邪神-2
それは万物の死であり、全ての終焉であり、例えようが無いほどの悪であった。
僅かな動きで、おぞましき地獄の闇が現世に侵食してくるような気配が立ち込める。更には精神や魂を腐敗させる風が吹き付けてくるようだった。
絶望の具現を前に、彼は吐き気をもよおす。
しかし、唾と一緒に飲み込み、決して無様な姿を見せないよう、必死に努力する。
──当たり前のことだ。
眼前に座する死の邪神。
その感情を感じさせない瞳に宿る意志が、自分達に対して何を思っているのか窺い知ることが出来ないのだから。
良い方向に転がるか、悪い方向に転がるか。
それが問われる状況下で、不快な姿勢を晒せば、悪い方向──死が自分達の命を奪うのは確実だろう。それが仮に恩寵だとしても、ごめんこうむりたい。
弱者が強者に対してみせる姿勢として最も正しいのは、崇拝であり、服従であり、敬服だ。
それ以外の行動──吐いたり、逃げたりは苛烈な怒りを受けるだろう。
その場にいる弱者である誰もが、理解している。だからこそ、怯えていながらも彼の仲間達は、誰一人として無様な姿を見せなかった。
立派だ。
彼は少しだけ、その場にいる同じ目的を擁いた者たちを評価する。
これまでは同じ方向に顔を向けてはいても、心の奥底では侮蔑の感情も抱いてはいた。しかし、今は違う。
死の恐怖と直面しながらも、決して無様な姿を見せない者たちに、ある種の親近感を感じていた。
実際、それは彼だけではないだろう。
覆面からの覗く瞳には、彼が今抱いているのと同じ感情が見え隠れしたのだから。
同じ体験をした者が、親近感を抱くことは珍しいことではない、特に彼らが直面している状況下であれば、普段以上の強い親近感が湧いたとしてもなんら疑問は無かった。
彼たちが見ている中、見事な漆黒の玉座に座った滅びの王が、ゆっくりと口が開く。
しかし言葉は出ずに、再び閉ざされる。
それは何か言いたげな素振りのようにも思われたが──。
彼は、内心で頭を振った。
いや、違う。
そんなことをしようとしたのではない。恐らくは体内の冷気を吐き出したに違いないだろう。
彼は感じていたのだ。その裸の体を覆いつくす鳥肌。そしてつま先からこみ上げてくるような冷気を。
勿論、彼が現在、裸であるために、単純に寒さを感じたなどという下らない理由によることではないのは確実だ。
それは目の前にいる死の王の存在。そして語られる神話の内容だ。
彼らが信仰する邪神は、名無き邪神と呼ばれ、死と暗黒を統べると言う。その邪神は極寒の世界に居城を作り、死した魂を凍りつかせて弄ぶといわれていた。
ならば今の動作は伝説に語られる、魂を凍りつかせる吐息であるのは間違いないだろう。
彼の心に少しだけの安堵が生まれた。
息を吐き出しながらも、自分達の誰一人として死んでいないということが、逆説的に、神は即座に死を与える気が無いということを意味しているのだから。
彼は恐る恐る、自らが信仰する神を伺う。
その素顔から視線を逸らし、衣服を眺める。
着ている服は貴族が一般的に着用するものである。所々に豪華な刺繍を付け、その刺繍の品と豪華さで地位を誇示するタイプのものだ。
では、かの存在のそれはどうか。
貴族として幼い頃から質の良いもののみを目にしてきた人間特有の審美眼からすれば、まさに人の手では創れないような一品であった。かすかな光沢のようなものがあるが、それは衣服の材質と言うよりは宿した魔法の力によるものの気がする。
一体、買うとしたらいかほどの価格が付くのか、彼には想像もできない。
(いや、神の衣服を買うなど……傲慢も良いところか)
座っているのは見事な漆黒の玉座であり、光を無数に反射しているさまは黒曜石ではないかと思われた。
(なんと美しい。今までのつまらない玉座に座っていただけないのも当然だな)
横に目をやれば転がった巨大な石の玉座。人間が何人も協力しても動きそうも無い石の塊。
あんなものをどうやって動かしたのか不明ではあったが、神にできないことなど無いに違いないと考えると、納得もいった。
そんな邪神の人の世での名前は──アインズ・ウール・ゴウン辺境侯という。
たった一人で王国の軍勢を滅ぼしつくした魔法使い。初めて聞いた時は、何のプロパガンダだと思ったものだ。帝国騎士達が行った大勝を、一人の人間が成したことにすることで、何を皇帝は企んでいるのかと。
しかし、今、目の前にいる滅びの邪神を前にすれば、王国軍が滅んだのも当然だと言える。そして魂を貪り喰らったという噂も。
