閑話
秋にしては寒く感じられる夜風が吹き抜けていく。
服の前をしっかりと合わせたくなるような風の中、その男は鋼のごとき不動の姿勢を維持したまま立っていた。
そんな姿勢こそ、その男には非常に似合っている。
彼こそ王国戦士長であり、周辺国家最強の戦士と言われる男。ガゼフ・ストロノーフだ。
ガゼフが今いる場所は城塞都市エ・ランテルにある3つの城壁の内、最も外側にある壁の上の部分。周辺にはこの場所よりも高いものがないため、妨げの無い風はより勢いを増して駆け抜ける。
髪を風で大きく揺らし、服がはためく。吐く息は瞬時に後ろに流れ去っていった。
そんな場所でガゼフは沈黙の中、鋭い視線を投げかけている。
夜闇を射抜かんばかりの眼光の先にあるのは、地上を歩いている人の群れ。
いや人の群れと言ってもバラバラであり、固まってもせいぜい十人程度だ。
歩く人々の足取りは覚束無く、格好はぼろぼろで非常に汚れているのが都市からの明かりで確認できる。
それは敗残兵の群れと呼ぶべきもの。
あまりにも無惨な姿だった。
足を引く者、怯えたように身を縮めながら歩く者、ヨタヨタと歩く者。
全ての者に共通して言えるのは、時折、幾度と無く後ろを振り返って何者かがいないかを確かめているということ。
その恐怖に縛られた無様な姿を、ガゼフは決して笑うことは出来ない。同じ国の民ということを除いてもだ。
あの地獄を被害を受ける側から見た者で、笑うものがいたらそれは頭がおかしい証拠だ。
カッツェ平野での戦い、いや虐殺によって多くの王国の民が死亡した。
理解不能な力によって多くの命は即座に奪われ、続いて現れた想像を絶するような力を持つモンスターによって蹂躙されつくした。
なけなしの軍規は完全に崩壊し、生き残った兵士達は四散した。何も考えず、生にしがみつこうと逃げ出した。
我先にと逃げた者を責めることは出来ない。
ガゼフですらあの場では何の役にも立たなかった。そして前に立つべき者たちですら逃げたのだ。そんな場所で剣をろくに振るったことのない民の逃走を、どんな権利があっても叱咤できる筈が無い。
そんな四散した兵達は皆が皆、このエ・ランテルを目指し歩く。
兵士ばかりではない。傭兵たちもだ。
何故か?
食料の問題があるだろう。
バラバラに逃げた場合想定される危険もまたあるだろう。
しかしそれ以上の理由が一つだけある。
それは『恐怖』だ。
戦士として様々な死線を潜り抜けてきたガゼフですら、あのたった一人の魔法使いによって起こった地獄の光景。それが今でも目について離れない。目を閉じればまざまざと思い出せる。
ではそんな光景を単なる一般人が見た場合どうなるのか。それは心を大きく傷つけるだろう。
耳をそばだてれば聞こえてくる。
悪夢を見る者たちの無数のうめき声、暗がりに怯える者の恐怖の叫び。そういった無数の声が都市内から。
だからこそ城壁に守られた安全な場所だと思えるところに逃げ込む。しかしそれでも心は理解している。あんな化け物が再び具現すれば、この堅い城壁ですら容易く破られるだろうと。
「哀れなものだ」
ガゼフの呟きは誰に当てたものか。
それはガゼフ自身分からなかった。もしかするとガゼフも自覚はしていないが、己に当てたものかもしれない。
そんなガゼフの耳にコツリコツリと足音が届く。
この城壁に立っているのはガゼフと見張りの兵だけ。一直線にガゼフの元に向かってくる足音は見張りの兵の革靴の音ではない。鉄のプレートの入った重いものだ。
足音はそのままガゼフの後ろまで辿り着く。
「ガゼフ様」
しわがれた声が響いた。
予測したとおりの人物の登場を受け、ガゼフは少しばかり意識を向ける。
「……王はどうなされた」
「はっ。ご就寝されました」
「そうか。ほぼ休み無くここまでお戻りになったんだ、お疲れだろう。……よくぞ王をお守りしてここまで連れ戻した。お前の働きは見事だ」
「ありがとうございます。ですが臣下として当然の務めです」
「そうだな……。だが、あの地獄の中から王をお連れして逃げられた働きは称賛されてしかるべきだ、クライム」
