穏やかな退場
押し寄せる人々から逃げるために逃げ込んだひと気のないテラスだったが、とんだ場面に鉢合ってしまった。
カレンが肩を落としてテラスから廊下に戻ると、いつの間にかカーテンの内側に立っていたユリウスがにっこりと笑った。
「カレン、失礼するよ」
「え、なんでここに……キャッ!?」
ユリウスがカレンを抱き上げる。
いきなりお姫様抱っこされたカレンが目を回すのも構わず、ユリウスは歩き出した。
「あのような者の息災を願ってやるとは、君は本当に心優しい」
「聞いていたんですね」
抱き上げられた理由がわかった。
カレンが靴を投げたのも恐らくは見ていたのだろう。
「靴がなくても歩けますよ、わたし」
「カレンが靴をなくしたと知っているのに歩かせるのは私の沽券にかかわるよ」
「そういうものですか」
「そういうものだから、諦めて私に運ばれていなさい」
そういうものらしいので、カレンはカチコチに固まりつつユリウスの腕の中に収まった。
「聞き耳を立ててしまってすまないね、カレン。何か危険なことがあればすぐに介入できるようにしておきたかったんだ」
「お気になさらず。自分の家の中で喧嘩されたら、誰だって気になりますからね」
ライオスとマリアンがもみ合っている姿は、少しぞっとするものがあった。
幸いカレンが止められたからいいものの、助けを呼ばないといけない状況になった可能性もある。
ユリウスがいてくれてよかったのだと、カレンは今更ながらにほっとした。
「カレンはあの男に謝っていたね。まさか、悪いことをしたと思っているのかい?」
「わたし、ライオスのためになんでもやってあげちゃったんです」
「なんでもやってもらったのなら、感謝するべきだろうに」
「十代前半の思春期の男の子の、しかも婚約者の、すべてのお世話をしてあげていたんですよ」
ユリウスが、一瞬口を噤んだ。
「……それは」
「わたしがやるべきことじゃなかったなって、思春期の男の子を傷つけることだって……せめて身の回りのお世話は別の人に任せるべきだったなって、今は思います」
でも、あの頃の警戒心の強いライオスが他の人に身を任せられた気もしない。
何人もの医者に匙を投げられたのは、手の施しようがない状態だったのもあるものの、ライオスの態度が悪すぎたのもあるのだ。
自暴自棄になって、八つ当たりして、理不尽に喚き散らして――あの状況のライオスの世話ができる人をどうやったら見つけられたのか。
役立たずは死ぬべきだというマリアンのような人の言葉が肯定される、この世界で。
金を出したところでまともにライオスを看護しようと思う人が見つかったとは思えない。
いつ妥協してライオスの命を諦めたって、誰にも責められはしなかっただろう。
それでも、カレンは諦められなかった。
前世も合わせれば精神年齢は高いはずなのに、肉体の年齢に引きずられて、本物の子どもみたいに泣き喚いて、癇癪を起こして、ライオスと言い合いをしたことだってあったけれど。
どうしても妥協して諦められなかったから、今のライオスがある。
カレンはそう確信している。
結局のところ、どうすることもできなかったかもしれないなと思いつつも、カレンは思わずにはいられない。
「わたしも悪いことをしてしまったなって、思うんです……なので感謝を求めるつもりはないし、ライオスはもう、自力で治ったってことでいいんです」
ユリウスはカレンをエーレルト家の控え室に連れていった。
カレンをソファに降ろし、靴の手配をするとユリウスはカレンを見下ろし苦笑した。
「カレンは人が良すぎて、見ているとたまに不安になるね」
「人が良いだなんてそんなことはありません。ユリウス様の求婚を受けた時には存分にドヤ顔をさせていただきました。女たちの羨ましげな悲鳴が心地よかったです!」
過剰に善良に思われている気がして性格の悪さをアピールするカレンに、ユリウスは目を細めた。
「君がそんなささやかなことに幸せを感じるのであれば、今後も私にできる限りの幸せを君に味わわせてあげよう」
「待ってください。何やら恐ろしさを感じるのですが?」
「君の錬金術師としての夢を邪魔しないように気をつけはしよう」
「邪魔になるようなことをされようとなさっている??」
「君の脳が溶けない範囲でね」
くすり、と美しく笑うユリウスに、カレンは余計なことを言ってしまったのではないかと冷や汗を垂らした。
すぐさま弁解しようとしたカレンだったが、その時控え室の扉が開かれた。
「カレンさん、こちらにいらしたのですね。ユリウスも」
「義姉上、それにジークも、どうされましたか?」
「ジークが熱を出したようなので、下がらせることにしたのです。挨拶は済ませましたし、もう子どもには遅い時間ですから、先に下がらせても問題はないでしょう」
「ぼくは大丈夫なのですが、母様が心配されるので下がりますね」
落ち込んだ様子のジークの頬は薔薇色に赤らんでいた。
紅顔の美少年という雰囲気だが、カレンたちの目にはジークが熱っぽいのが見てとれた。
「ではジーク様、わたしと一緒に引っ込みましょう」
「カレン姉様はまだパーティーを楽しんでいていいんだよ?」
せっかくジークが主催として開催してくれたパーティーだ。
ネガティブなことは言わず、カレンはソファに座ったままひょいと片足をあげた。
「実はちょうど、靴を片方なくしてしまったところなんです」
「えっ、靴をなくす? 足を怪我したの? 大丈夫?」
「ユリウス様が気づいてここまで連れてきてくれたので、怪我はしていません」
心配してくれるジークに言うと、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「こんなにも盛大なパーティーに参加するのははじめてなので、緊張してしまいました。わたしもそろそろお暇したいと思います。ジーク様と一緒に部屋に下がってもいいですよね? アリーセ様」
「ええ。カレンさんがジークについていてくれたら安心ですわ」
カレンは靴を持ってきてくれたメイドにお礼を言うと、立ち上がった。
「ユリウス様、連れてきてくださってありがとうございます。どうぞパーティーをお楽しみください。ジーク様はわたしと一緒に行きましょうね」
「母様、ユリウス叔父様、おやすみなさい」
「おやすみなさい、ジーク、カレンさん」
「おやすみなさい、アリーセ様、ユリウス様」
カレンが挨拶に続くと、ユリウスは微笑んだ。
「おやすみ、ジーク、カレン。君の夢の中に私が出てきますように」
「ユリウス様ってば、ジーク様の夢に出たいらしいですよ!」
「はいはい。みんなで一緒にぼくの夢に出てきてね」
ジークはカレンをあしらうと欠伸を噛み殺してカレンに手を伸ばした。
「カレン姉様、早く行こうよ」
「ええ、もう夜遅いですからね」
伸ばされたジークの手と手をつなぎ、カレンたちは部屋に戻った。
無邪気につながれた小さな手がとても温かくて、カレンはその手をそっと握り返した。