメイドならともかく、クリアーナのようなメイドにこんな素晴らしい部屋を用意するわけがない。
壁は石造りで冬は寒く、日差しは入ってこない。薄暗さと湿気によって空気が悪くなるような、そんな部屋が単なるメイドの部屋としての相場だ。それからすればあまりにも違いすぎる。
チラリとクリアーナはパナシスを横目で見る。そしてパナシスの視線とぶつかった。
「あっ」
「……あははは」
「……つまりは」
「……そっちでも無いということね」
どちらかが特別なメイドという線は外れだ。
「取り敢えず確認してみましょう」
「何処を?」
不思議そうに問いかけたクリアーナに、パナシスは指を衣装棚に向ける。
「あの中にメイド服が入っていたら、私たちの部屋の可能性は高いわ」
「なるほど!」
二人はお互い頷きあうと、部屋に入る。
あまりにも綺麗にされているためにおっかなびっくりだ。
そして衣装棚を開け放った。そしてそこにメイド服が数着揃えられているのを確認する。
「……と、いうことは?」
「嘘……、ここが私たちの部屋なの? 本当に?」
驚きが理解を生み、それが脳内に浸透するにつれ二人の顔は一気に変わる。喜色満面へと。
二人は夢の世界にいるようにふわふわとした足取りで部屋を横切り、最初に向かったのはベッドだ。そして勢いよく飛び込む。
「すっご! ふわふわ!」
「うわー、沈みそうな感じがするけど、マットレスがしっかりしているから気持ち良い!」
「肌触りも最高!」
「なにで出来てるの! きもちいー!」
「すごいすごいよ!」
「さいこー!」
しばし転げ回り、一息つく。
まるで憧れた貴族の生活のようだ。
もし相手がいなければ貴族の令嬢ごっこでも、子供のようにおこなっていたかもしれない。2人は天井を見上げ、心の底からの感嘆の吐息共に呟く。
「あー、さいこう」
「うん、さいこう」
「ちょう、さいこう」
「すっごく、さいこう」
どちらかとも知れず、二人はくすくすという笑い声を上げ始めるのだった。
■
辺境侯の館で働き出し、クリアーナは毎日、無数の驚きに直面した。
まず驚きの一つは、この別館がメイドや警備の騎士たちに宛われた建物だという事実だ。この大きく立派な館を一つメイドたちの部屋として使うという意識がまず信じられない。
メイドたちを一部屋に押し込め――二段ベッドを使用させて――部屋を開けるということをしないのだ。
更に湯浴みだって暖かい湯が張っている。
普通の貴族の屋敷であれば、メイドとして人前に出る場合もあるのだから、当然湯には入れてもらえるが、大抵は冷めた残り湯だ。主人や上の人間が入った後、燃料が勿体無いから沸かさないために、冷えるのは当然だ。
しかし辺境侯の館では違う。
しかも一つの湯に皆で順番に入るのではなく、本館と別館でそれぞれ別だし、別館も男女で別々に湯を沸かせるという形を取る。
こんな燃料の勿体無い使い方は普通の貴族はしない。
湯を沸かせる魔法のアイテムもあるが、それは高額だし、普通の貴族はそれを複数持つぐらいならもっと別のところに金をかける。
それらの常識が辺境侯には当てはまらない。
桁の違う圧倒的な財力を見せ付けられるようだった。
そして食事だって残り物では無い。いま作りましたといわんばかりの暖かい食事をしっかりと食べさせてくれる。
しかもパンはある程度は食べ放題だし、柔らかなお肉の入ったスープもお代わり自由。新鮮な果物もついてくる。
更に晩餐の残りでしか食べたことの無いような肉料理も、時折出てくるのだ。まるで自分がメイドではなく、裕福な貴族の令嬢になったような感激をクリアーナに味あわせてくれた。
そして何よりクリアーナを驚かせたのは、貴族が使いそうな見事な食器を使わせてくれることだ。初日、壊したら大変だと怯えるように扱った記憶は懐かしい。いや、いまでも時折怯えてしまうこともある。
壊したら確実にクリアーナの一ヶ月分以上の給料が飛びそうな食器で食べる時は。