(ああ、違うんだ。魂を貪り食らったのではないんだ)
彼は噂の発生源であろう帝国騎士たちに、優越感めいた気持ちで語りかける。
(偉大なる死の王は魂を凍りつかせ弄ぶ。殺した者の魂を集めて、己の居城を飾り付ける目的なんだよ。おお、なんと恐ろしい。未来永劫、解放されぬ魂は居城に泣き声を響かせると言うが……。まさに凶悪の所業よ)
勿論、そんな悪を信仰し、崇拝する彼らも悪ではあろう。しかし、魂すらもおもちゃにするという大悪からすれば、子供だましも良いところであろう。
彼が邪神のおぞましき姿を失礼にならない程度に眺めていると、その横を衣服を纏った一人の男が通り過ぎる。そして全員の前に立ち、邪神──アインズの前に立つ。
(神官どのか……)
この邪教集団のまとめ役は高位のある貴族であるが、神官と呼ばれるその男は生贄の手はずを整えたり、この邪神殿の管理に当たっている男だ。実際に魔法を使用できるために、元々はどこかの神官であったのだろうと噂されていた。
「偉大なる邪神よ。いと尊き御身のお姿を私どもの前に現せて下さったことを深く感謝いたします」
ゆっくりと頭を下げる神官に合せて、彼らも一斉に頭を下げた。
「……良い。頭を上げよ」
ぶっきらぼうと言うか、静かな声だった。
感情の無い平たい声は、聞くだけで不安が滲みあがってくる。
危険な肉食動物と対面したような、突如、敵意を向けられても可笑しくないような雰囲気があるのだ。それは遅延魔法にも似ている。何時発動するするか不明な危険な魔法にも。
しかしそれらとは違い、人の世で動くことができるという知性を持つがゆえに、彼でも僅かではあろうが、邪神の雰囲気を感じ取ることが出来た。
高位の貴族として様々な狸たちと交渉してきた経験が、その声に僅かに含まれた、呆れているような気配を敏感に察知したのだ。
(いや、違う。多分、こちらを試しているんだ)
魂を弄ぶような邪神だ。人間ごとき弱小な存在と同じ精神構造を持っているはずがないだろう。にもかかわらず人である彼が、気配を察知できたのは、わざとそういった雰囲気を放っている可能性が高かった。
つまりはこちらの価値を計っているのだ。
彼は身震いする。もし、その試験に不合格だった場合はどうなるのか。
同じように感じたのか、彼の視界内でも幾人かの者たちが同一のタイミングで身震いしていた。
問題は何に呆れているかだ。不満なのか。退屈なのか。何に起因してのものかが読みきれない。
(考えろ、考えるんだ。何を呆れていられるんだ?)
普段であれば、人の上に立つ者としては、こんなことは考えない。しかし、相手は強大な力の持ち主であり、ここにいる全ての者を殺すのに迷い無いと思われる人外の王。ならばどれだけ警戒をしても足りることは無い。
そしてそれ以上、邪神は何も言うことなく、口を閉ざしたままだ。
(神官どのは……)
神官も邪神の反応に戸惑っている雰囲気が、後ろからでも掴めた。
(この馬鹿が)
いつもであれば決してそうは思わなかっただろう。神官が黙々と邪神に対する儀式を行い、手はずを整える姿を知っているのだから。ある意味、神官の敬虔な態度には彼も頭が下がった。
しかし、この場で邪神を不快にさせれば、こちらの命が危ない。せめて気分良く、人間と同じように感じてもらえるかは不明であったが、だからといって魂を凍りつかせたいなどと思われないうちに、己の世界に帰ってもらいたいものだった。
もしかすると帝国に貴族として現れたのも、自分達の召喚が変な方向に転がって、想定外のところに出現させてしまったかもしれない可能性も無いではない。
「贄を! 御身に若き魂を!」
神官が突然、そう口にした。生贄の儀式を行うと。
これは悪い手ではない。彼も大いに頷く。
生贄を捧げることで不快な気分を少しは収めてもらえれば恩の字だ。最低でも悪い方向に転がったりはしないだろう。
「……え」
かすかな驚きの声が漏れる。
恐らくはその横に立つ女のメイドが上げたものであろう。
彼がそう思っていると、一番後ろに用意されていた皮の袋がバケツリレーの形式で前に持ってこられる。皮袋の口は紐で縛られているが、大きさとして子供が一人入るのに十分なサイズだ。
この皮袋を持って前に回すと言うことは、邪神に捧げものをする意志があると言うことであり、信仰心の表れであるとされている。だからこそ枯れ木のような老婆でもそれに必死に持とうとした。
そのためなのか、生贄として選ばれるのは子供が多かった。
彼もその皮袋を持ち、前の人間に渡す。そして視線を回し──
(……もう一つ?)