「お褒めいただきありがとうございます。それで、ガゼフ様はそこで部下の方々をお待ちなのでしょうか?」
「そうだな。それもあるな」
ガゼフ直轄の部下達。それはたゆまぬ努力の結晶だ。
特別な才能は欠片も持ってはいないが、それでも施した過酷な訓練に耐え抜き、ガゼフにとって最高の誇りともなった者達。
王国とそこに生きる者を愛した男達。
彼らが1人でも多く帰ってくれることは、ガゼフにとって心の底からの願いだ。
「……私もそう願っております。あの方達は決して何かに隔てて会話をするような人たちでは無かった。陽気で、優しく……そして強く……これからの王国に無くてはならない人たちです」
「感謝する……クライム」
「いえ……事実ですから」
「それと……な。友人が戻ってこないかと思ってな」
「ご友人ですか?」
「ああ、そうだ」
ガゼフの脳裏に一人の男の顔が描かれる。蛇のような男であり、ガゼフが嫌っていた男が。
「……まだ色々と話したいことがあるんだ……」
掠れた声が風に乗って消える。
そう。まだ話したいことは山のようにある。
ガゼフの勝手な勘違いで嫌っていたために、宮廷で会ってもあまり会話をすることがなかった。だが、彼の真意が聞けた今、ガゼフの中では共に酒でも飲みながら夜を通して話したい男となっていた。
無事に帰ってきてくれれば彼の力は今後の王国にとって役に立つことは間違いがないだろう。
これからの王国のために必要な者達。
しかし、ガゼフの頭の冷静な部分は嘲笑を送っていた。
帰ってくるはずがない。
ここで眺めているのはお前の感傷にしか過ぎない。
もうあの地獄で、化け物に魂すらも食われて死んだ。
そんな無数の声が聞こえてくる。
実際、ガゼフだって悟っている。
カッツェ平野から部下達も、そしてレェブン侯も帰ってこないと。
それでも希望を捨てることは決して出来なかった。
ひょっこりと、危うく死ぬところだったと笑顔を見せながら帰還してくれるのではないかと。
ガゼフは先ほどから一度もクライムに向き直らず、ただ都市の外を眺めている。その視線の先にあるのは、カッツェ平野だろう。
クライムはガゼフの背中を見つめる。
小さかった。
普段であればその自信に満ちた背は大きく、不動の巨石を思わせた。それが今ではそのまま闇に消えてしまいそうな不安がある。
「人の技とは……思えなかったな」
風に吹かれ直ぐに消えてしまうような呟きだが、クライムの耳にしっかりと入り込む。そのガゼフの言葉にあったのは、信じがたいことに『諦め』だった。
いや――クライムは頭を振る。
あれほどのものを見せつけられれば、ごく当たり前の感情だ。
例え王国最強の戦士であり、周辺国家最強と言われていても、天変地異のごとき人の勝ち得ぬものを前にすれば、当然そういった気持ちになるだろう。
クライムは一人の名前を頭に浮かべる。
アインズ・ウール・ゴウン辺境侯。今まで名を聞かれなかった大魔法使い。
クライムが知っているのはそれぐらいだ。
ただ、その人物の使う魔法はいまだ瞳に焼き付いている。
強大なる御技。
十万以上の兵を殺戮する魔法。
人外の領域ですら踏破し、その先まで突き抜けたような力。
そしてそれは単騎で国と戦える存在。
ぶるりとクライムの体が震える。風によって感じる寒さとは別種のもの。その発生源は心。そして生み出している原因は恐怖。
あの光景を思い出すと、ひび割れた心が叫び声を上げる。あの絶対的な絶望が今なお身近にあるようで。
自分が生きてきた全てが壊れ、作り替えられていくようなそんなものさえ感じる。
「……もしあのとき、礼儀を尽くして連れてくれば、王国の味方としてその力を振るってくれたのだろうか?」
再び、ガゼフがぽつりと呟く。
先ほどの言葉に『諦め』があったのならば、今度の言葉には『悔恨』があった。
一期一会。
そのチャンスを手から零した結果がこれではないかという無念。自分が別の手段を採っていれば、この悲惨な光景は目の前に姿を見せなかったのではないか。そういう思いがひしひしとクライムに伝わってきた。
クライムには言葉が無かった。
ガゼフにそんなことは無いです、と言うことは容易い。