まだ驚いたことは無数にあるが、その中で最も心に残っているのは『連休』なるものだ。
辺境侯が取り入れた良く分からないシステムであり、クリアーナは聞いた時頭を捻ったものだが、連休とは仕事をしなくても良い日を2日連続で与えてくれること。
つまりは8日間働いたら、2日も休めるという素晴らしいシステムのことだ。
これはメイドとしてはあり得ないほどの好待遇だ。
貴族の階級が高くなればなるほど、そこで働く者の待遇が良くなる傾向はあるが、辺境侯の館の待遇は常識を越えたレベルであり、裏を疑りたくなるような領域。
実は売り飛ばすために、良い生活をさせているんだよと言われるほうが納得できる、そんな最高の生活だった。
ではその好待遇が仕事の過酷さに出るのかというとそうではなかった。
あまりメイドの数がいないので一人辺りの仕事量は必然的に多くなるが、それでも待遇から考えれば遙かに釣り合わない程度だ。
それに仕事量が多いだけで過酷な仕事はない。
基本的に仕事は別館勤務であり、本館での仕事は簡単なものばかりを任せられる。本館での大半が掃除だ。
非常に高額なものの掃除が多いので、心臓がバクバクいうがそれ以上のことはない。きちんと丁寧に仕事をこなしていれば誰からも文句を言われたりはしない。
本館では、ことが済めば追い出されるように別館に移動を命じられ、メイドとしてのプライドをチクチクと刺激されはするものの、そういったことを考えてもトータルとして素晴らしい職場だった。
クリアーナは一日の仕事を追え、自室へと歩みを向けた。
夜にもなれば館は暗がりに包まれ、月明かりが取れない曇天の日にもなれば廊下を歩くのが億劫になるのが当たり前だ。貴族であれば魔法の明かり等なんらかの照明器具を用意するのが基本ではあるが、普通はメイドたちの生活環境の場まで用意してくれることは少ない。
しかし、この館においては違う。
クリアーナは手に持った魔法の光源を高く掲げる。
周囲に照らし出された白色の光が、昼間と変わらない明るさをもたらしてくれた。
そう。メイドたちには魔法の明かりが各々貸し与えられるのだ。
これ一つを売り飛ばすだけでかなりの金となるだろう。もちろん、そんなことは恐ろしくて出来ないが。
「ほんとうに辺境侯って財力がある貴族なのね」
感心しているクリアーナの横で、同じように自室へと向かっていたパナシスが言葉を紡いだ。
同じ部屋になってからというもの、2人はセットで仕事を与えられている。
一日の労働で疲れた体ではあるが、共だって歩むものがいると元気が沸いてくる。
2人は大きくならない程度の声で会話をしながら、廊下を歩く。
パナシスと同じ部屋で暮らして数日にもなれば、ある程度は互いのことが分かってくるし、お互いの家庭環境なども話題に出る。
クリアーナが知る限り、パナシスも下級貴族の出身で、両親と妹がいるそうだ。
さらには妹が帝国魔法院で勉強しているために、魔法のアイテムのことも家族の話題に上がるため若干は詳しい。だからこそ魔法のアイテムなどを貸し与えられているということが、どれほど財力的に桁が違うことなのかクリアーナよりも詳しかった。
「ほんと、妹に自慢できるわ」
ニコニコと笑うパナシスにクリアーナも微笑む。
「あとは人間関係が最高ならもう何も言うことは無いのに」
「パナシス不味いって」
「別館まではあの方々はこないでしょ?」
「うーん、ベータ様は別だと思うけど……。あんまり上の人の悪口はね」
何処の天国なんだろうという職場で、クリアーナが学んだことは幾つかあるが、その一つがメイドとしての格である。
生まれや経験、年齢によって上下関係が生じるのは当然なのだが、この館においてはそれは少々異なった意味合いを持つ。
まずメイドとして上に立つのは絶世の美貌を持つ6人の美女達だ。