少し離れたところを、もう一つの皮袋が前に向かって渡されてきている。
やがて2つの皮袋が床に置かれる。中を確認しないのは、殺意を削がないためだ。たとえ中に入っているのが人間だと知っていても、直接目にしてなければ、意外に残酷なことも出来るものである。
そしてもう一つ理由がある。それは人間であることを確認しないこと。もし仮に捕まったとしても、人間というのは嘘で動物だと思っていたと論理武装するためである。
6人の男女が前に進み出る。そしてその手には鋭い刃物。
彼らは順番で選ばれた者たちだ。本来であれば3人なのだが、今回は二つ袋があると言うことで、その倍の人数だ。
彼は羨ましく思う。この最高のタイミングで死の邪神に、生贄を捧げるチャンスを得れる彼らに。
そして剣が振り上げられ、サディスティックな熱気が満ち──
「良い!」
再び声が発せられた。先ほどよりも力強いものだ。
「……死は私の支配するところ。いずれ来る命を私以外の者が、無下に奪うのは多少不快だ」
剣を持っていた6人の男女が怯えたように後ずさる。魂を捧げ、死の存在より褒め言葉をもらえると思っていたら、間逆の言葉が返ってきたのだから、驚きもより大きかったのだろう。
ただ、考えれば納得のいく答えだ。
死を支配する存在からすれば、生きている者はすべて己のものであろう。そして死を絶対的強者として与えるのであれば、人間ごときに勝手に死を作り出されるのも不快ということだ。
「申し訳ありません!」
6人の男女は一斉に頭を下げる。合せて彼も、そして周囲の者たちも頭を下げる。もしかすると今まで行ってきた生贄の儀式は、邪神を不快にさせるだけだったかもしれないのだから。
「……そ、それでは、贄はどういたしましょう」
神官の問いかけに、彼は身震いをする。そんなことを神に問いかけるな、と。
ただ、邪神は思ったよりも温厚であったのか、呆れているのかは不明ではあったが、答えを返す。
「そのままにしておけ。それよりもだ。今まで私のために生贄を捧げてきたのだろう、お前たち?」
「っ! わ、我らが神に届くよう、数多の贄を捧げさせていただきました。神においてはお好みに合いましたでしょうか……」
声が尻つぼみで小さくなっているのは、先ほどの応答で、贄を喜んでないと知ったからだ。嘘をつかないのは、それの方が危険だろうと理解出来るからだ。
「うむ、うむ。お前達の信仰は私にとっても喜びだ。そんなお前たちに私は褒美をやろう。何を望む?」
一瞬だけ言われた言葉の内容が理解できなかった。しかし、その言葉が徐々に脳裏に浸透し、信じられないような快感を覚える。
「無論、お前達への褒美は現世での利益を考えている。さて、なんだ? 金とか異性などというつまらぬ欲望ではないだろうな。皇帝の地位もこの人数分与えるのは難しいな」
最後に邪神は軽い笑い声が上げる。
しかし彼らの中で笑えるものはいない。つまりは辺境侯たる神は、帝国皇帝の地位すらも容易く与えることができるものだと告げているのだから。
ならばそれはこういうことだ。
(やはり帝国の貴族になったのはもっと違う狙い。想像を絶するような邪悪な企みがあってのことに違いないのか)
彼の考えたことは、他の貴族達も思ったようでぶるりと体を震わせていた。ただ、その裏にある感情までは見抜くことが出来ない。恐怖なのか、それとも彼と同じく興奮のものなのか。
彼がそう裏にあるであろうおぞましい計画について思いをはせている間に、邪神は問いかけてくる。
「それでは聞こうか。何が欲しい? お前達の望みはなんだ?」
問われたのであれば、答えは一つだ。この教団に彼が所属した理由、そしてこの場にいる者たちが所属した理由。それは──
「不老不死を! 不老不死を私達に!」
それを待ち望んでいた声は幾多も重なり、不老不死以外を求める声は発せされない。
生まれた瞬間から死に向かって歩を進める。それが生物である以上、避けることのできない宿命である。肉体は衰え、精神も弱くなっていく。しかし、それを受け入れられるかというと、それは別問題だ。
誰だって何時までも若さを保ち、美味いものを食べ、美麗な異性に囲まれたいものだ。もしこれが一度も経験したことがないのであれば、我慢できたかもしれない。
しかしこの場にいる者は、そんな欲望を上位貴族として経験してきたからこそ、喪失するのが惜しくなってしまっていた。
だからこそ魔法に手を出し、薬物に手を出し、そして信仰に身を染めた。
それがこの邪神を信仰する教団の正体である。
己の欲望を晒しだした声は、方向性は同じものであっても、調和は一切取れていない。そのために雑音としか意味を成さないようであったが、その中で死の王はそれを理解した素振りを示した。ゆっくりと手を上げたのだ。