クライムはガゼフが何か失態を犯したとは思っていない。アインズという魔法使いがこれほどの力を持つなんて、誰に予測できるというのか。
しかし、これはガゼフの心の問題であり、アインズという魔法使いと会ったことのあるガゼフのみを苦しめる罪悪感だ。それは誰にも共有することはできない。
それでも貴族達はガゼフを責めるだろう。いま、ガゼフを苦しめている罪悪感――アインズ・ウール・ゴウンと最初に会った際に味方に出来なかったことを。
意を決し、クライムは小さい背中に声をかける。
「ガゼフ様の所為ではありません」
流れる風がゴウゴウと音を立てる中、それでもクライムの声は聞こえたはずだがガゼフは決して返事をしようとはしない。
それでもクライムは続ける。
「ただそれでも、もし失態を犯したと思われるのであれば、次善の策を取られるべきです。溢した水が盆に返らないならば別の水を盆に戻すように。私のような知恵の無い者でも今後、アインズ・ウール・ゴウンの強大な力を前面に打ち出し、帝国の力は増大すると思っております。ですがそれを踏まえて、王国は進んでいかなければならないと考えております。ガゼフ様はその進むべき道を切り開かれる剣となるべきです」
つまらない慰めだ。
しかし、それでも王国は滅びておらず、生き残っている者達がいる。ならばその力を合わせていけば――どのような未来が待つかは不明でも、少しは明るい道が選べるはずだ。
クライムは子供じみた信頼をガゼフの背にかける。
数回の呼吸程度の時間が経過し、風に乗ってガゼフから軽く吹き出すような息が聞こえた。
「そうだな」
無数の思いが籠もった同意の声。そしてガゼフの声に張りが戻る。
「……それが生き残った者の務めだな」
「おっしゃるとおりです」
「なら幾つか手を打つとしよう」
振り返ったガゼフの瞳には力があった。クライムが憧れる王国戦士長としての瞳が再びそこに姿を見せていた。
「冒険者などの魔法使いに協力を要請して、対アインズ・ウール・ゴウン……そこまで行かなくても対策を立てなくてはならない。いま必要なのは辺境侯がどの程度のことが出来るかを調べることだ。そして兵力の増大だな」
「兵力の増大ですか?」
多くの兵を失った王国で、さらに兵力を駆り立てるのはあまりにも危険な行為だ。そのクライムの疑問にガゼフは即座に答える。
「一般的な兵力では意味をなさないし、国力の低下を招くだけだ。必要なのは数ではなく質。取り敢えずはブレイン・アングラウスという男を探すことを王に進言しようと思う」
「ブレイン……アングラウスですか?」
聞いた覚えの無い男の名だ。
「そうだ。かつては私と同等の腕を持っていた戦士だ。どこの貴族にも雇われずに去っていったが、今でも王国にいるのであれば彼の剣は役に立つだろう」
「そのような人物が!」
クライムは驚きから声を上げる。確かにそんな人物が味方になってくれれば心強い。
「それに蒼の薔薇と真紅の雫の両冒険者パーティーにも協力を要請しよう」
「王国最強の冒険者たちに!」
「辺境侯という存在に勝つには、王国の力をまとめ上げるしかない。それだけでなく周辺諸国にも協力を仰ぐべきだろう」ガゼフは頭を振る。「いや、これ以上は進言の幅を超えるな」
ガゼフは大きく空を見上げる。
クライムもつられて空を見上げた。厚い雲に覆われた空に、輝きは一切無い。それはまるで王国の将来を暗示するかのように。
「星は地表に降りているだけさ」
クライムの不思議そうな顔にガゼフは笑う。
「星は俺達だ。俺達が輝いて王国を照らし出せば良い。戦おう。辺境侯の力は偉大であり、勝算はまるで見えない。それでもかの力が再び王国に向けられるのであれば、次こそ勝たなくてはならない。そのための準備をしていくぞ」
「はっ!」
クライムは強く返答する。
クライムはこの国を愛しているわけではない。
しかし、一人の女性に拾われたクライムは、彼女のためであればその命を捨てることに迷いはない。
彼女が愛しているだろう国のためであれば、クライムは全てを捨てる覚悟があった。
■
王都に戻って最初にクライムが向かったのは当然、自らの主人であり、命を捨てても構わない女性であるラナーの元だ。