ユリ・アルファ。ルプスレギナ・ベータ。ナーベラル・ガンマ。シズ・デルタ。ソリュシャン・イプシロン。エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。以上の6人のメイドだ。
そしてこの6人を纏めているのがユリ・アルファなので、彼女こそこの館のメイドの頂点といえよう。
彼女達6人のメイドは何を言うまでも無く、クリアーナたちとの身分の違いをまざまざと感じさせるものがあった。実際に彼女達の方が上役だと言うのは、この館の執事である人物からの指導でもあったが。
「そうね。ベータ様はこちらに時々お姿をお見せになられるわね」パナシスが周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから言葉を続ける「でもなんで……ねぇ、クリアーナ。あなたこの館に入ってから悪口を聞いたことがある?」
「……それは不思議だよね……」
メイドともいえども人間であり、自分より優れた相手に対して当然、僻みもする。
休憩時間にいない人間の悪口を言い合うのは極当たり前の光景だ。貴族など自分達より地位的にかけ離れて高い人間の悪口は危険なので言わないまでも、同職の中で上に立つ者への悪口は良いおしゃべりの材料となる。
しかし辺境侯の館において、それは無い。
6人の絶世の美貌を持つメイドたちの悪口をいう者が皆無なのだ。
その6人のメイドたちの性格が良いからなどの理由ではない。
クリアーナからすれば6人のメイドのうち、幾人かの性格は最悪の類だ。
それはソリュシャン・イプシロンとナーベラル・ガンマの2名のことだ。
それからすればシズ・デルタ、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータの両名は表情が一切動かないために、人形が歩いているような得体の知れなさに襲われるがまだ我慢できる。
「アルファ様とかベータさんとかは性格がいいのに」
ユリ・アルファは仕事の最中は非常に冷たいが、別館に戻る時間になれば労を労ってくれる。そして最初に会ったルプスレギナ・ベータは非常に好意的な対応を見せてくれる。
それらの人物に対してナーベラル・ガンマとソリュシャン・イプシロンは、クリアーナたちを完全に見下している態度を取っている。同じメイドだと言うのに、まるでお偉い貴族のような雰囲気で応対するのだ。
高みから見下しているようなそんな態度で。
「綺麗だとあんなに歪むのかしらね?」
パナシスがぼそりと呟く。
言葉には出さないが、クリアーナも表情で同意する。
「それとも寵愛を得ているという自信からかしら」
正妻のいないように思われる辺境侯がその6人のメイドに手を付けている可能性は非常に高いと二人とも考えている。
というより手を出していて当たり前だろう。クリアーナの知る限り、男とはそういう生き物だ。
だからこそ悪口が聞こえないのが不思議となる。
出身階級の低いメイドが貴族の愛妾になるというのは、時折聞く話である。そしてそういったものは大抵が勝ち組と見なされるものであり、羨むべき話だ。
鮮血帝の御世になって貴族階級のものたちの権力が削がれたといっても、メイドたちからすれば大貴族の側室(流石に正室を夢見るほど夢見がちではない)はまさに憧れの地位だ。
当然、正室と仲良くやったり、確固たる地位を築いたり、子供を生んだりとそれ以降も努力することは無数にあるし、無理矢理などの例外を除けばだが。
そういう意味では噂が徐々に聞こえだした辺境侯の愛妾という地位はまさに垂涎。裕福な暮らしに憧れる女であれば、誰もが目標にしてもおかしくはない。
クリアーナは既に諦めているが、その夢を捨てきれないメイドは幾人も知っている。さらにクリアーナがこの館に来ると知って、同輩が妬ましげに見ていたのを覚えている。
しかし狙うにしても辺境侯の傍に控えることが出来なくば夢物語だ。
そんな壁として登場するのが6人のメイドだ。