そこに込められた意味を見抜けない者はいない。即座に神殿内には静寂が戻ってきた。
「――愚か」
小さい声。ただ、そこにある圧力は誰にでも理解できる。まるで巨大で分厚い壁が前方から迫ってくるような、そんな威圧感だ。
「お前達は私の手の中から逃げたいと言うのだな。この私の手の中から」
ゆっくりと手が突き出され、それが握り締められる。
その瞬間、魂を弄ぶ死の支配者が何を言いたいのか彼は──そしてその場にいた誰もが理解できた。
死を支配する存在の前で、不死を願う。つまりは永遠にその手から逃れること。ならばそれは憤怒を擁いても当然のことだ。
逃げるべきだ。
そんな思いがこみ上げるが、足はガクガクと震え、動こうとはしなかった。凶悪な肉食獣に直面した小動物のように、死を与えられるのを待つだけであった。
ただ、そんな中でも彼は必死に声を張り上げた。その結果、最初に殺されるかもという思いが脳内を過ぎったが、せめてもと行動に出る。
「ち、違うのです!」
何が違うのか。言葉を発した彼も続く言葉が浮かばない。口をパクパクと開閉し、息のみを外に吐き出す。汗がびっしょりと吹き上がるのを彼は感じた。
邪神は決して優しい神ではない。どちらかと言えば冷酷な神である。だからといって即座に命を奪われなかった今までの流れに油断して、愚かな行動を取ってしまった。
あそこは静かに様子を伺うべきだったのだ。
彼にとっては何十分にも感じられるような時間が経過し、邪神は呆れたように、肩を竦めると口を開く。
「……不老不死はやれんが、代わりに……そうだな。お前達に若さを取り戻してやろう」
「え?」
誰かの問いたげな声に、邪神は鷹揚に頷きながら答える。
彼は何かを考える余裕は無かった。
許されたと知って、気が抜けて倒れこみそうになるのを必死に耐えるので精一杯だったのだ。
「若返りだ。お前達を望む若さに戻してやろう」
全身を再び鳥肌が走った。それが本当に行われるとするならば、不老不死の前の部分、不老がある意味実現するようなものではないか。
「とはいっても、だ。この人数全てに若さを取り戻すとなると、力が分散する分、長く取り戻すことは出来ないが……10日ほどと言った頃だろう。まぁ、お試し期間という奴だな」
彼は思わず周囲を見渡してしまう。互いに値踏みしあうような視線が交差しあう中、邪神は更に告げる。
「もし次回があれば、その際には私のために最も貢献したもの一人の若さを完全に取り戻してやろう」
ざわりと空気が大きく揺らいだ。
発言内容が脳内に染みこむと、喉がごくりと鳴った。欲望が胸の中で轟々と炎を発する。
「ではお前達に祝福をやろう」
いつの間にか、邪神の手は変質していた。それは善を意味するだろう純白の右手であり、邪悪を意味するだろう漆黒の左手であった。まさに邪神に相応しいともいえる見事なものであり、その内包した力は桁が違うと直感してしまうほどだ。
「解放。超位魔法《ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを》」
何か、目に見えざる力の波動が駆け抜け、驚愕の声が起こる。
彼が手を見れば肌の皺は無くなり、瑞々しい張りが戻っている。脂肪はこそぎ落ち、たるんだ肌には筋肉が戻っていた。記憶にうっすらとだけ残っている、若かりし頃の体へと戻っていたのだ。
それが決して幻術などで無い証拠に、触っても何も変わらないし、全身の感覚が鋭敏さを取り戻している。
そして変化は彼だけではない。
子供が乱暴にぶかぶかになった覆面を取り外している。
若く豊満な肢体を持つ女が泣き笑いしながら自らの豊満な胸を触っていた。
筋骨たくましい男が、己の肉体を誇示するようにポーズを取っている。
歓喜に満ち満ちた声によって、まるで玄室が爆発したようだった。
「ああ、神様! 貴方様こそ、真なる神です!」
「偉大なる邪神様! 私の信仰をお受け取りください!」
「おお、絶対なるお方! まさに貴方様こそ、死すらも超越されるお方!」
彼も震えながらこれこそ真なる神の御技だと敬服する。
神官たちの使う魔法の力の源は神である。しかし、だからと言って神は信者に特別な奇跡を与えない。どれだけ金銭面で奉仕したとしても、若返らせたりは絶対にしてくれない。魂は安息の地に向かうだろうと、死した世界での褒美を語ってくれる。
それが違う。
目の前の邪神は違う。
信仰に相応しいだけの奇跡を具現化して、与えてくれるのだ。
ならば先ほどの「もし次回があれば、その際には私のために最も貢献したもの一人の若さを完全に取り戻してやろう」も真実だと言うこと。
(次は俺だけが、俺だけが独占して……若さを取り戻す。たった10日などではない! そして忠誠に忠誠を尽くして、幾度も若さを取り戻してもらうんだ!)
