金の逆鱗
「着替えたのは! 汗よ! 大量の汗が出たの! おわかりかしら!?」
「あ……はい」
「つくった本人のあなたがすべてを察したような顔で黙り込むのはやめて!」
「いえ、ポーションの効果を思い返すに、汗が出るのも何もおかしなことではありません」
老廃物の排泄とは、発汗も含んでいる表現である。
排便や排尿も含んだ表現であることはあえて明言しないでおく。
……でも水銀って、汗で出るっけ?
汗で出たのは別の老廃物なのだろうか。
「わたしとシラー家のメイドさんが毒味をしたときにはこうはならなかったので、体の中に蓄積された『悪いもの』の量によって、効果の出方が違うのかもしれません」
現にカレンも飲んだあとの体だが、いまだに排泄衝動は起きていない。
恐ろしいポーションをユリウスの目の前で飲んだものである。
「今更そんなことがわかったところで遅いのよ……!」
ペトラがわなわなと震えながら言う。
戻ってきたペトラはドレスを着替えていた。化粧も直してきたようだ。
髪の毛は整えきれなかったらしく、少し乱れている。
ペトラはカレンに顔を近づけて小声で凄んだ。
「よくもユリウス様の前で恥をかかせてくれたわね? もしもエーレルトの後ろ盾さえなければあなたなんて捻り潰してやるところよ!」
ユリウスが気づいていないことに賭けているのだろう。
ペトラが声をひそめてカレンにだけ聞こえるようにまくしたてた。
カレンはすべてを受け入れる姿勢で傾聴した。
「ユリウス様があなたを誘惑したそうだけれど、それはあなたに力があるからにすぎないの。あなたを好きなわけがないのに、調子に乗っているのではなくて!?」
「まったく、ペトラ様のお叱りはごもっともです」
「これで効果が感じられないようなら、本当にどうしてくれようかと思うところよ」
荒い鼻息を整えながら、ペトラは言った。
「もしかして、悪いものが全部出ましたか?」
「もっと小さな声で言いなさいよ!!」
「あっ、すみません」
ペトラに怒鳴りつけられてもカレンはもう、少しも嫌な気持ちにならなかった。
ペトラにはカレンを怒鳴りつける権利がある。カレンはそう思う。
むすっと唇を尖らせながら、手のひらを見下ろしてペトラは言った。
「……今、信じられないほど体調がいいわ。少しおかしなところはあるけれど、ほとんど完治よ」
「完治はしていないと思います。悪い物を出す効果しかないポーションなので、体の傷ついた部分はそのままのはずです」
本当に、彼女に飲ませるのはタンポポの根っこの含まれたお茶でよかったのだろうか。
利尿作用って、水銀に効いたっけ? あれ……効かなかったような気がしてきた。
体から悪いものを出す。そういう作用のある植物をなんでも入れてしまったけれど、それで本当に合っていた?
飲ませて、実際によくなっていると本人が言っている。
だったら合っているのだろうか。
間違っていたとしても、カレンにはわからないのに、ポーションを飲ませてしまったことは正しかったのか――。
「体が軽いから大目に見てあげるのよ?」
今更思い悩むカレンに、ペトラはくるりとその場で回って見せた。
アイドルが踊り出したのかと思った。
あまりの可愛らしさにカレンは目眩がした。
「あなたのポーションがあれば治るってことよね」
「完治したかはわかりませんけれど、改善はしているようですね」
ペトラと同じ症状で苦しむ令嬢が他にいれば、このポーションで症状が緩和するとわかったのは大きい。
ペトラはカレンに向き直ると、可愛らしい笑顔でカレンの顔を覗き込んだ。
「カレン、私のものになりなさいよ。給金は弾むわ」
「そこまでご評価いただき恐縮です。ですがわたしはエーレルトに保護していただいている身ですので、勝手なことはできません」
秘技、エーレルトに丸投げの術。
カレンがやんわりと断ると、ペトラは唇を尖らせた。
「エーレルトの所属なら仕方ないわね。まあ近いし、いいかしら? どちらにせよ、あなたのポーションがあればこれからは安心して白粉を使い続けられるわね。あなたを私のものにできたら、私だけが使い続けられたのに、残念だわ」
「はい?」
カレンはペトラが何を言っているのかわからずぽかんとした。
その時、ユリウスが物音を立てながら立ち上がった。
机を蹴り飛ばしたらしいが、足が長すぎて机の脚にでも当たったのだろう。
そうでないなら何だというのだろうと思いつつ、カレンもペトラもユリウスを見やって息を呑んだ。
そこには笑みを完全に消したユリウスがいた。
「カレンのポーションがあれば治るからと、これからも毒白粉を使い続けるつもりだと?」
「え、ええ……これを使えば、肌が美しく見えますので……」
ペトラがおどおどと答えながら自分の頬に触れた。
それを見たユリウスは右眉を跳ね上げ、フランクを見やった。
「フランク、君の妹の顔を拭きなさい」
「ユ、ユリウス様?」
「君の妹は毒白粉に冒されその治療のために王女殿下に錬金術師を送っていただいたにもかかわらず、今もまだ毒白粉を使い続けているようだ」
確かにペトラは病身にもかかわらず化粧をして戻ってきた。
ユリウスがいる手前、すっぴんではいられなかったのだろうとは思っていたものの、まさかそれが毒白粉だとは思ってもいなかったカレンは唖然とした。
当然、新しく買い求めた安全な白粉か何かだと思っていたのだ。
ユリウスの言葉に、フランクは目を剥いた。
「なんて馬鹿なことを! ペトラ、そいつのせいで体調を崩したこと自体はわかっていただろう!? カレン様に確証をいただくより、ずっと以前から!!」
「だ、だって。ユリウス様に美しくない顔なんて見せられないもの……!」
「ふざけるんじゃない! いいから早くこちらへ来なさい!」
フランクがワゴンの台拭きを手に取りペトラに迫った。
ペトラは逃げようとしたが、腕を掴まれてもなすすべなく捕まった。
だが、よほど嫌なのか身をよじって逃れようとする。
暴れた拍子に机の上のポットが倒れ、中に残っていたポーションが無残に流れていく。
「嫌よ! お兄様、こんなところで化粧を落とせないわ!」
「ユリウス様をお待たせするつもりか!?」
「嫌! 絶対に嫌ッ!! ユリウス様! お連れくださった錬金術師のポーションがあればすぐによくなりますもの! 私を心配してくださるのは嬉しいけれど、どうかお許しくださいませ!」
兄の手から逃れようともがきながら、ペトラがユリウスに手を伸ばした。
その手を冷たく見据えてユリウスは言った。
「私は君の心配など一切していない」
ユリウスの声はぞっとするほど冷たかった。
もみ合っていた兄妹は、そろって気圧されたように動きを止めた。
カレンもまたつられて石のように固まっていた。
「君たちはダンジョンに深く潜ることの困難を知っているか?」
ユリウスは凍りついた空気の中、話しはじめた。