自分の顔立ちに自信があっても、かの6人と比べてしまえば伸びていた鼻は簡単にへし折られる。あれらの女性を前に、自分の方が上だなんて言うことは恥ずかしくて出来ない。
そんな絶世の美女6人を傍に控えさせている辺境侯に声をかけてもらえるはずが無い。実際、クリアーナたちの本館での勤務の殆どが雑務であり、辺境侯などに関する仕事は一切回ってこない。
さらにその6人の誰かが辺境侯には必ず付いているようで、単なるメイドが呼び出されたり、直接に仕事を与えられることは決してない。
クリアーナが辺境侯を見たのはたった一度だけ。この館に来た最初の日に挨拶を行った際のみだ。
6人のメイドがいなければ自分達が辺境侯の傍に控えられると考えてもおかしくは無く、そういった思いから悪口が出るのが普通だ。だからこそ悪口が発生するのだ、普通であれば。
それが不思議だった。
「何を話しているの?」
突然声をかけられ、後ろめたさから飛び跳ねるような勢いでクリアーナとパナシスは振り返る。そこに立っていたのは同じメイド服に身を包んだ女性だ。
豊かな胸が大きく盛り上がっているのが制服の上からでもハッキリ分かる。
彼女は二人よりも僅か先に入った先輩だ。性格も大人しく上品で優しいという、先輩に持つなら完璧という女性だ。それもあって二人が最も親しくして貰っているメイドである。
「せ、せんぱい」
「おど、驚かさないでください」
「ふふ、ごめんなさい」
「明かりも持たないでどうしたんですか?」
彼女の接近に気がつけなかった理由の一つは明かりを持っていなかったことだ。もう一つはおしゃべりに夢中になっていたことだろう。
「いえ、なんだかあなた達が楽しそうにおしゃべりしているものだから」
微笑んだその笑顔に、悪戯っ子の何かを2人は垣間見た。
「もう、先輩ったら……」
「ふふふ、ごめんなさいね。そんなに驚くとは思わなかったわ。でも……」すっと表情が真剣なものへと変わる「ここならおしゃべりぐらい多少は許してもらえると思うけど、本館に行ったら駄目よ」
表情は硬いが瞳は笑みを宿している。
軽い叱責というところだろう。それに安堵し、2人は交互に謝罪した。
「申し訳ありません」
「お許しください。それと……もちろんです。あちらでは決しておしゃべりなんかしません」
本館勤務と別館勤務では空気が違う。
本館でおしゃべりが出来るほど、クリアーナも神経が図太くない。
「なら……よくは無いけど、ストレスを溜めすぎるのもいけないしね。程々にしておきなさいね」
「はい」
「それで何を話していたの?」
好奇心に目を輝かせた先輩に、2人は顔を見合わせてからさきほどの話を話す。
6人のメイドに対しての話を聞くにつれ、先輩の表情が凍りつく。クリアーナが変だ、と思ったときには先輩は小さく、それでいて鋭く叫んだ。
「よしなさい!」
驚くような硬い声だ。
一瞬で顔が引きつっている。
青ざめた顔で周囲を素早く見渡し、その話が誰にも聞かれていないかを確かめている。その姿は小動物のものに良く似ていた。
困ったような微笑を浮かべながら嗜める。そんなイメージがあった女性のあまりの豹変振りに二の句が告げない。
かすかに目を大きくし、先輩は言った。
「決して、あの方たちの悪口を言ってはいけないわ。考えても駄目よ!」
「か、考えても……ですか?」
「それは難しいんじゃ……」
「そうね、あなた方は後発組だったものね。でもよく聞きなさい。決してあの方達を怒らせてはいけないわ。あの6人の方々は私たちとは比較できない地位のお方々よ。下手すればその辺の貴族様よりも」
「そ、そんなわけ」
メイドとしての地位が高いのは理解できる。しかし貴族よりもと言うのは言い過ぎだろう。そんな思いから口を挟もうとし――
「そんな訳あるの!」
――びくりとクリアーナとパナシスは体を震わす。先輩である彼女の言葉に決して冗談や大げさに言っている気配はない。
「決してあの方々の悪口を言っては駄目よ」