そしてクライムの一通りの報告を受けたラナーが悲しげな声を上げる。
「なんと言うことでしょう」
ラナーが繊手を上げ、目を押さえる。
クライムはその可憐な姿に、そして悲しむ姿に王国の希望を見た。
自分を救ってくれた女性はいまなおその優しい心を抱いたまま、成長しているということを感じ取って。
クライムは心の底からの歓喜を必死に押し殺す。例え違うといえども、王女の悲しみの涙を前に、喜びを表すわけにはいかない。
流れた涙を拭い、ラナーがクライムに話かける。
「本当に大変だったでしょ、クライム。無事で本当に良かった」
「ありがとうございます。多くの方々のお陰で無事に生還できました」
ラナーが立ち上がると、クライムの元まで歩く。そして優しく抱きしめた。
「ぁつ、ひ、、ひぃ、ひめ」
喘ぐような呼吸を繰り返すクライム。漂う芳しい香りがラナーの体臭だと知って、混乱はより大きくなる。
もし鎧を着ていなければ、ラナーの体の柔らかさまで感じ取れただろう。鎧に潰されて形を変えている彼女の双胸を、そしてドレスの下の体温を。背中に手を回してよりそれを強く感じたい。
そんなことを考え、自らに嫌悪感を持つ。
自分を救ってくれた宝石のような女性に対して、なんと下衆な欲望を抱いているのだろう。
助けられた自分と、男としての自分。二つの感情がぶつかり合う。
そんな時間がどれだけ経過したか、やがてラナーがクライムを解放し一歩下がる。
「本当に無事で良かった」
ラナーの瞳には涙が浮かび上がっている。一瞬でクライムの中にあった欲望の炎は鎮火する。
「ありがとうございます!」
クライムは深く感謝の念を込めた礼を向けた。
こんな優しい人に、自分という男はなんという失礼なことを考えているのだ。
そんな罪悪感がクライムを襲う。
この優しき人のために、自分の全てを投げ打ってでも忠義を見せる。クライムはそんな思いをより強めていると、ラナーが涙に濡れた顔で微笑んだ。
――美しい。
その表情はクライムの心臓が大きく跳ね上がるほど美しかった。
ラナーが瞳を手で押さえる。
零れる涙を抑えているのだろう。
クライムは優しい王女の悲しみを強く感じ、己の心を締め付けられるようだった。
「帰ってきて早々私のところに来てくれてありがとう、クライム。今日はゆっくり休んでください」
「はっ、ありがとうございます」
クライムが退室し、ラナーは押さえていた手を離す。
そこに涙の跡はなかった。いや、涙が流れていた気配すらない。
ラナーは冷然とした顔でイスに腰掛ける。既にラナーの心に死んでいった王国の民のことなど残っていない。
クライムの憧れる王国の優しい姫は、クライムの退出と共にいなくなったのだから。
クライムが望むからラナーは優しい王女を演じているだけ、クライムがいなければラナーはそんな面倒な演技をする気はこれっぽちも無い。
ラナーの頭にあるのは、民が減ったなら増やせばよいということ。そのための手段――後家を優遇して結婚させるなどの政策が無数に頭に浮かぶ。
その政策には愛した者と死に別れた人の嘆きなど何処にもない。人の心が上手く理解できない彼女にとって、感情というのは完璧な計算を狂わせる邪魔な要素でしかない。
この世界に大切なのはクライムだけであり、それ以外の全ては数字だ。王国の人間という数が減ったなら増やせばよいだけ。
ただ、それだけである。
ラナーはカップを持ち上げ、冷たくなりつつあった紅茶を優雅にあおる。
「詰めの段階に入ってきたわね。……どうやって逃げましょう? 父には死んでもらわないと大変か」
戦略や戦術という才能は無いが、内政的に王国が詰みだしているのはラナーからすれば確実。だからこそ安全に逃げる手段を検討する。
肉親すらも数でしかない彼女に、犠牲にするという行為に迷いはない。クライムさえいればどうでも良いのだから。
カップを下ろしたラナーの唇が、くすりと笑みの形に歪む。王国でも最も美しいと言われる女性の、最も美しい笑顔だ。
そして扉に優しい視線を送る。
「……手を背中に回してくれても良かったのに」
書籍化も順調ですので、5月末には『日々』の更新を狙っていきます。