彼が欲望に満ちた目で周囲を眺め、同じ色に燃え上がった瞳を見つける。
(お前も、お前も、お前もか。だが、許さない。俺こそが邪神様にお役に立つんだ)
彼が思いを新たにしていると、歓喜と崇拝の声で玄室内は満ちる。
「邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様! 邪神様!」
永遠に終わらないような祈りの声は、冷ややかなたった一言が断ち切った。
「──静まれ」
重い静寂が戻る。たとえ、歓喜と驚愕の中にあっても、敬服すべき偉大なる主人の声を聞き逃すはずが無い。
失望したように顔を隠す邪神に対し、彼を含め、全ての者が膝をつき、威光によって頭を垂れる。
静寂の中、滔々と声が響く。
「お前達が望んだ若さを取り戻してやった。その時間は10日。それが過ぎれば、再び先ほどの体に戻っているであろう。それとお前達が望んだのだ。屋敷に戻れなくなったとしても、私は責任はとらん」
誰かが唾を飲む音がした。
それは与えられた時間に絶望したのか。それとも若さを取り戻した自分を屋敷の人間が見間違わないだろうかと言う不安からきたものか、それは彼にはわからなかった。
「それとその人間はかい……私の方でどうにかしておこう。問題はないな?」
神の決めたことに不平を漏らすことが出来るはずが無い。ただ、一言だけ聞く必要があるだろう。
彼がそう考えていると、神官が思いあたったようで、口を開いた。
「よろしいのですか? 至高のお方にそのような雑務をしていただいても」
「構わない。贄なのだろ? 私の方で処分しておこう」
「畏まりました!」
◆
玄室内に先ほどまであった熱気はもはや薄れてなくなっていた。室内にいたのは3人の男女だ。そのうちの一人である神官が、女に伺うように問いかける。
「クレマンティーヌ様。一体どうしましょうか? 辺境侯に完全にこの教団を奪われてしまいました」
問いかけられた女──クレマンティーヌは転がった巨石の玉座を眺め、それから玉座があった箇所を眺める。先ほどまで魔法で作り出されていた黒曜石の玉座の姿は、座する者がいなくなると即座に消失してしまっていた。
「……はぁ」
草臥れ果てたようにクレマンティーヌは肩を落とす。いや、もはや彼女は精神的な面で、完全に疲労しきっていた。泥をすすり、血路を開くことすらやってきた彼女が、だ。それほどまでに、さきほどまで目の前で起こっていた現象への衝撃は大きかった。自らの中に蓄えこんだ知識がある分、起こったことがどれほど凄まじく、力の桁が違うのか理解できたためだ。
クレマンティーヌレベルまで理解はしていないだろうが、神官が教団を横から奪った敵を、爵位までつけて呼んでいるのは、彼自身も強大な力に飲み込まれているのだろう。
「なんていうか……神々ってあんな感じだったんでしょうね。本当に」
「………………」
答えたのは神官ではなく、女の直ぐ横にいた人影。非常に小さく、ミイラを彷彿とさせる異様な男だった。
ぽっかりと開いた眼球の無い目がクレマンティーヌに向けられ、歯の抜け落ちた口がもごもごと動く。
声は小さく嗄れているために、何を言っているのかさっぱり分からない。しかし十分に聞こえているようで、クレマンティーヌは引きつった笑いを浮かべる。
「あー、もう疲れて、そんな演技をする気さえしないって」
「………………」
「うん。そうだね」
「………………」
「世界は広いね。なんというか……いままでの自分に対する自信が一瞬で蒸発してしまったと言うべきか、馬鹿馬鹿しいというか。どうにせよ、もう二度と会いたくない」
無視された形であったが、今まで沈黙を守っていた神官は驚きの視線を向けた。
そこに込められた意味を掴みとり、クレマンティーヌは眉を顰める。
「あんなのに勝てるわけ無いでしょうが」
吐き捨てがちに神官に告げる。