「は、はい」
「わ、わかりました」
「いうまでも無いけど、最も怒らせてはいけないのは辺境侯様よ。あの方を怒らせれば……殺されるわ」
「殺されるって……」
貴族を不快にさせて殺されるという話はよく聞く。しかし、貴族達の生活を知る者からすればそれはかつての話だ。鮮血帝の御世になってから、放免して紙を回すというのがある意味最大に重い罰だろう。
「良いかしら、ここは素晴らしい仕事場だわ。給金、待遇……」
二人とも頷く。それはまさにその通りだ。
「でもその代わり、絶対に守らなければならないことを守らなければ、その者は行方不明になるわ」
「……いるんですか?」
聞きたくない質問だが、確認のためにする必要はある。
冗談だと笑って欲しかった希望は容易く砕かれる。
ごくりと唾を飲み込んだ二人の前で、先輩メイドは頷いた。
「いるわ。それだけじゃない。私は一番最初に集められたメイドの一人なんだけど、十人以上いたのに最初の日を超えられたのは私ともう二人だけよ」
「それって……」
「もちろん、その人たちは全員辺境侯様の情報を調べるように言われていた人たちだったけど」
「……それって可笑しくないですか?」パナシスが不思議そうに顔を歪める「だってその人達は皆、スパイみたいな人なんですよね? ならそんなに簡単にしゃべりますか?」
「魔法で操って、全て聞き出したのよ。そして最後にこうおっしゃられたわ『お前達に私の館での情報収集を命じた者の前で、このように言うがいい。お前が私の足元に平伏して、慈悲を願わないのであれば、これがお前の運命だ。それが終わったのならば、自らの喉をナイフで切り裂け』って」
二人は何も言えず先輩メイドの顔を凝視する。
嘘だよ、とか笑い出したりしないかと穴が空くほど。しかし先輩メイドの表情は硬く険しいもの。決して嘘を言っている顔ではない。
つまりは真実。
そのことが心に染みこむに連れ、体が大きく震え出す。今まで天国だと思っていた場所が、一枚薄布をはぎ取るだけで凄惨な場所に変わってしまったような恐怖に晒されて。
「あの6人のメイドの方々は全員が、そんな辺境侯様に絶対の忠誠を尽くしている人よ。怒らせれば何が起こるか分からないわ」
「わ、わたしたち大丈夫でしょうか?」
「だから言ったの。考えちゃ駄目よって。それを除けばここは良い職場だわ。三食は美味しいし、お風呂には入れる。ベッドは最高だし、給金も高いし、休みだってローテで与えられる。でも……辺境侯様のお側に仕える人たちは恐ろしいわ。特に私たちが時折会う、あの6人の方々は狂気的な忠誠を、辺境侯様に誓っているわ。あの優しげなベータ様であっても、辺境侯様の悪口を聞けばぞっとするお顔をする」
「ご、ごらんになられたことがあるんですか?」
「あるわ……、二度と見たくない」
ぶるぶると震えだした先輩の顔は青を通り越し、白くなっていた。
そのにじみ出るような不安は、二人がいままでイメージしてきたルプスレギナという女性の像を完全にうち砕くだけのものがあった。
「近くにいた私ですら怖かったのよ。向けられた人なんか倒れそうだったわ」
「そ、それでその人は」
「このお屋敷を守る騎士の方だったんだけど、次の日から来なくなったわ。……単に元の職場に返されただけかもしれない。でも騎士全員の雰囲気が一変したから……良いことは起こってないはずよ」
クリアーナの脳内に騎士たちの姿が浮かぶ。これ以上ないと言うほどの真剣な態度を取る騎士たち。その完璧な規律の正体が目の前に姿を見せた気がした。
「そういえば……」何かを思いだしたようにパナシスがぼそりと告げる「裏手に林みたいなのがあるじゃない」
クリアーナと先輩の2人が頷くのを確認してから、パナシスは続ける。
「あそこで見たんだ……。いままで見間違いだろうと思っていたんだけど」
「……何を?」
「地面がね、盛り上がって動き出すのを」
「……? それってモグラとか?」
「……人間よりも大きく盛り上がったんだよ? 暗かったから見間違いだろうと思っていたんだけど……もしかしてそれが騎士なのかなぁ?」
「……いや、いくらなんでも……ねぇ」
「冗談……じゃないんだ……」
青白い顔で見合わせる3人に、唐突に声が掛かる。
「あのー」
「ひっ」
「きゃ!」
「ひぃ!」
飛び跳ねるように体を動かし、3人揃って声をかけてきた人物を見た。
そこに立っていたのは奇妙なメガネをかけた一人の女性だ。
年齢は20ぐらい。外見時には整ってはいるが美人と言うほどではない。いうならクリアーナと同じぐらいか。
「な、なにか、あ、ありましたか?」
彼女自身も驚いたように周囲を見渡している。
手に明かりは持っていないが、薄闇を透かし見ることが出来るようだった。
「あ、い、いえ。と、突然お声をかけられたもので」
「あ、そうでしたね。申し訳ないです」
ぺこりと頭を下げられ、クリアーナ達が困惑する。
「そ、そんなことをされなくてツアレ様」
「ああ、いいんです。様なんかつけてもらわなくて」
ツアレと呼ばれた女性は、ぱたぱたと手を振る。そんな姿は普通のメイドと変わらない。
しかしながら馴れ馴れしくすることはできない。彼女の立場はクリアーナたちとは違うためだ。
確かに彼女の地位も一般的なメイドと変わらず、仕事の内容もだいたいがクリアーナ達と変わらない。
ただ、彼女の勤務は本館がメインで、別館での仕事はあまりこなさない。
クリアーナ達の仕事が終われば即座に追い出される場所でも、彼女はそういったことなく働ける。
これが意味するところは、つまりユリ・アルファに代表される6人のメイド達は、彼女が本館で仕事をすることを全面的に認めているということ。
このツアレという女性ばかりではない。こういったメイドはそのほかにも幾人かいる。恐らくは昔から辺境侯の下で働いてきている人物達だと思われるが、それ以外の何かがありそうな予感を覚える。
そんな女性に対し、丁寧にクリアーナは問いかける。
「それでこちらにはどのようなご用件で?」
「あ、えっとですね。ある人を捜しているんですが」
ツアレの探している人物のいる場所に心当たりはあった。
直ぐにツアレに教えると、感謝の言葉を残して彼女は歩き出す。
暗闇へと明かりも付けずに去っていく姿を見送りながら、3人の話題はツアレのものへと変わる。
「それであの人は……どんな位置づけなんでしょう?」
「良くは分からないけど、あの6人の方々も扱いに困っている感じだわ。基本的にガンマ様とイプシロン様は相手にしてないようだけど……」
「多分、セバス様に惚れているか何かで、実際手もついてるんじゃないかな?」
「うそ?!」
パナシスの言葉にクリアーナと先輩メイドは驚きの声を上げる。
「たぶんだけどね。セバス様を見ている目がうちの妹がする目に似てるけど、その色が強いからの予想」
「そうなんだ……」
「あの程度の年齢差は珍しくないけど……良いなぁ。勝ち組かぁ」
はぁ、と3人はため息をつく。ツアレの登場によって、この館の恐怖を一時的でも忘れられたのは大きかった。いや、だからこそツアレの話題へとなったのだろう。
「羨ましい」
「ほんと」
再び3人で顔を見合わせため息をつき、自分達がどこで雑談をしているかをようやく思い出す。
「さ、行きましょう。こんなところで長く喋っていると色々と不味いことになるから」
「そうでしたね」
「とりあえず今日の夕食が楽しみです。この頃ジャガイモをごろっと食べてないから、食べたいなぁ」
「ごろってどんな表現?」
「え? 言わない?」
そんな3人の会話が徐々に遠ざかり、それと同時に明かりも離れていった廊下に、ゆっくりと動く者があった。
まるで影が膨れ上がり二次元から三次元へと進出したようなそんなモンスターは、去っていった3人の後姿を眺めてから、ゆっくりと再び影へと身を潜める。
そして再び警護の役目を果たすべく動き出すのだった。