あれは勝算とかを考えて良いレベルの化け物ではない。
この教団を上手く運営するために、邪神などと架空の神を作り出していたが、先ほど言ったようにあれが本当に神だとしても変だとも思わないだろう。
(あれと戦おうとかしなくてよかった)
辺境侯が来ると聞いて、場合によっては王国軍を十万単位で滅ぼすと噂される眉唾な力を、確かめてみるかなどと考えていたが、それがどれだけ愚かしいことだったかいまなら分かる。
アレを知ってしまうと、戦闘に入れば、自分が一撃すら持たなかっただろうと理解できる。
まさに噂は真実だった。
(化け物じみた筋力のみならず、魔法でも桁が違うとか……。神人レベルとか真なる竜王クラスと考えて……いえ、それ以上の超級の化け物や神とかと見なすべきでしょうね)
命拾いしたという事実にクレマンティーヌは大きく息を吐き出す。
「ではどうしましょう? このままでは……」
隣で神官が焦燥感にかられたように呟いている。そんな姿にクレマンティーヌは呆れたように問いかける。
「あなたは一生懸命頑張るよねー。びっくりしなかったー?」
「いえ、非常に驚きました。しかし、私の与えられた役目が、そして偉大なる盟主に対しての忠義の思いが、意志を強く持てる働きをしてくれました」
「ふーん……」
この教団は元々、ズーラーノーンの下部組織として運営するために作り出されたものだ。邪神という存在は元々、スレイン法国では信仰されている、闇の神が他国では信仰されていないという面を利用して、作りだしたものだ。
儀式だって適当なもの。単純に貴族達の弱みを握るために、人間を殺させていただけにしか過ぎない。
「まさか、あんな本物が現れるとは思わなかったけど」
「それでどういたしましょう。このままでは盟主に顔を向けられません」
「あっそー。じゃぁ、盟主が貴方にするだろう罰をプレゼントしてあげるー」
ヒュンという音が立ち、神官の目玉にスティレットが突き刺さる。グリッと大きく回されたスティレットが抜き取られ、物言わず神官は崩れ落ちた。転がったまま全身を痙攣させているが、それはあくまでも肉体反応としてのもの。
脳をかき回されて生きていられるはずがない。
秘密結社であるズーラーノーンに共に属する者が殺されたが、横にいた男に変化は見受けられなかった。目を向けるような素振りすら見せない。浮かんでいるのは神官の運命だと知っていたような冷たい態度のみだ。
「どうにせよ。この教団を奪われた段階でお前の運命は決まったみたいなものなんだよー。一思いに殺されただけマシだよねー」
痙攣が止まりつつあった、もはや死体と化しつつあった神官に冷たくはき捨てると、クレマンティーヌは枯れ木のような男を冷たく見据えた。
「うんでさー、どーするー。ここで殺しあおうかー?」
「………………」
男の「演技は疲れたから止めたんじゃなかったのか」という場違いともいえる問いかけに、クレマンティーヌは思わず苦笑を浮かべた。
「はぁ、癖みたいなものだね。素を出しているつもりでも、なんかふとした拍子にでちゃう。……それで、どうするの?」
「………………」
「そう。裏切るよ。私が持っている火の巫女姫の証は、その辺の風花を捕まえて渡すわ。それでもう教団とも法国とも関係が無い場所を目指して逃げる」
「………………」
「……馬鹿じゃない? あの邪神を見たでしょ? あれに盟主が勝てる可能性は低いわ。あれに間違えなく勝てる存在なんて、多分……神人ぐらいでしょ。いや……神人でもどうだろう」
スレイン法国は6大神という存在を信仰し、その国民の中には神の血を──濃い、薄いはあるが──引く者がいる。そういった者は、潜在的に強くなれる可能性を有していた。
そういう意味ではクレマンティーヌも、神の血を引いているといって良い。
ただし、それはあくまでも血を引いているに過ぎず、神人と呼ばれる存在はまたそれとは違った。
神の血を引く者の中で、神の力に目覚めたものを神人と呼ぶのだ。
現在、神人はスレイン法国に二人。それがクレマンティーヌがかつて所属していた漆黒聖典と呼ばれる秘密部隊の隊長であり、法国の神官長である。
その能力は桁が違い、神々の残した武具に身を包んだ場合、個人で大陸を滅ぼせるとまで言われる。
ただ、それでも──
大陸内、並び立つ者は極少数とまで言われる神人ですら、先ほどまでこの玄室にいた化け物と戦った場合どうなるかが、クレマンティーヌですら予測がつかなかった。
人間程度の強さに対する判断力では、遥か高みにある化け物同士、どちらが強いかなどと判別がつくはずが無い。両者とも強いというレベルでしか計れないのだ。
「………………」
「かもね。しかし、本当に邪神がいるとは」
「………………」
「まぁ、確かに。普通に神様かもしれないし、法国以外で生まれた神人かもしれないか。あとは竜王とか? 大罪者の血を引いている線もあるし……分からなーい。それでそっちはどーするのー。裏切りが許さないっているなら殺しあおうよー」
「………………」
「は? まじ?」
クレマンティーヌは驚いたように男を見下ろす。思わず耳をほじくり、何も詰まってないことを確認する。
「……いや、まぁいいけどさ。……裏切ってくれる人間は多い方が嬉しいわ。まぁ、そうよね。貴方だってアレには勝てないものね」
「………………」
クレマンティーヌは苦笑いを浮かべる。憮然とした男の「あんなのに勝てる人間がいるか、アホ」という言葉はクレマンティーヌも強く同意するところだ。
「あー。そうね。取り敢えずは聖王国に逃げようか。あっちは風花も教団もあんまり動いてないし。あそこでしばらく身を潜めて、それから考えるとしましょう!」
良い考えだとクレマンティーヌは笑い、男もそれに頷いた。
◆
「やれやれだったな……」
馬車に戻って開口一番飛び出たのは、愚痴であった。
アインズはアンデッドであるために疲労感を感じたりはしないはずなのだが、肩ががっくりと下がるような気分を抱いていた。
何故、俺が邪神。生贄とかなんだよ、そりゃ。邪教集団とか馬鹿じゃないの。などという様々な感情を集合体が、疲労感の発生源であった。
アインズは隣で寝かされている少女を眺める。
アインズとしては生贄とされていた二人の子供は、即座に解放するつもりであった。その辺に放り出して、知らん振りでも全然構わないと思ってもいた。というのもアインズが命を助けたのは、生贄など捧げられても正直困るという一般人的思考からだ。
決して可哀想などと言う人間らしい気持ちからではない。
確かに皆無かと問われれば、頭を捻ったかもしれない。人の命を奪うことに迷いは無いが、それでもまるで関係の無い命を奪いに行くほど、アインズは残酷ではないのだから。
それに殺すことにもメリットが無い。経験値という観点からしても、せいぜい2点ぐらいだろうから。
ただしそれ以降は考えてみれば蛇足であった。
利益があれば殺害を黙認しただろう価値の無い命に、アインズが別になんのかんのと手を割く必要もない。だからこそ最初は放置と考えたのだ。それが一番面倒でない気がして。
ただし、放り出すよりは少しぐらいは優しいところをアピールするのが、色々な面で良いかもしれないと判断し、アインズは御者台に座る男に命じる。
「騎士の詰め所まで向かえ。そこでこの少女達を手渡すとしよう」
せめてそれぐらいはしてやっても罰は当たるまい。折角助けたのだから、最後まで面倒を見てやろう。そんな気持ちでアインズは判断したのだ。
御者は驚くほど従順に、アインズの命令に従い、夜の帝都内を走らせていく。来る時に馬車を乗り換えたぐらい警戒していたのが、ある意味嘘のようだった。
(あれは……私達に警戒する意味ではなく、尾行を警戒してという意味だったのか?)
来る時は外が覗けない様に板が張られていた窓も、いまでは解放されている。そこから外にチラリと視線をやったアインズは、馬車の中で寝る二人の少女へと動かす。
横に寝かせた少女を眺め、それからソリュシャンの横に寝かせたもう一人の少女を眺める。髪の毛をかきあげ、その横顔を観察する。
整った顔立ちの少女たちであり、二人とも非常に酷似した顔の作りをしている。
身長的にも重さ的に同じぐらいなので、恐らくは双子なのだろう。
「ふむ……」
アインズは少女の顔だちをじっくり見つめた。
「……なんというか、品が良いな……」
「でしょうか?」
「ああ……」
この世界はアインズの元いた世界に比べ、美形が多い。ただ、この二人は単なる美形とは違ってこの数日間で飽きるほど見た──特にパーティーの際に──貴族の令嬢的な雰囲気がある。
アインズは手を持ち上げると、ひっくり返したりして、確かめる。
その手は非常に柔らかだった。
「これは……もしかして本当に貴族か?」
手は柔らかく、爪の形も良い。アインズ的には常識的な子供の手のように思われたが、この世界の子供の手は生活レベルに応じて荒れてくる。少女の手は、平民ではありえないような綺麗さだった。
それに服も多少ほつれてはいるが、平民が着るものよりは段違いで質がよかった。
「ソリュシャン、この者たちの服の仕立て、私の目ではなかなかのものと思うが」
「まさにアインズ様の仰るとおりかと。ナザリックに存在するどのような者の服に劣りますが、確かに平民のものとは思われません」
「なるほど……ならば答えは一つか。ソリュシャン、騎士の詰め所に向かうのは止めだ」
「畏まりました。ではどちらに向かわれるので?」
「邸宅に戻るとしよう」
貴族の令嬢がなんらかの理由があって浚われたのでは、とアインズは想像したのだ。
「悪くはないじゃないか。意外に良いネタになるかもしれないな」
少女たちを家まで戻せば、もしかしたら恩義を売れるかもしれないと判断したアインズは、ソリュシャンが御者台の方についている窓を開き、そこから馬を操る男に命令を下す姿を眺めながら、今晩の行動について考える。
今回の一件は利益に繋がったのだろうか、と。
超位魔法であり、経験値を消費する魔法までを使った価値はあったのだろうか。あの戦争で得た経験値、さらには転移前から貯蓄されていた経験値はこれで空になってしまった。
超位魔法《ウィッシュ・アポン・ア・スター/星に願いを》は普通の超位魔法のように発動に時間の掛かる物ではないために、課金アイテムを使用しなくても済んだが、それでも心の中で貧乏性のアインズは転げ回っていた。
ただ、もし、あそこで奇跡を起こさなかった場合はどうなったのか。口だけでうまく誤魔化すことはできただろうか。
邪神と見なされ、崇拝されている中、何もせずに帰った場合のことを考える。
アインズは首を傾げる。
「損はしてないだろう。いや、そう思いたいものだ」
目先の利益だけを追い求めると、大きな魚を釣り逃がすのは営業マンを行っていたときに知った事実だ。ある程度餌を食べさせておけないと、別の漁師が横から持っていってしまうのだ。
そういった部分を考えれば、今回の手は完全な損とは言い切れない。正直、大判振る舞いが過ぎたかもしれなかったが、完全にデメリットしかなかったとは思っていない。
「問題は……邪神だと思っているのが、あの集団以外にもいるのかどうかと言うことだな……。計画を修正した方が良いのか……。レイを使って、意識調査をしてみるか? 私をどのように思っているのか……。英雄、邪神、大貴族……あとは……」
「神に匹敵するお方、ではないかと」
「……そうか? ではそれも付け加えるとしよう」
アインズはソリュシャンにそう答えつつ、いまだコンコンと眠る少女たちを再び眺める。
「しかし目が覚めないが……魔法かな?」
「いえ、先ほど血管内を流れているものを吸って調べましたが、薬物によるものです。大したことのない……失礼いたしました。人間のこれぐらいの子供にとってはかなり強力なものです。実際に心拍数や体温などがかなり低下しております。さらにこの薬物であれば、体内器官のどこかに強い負担をかけると思われます。これぐらいの年齢の子供であれば、何らか後遺症を残す可能性は有ります」
「生贄として殺されるのだから、それほど強い薬でも問題ない。目覚めるのが一番問題だと言うことか。それで……大丈夫なのか?」
アインズの保護下にある間に死なれては厄介だ。
「出来れば早急に毒を抜いた方が良いと思われます」
その言葉を聞き、アインズは考える。
消費アイテムを使用して目覚めさせるのは少々勿体無い。この世界を知れば知るほど、ユグドラシルのアイテムそのものの入手は困難だと分かってきた。消耗品系のアイテムを、単なる貴族の娘程度に使うのは眉を顰めてしまう。邸宅に戻れば、神官系の魔法を使うことのできる者がいるのだから。
それに何より、アンデッドであるアインズは睡眠系のバッドステータスとは無縁であった。そのために睡眠回復のアイテムはほんのちょっとしか持っていなかった。
一言で表せば、今のアインズの心の働きは、貧乏性とよばれるものである。
「ルプスレギナを呼ぶとしよう。……場合によってはナザリックまで戻ってペストーニャに会うとしよう」