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お別れ ユリウス視点


「カレン、私のことは今後伯爵様ではなく、ヘルフリートと呼びなさい」

「私のこともアリーセと呼んでほしいわ、カレンさん。今後も仲良くしてもらいたいもの」

「ぼくも!」


ジークが両親の間を割って、カレンに抱きついた。


「カレンとお別れするの、悲しいよ。これからも遊びにきてくれる? うちの厨房で好きなものを作っていいから!」

「ふふ、ありがとうございます。ジーク様。今度はシーフードカレーを作りに参りますね」


あれからカレンは何度かカレーという料理を作ったが、万能薬を再現することはできなかった。

ポーションにはなるが、効果は健康を増進するというもので、ありとあらゆる状態異常を治すという万能薬にはならなかった。


もしかすると、身を守るために再現できないふりをすることにしたのかもしれない。

ユリウスたちがそれ故にカレンを取り込もうとしているのを察して――というには、カレンは万能薬にならないカレーに残念そうなふりをしながら『目玉焼きカレー』だの、『カツカレー』だのと、様々な食べ方を編み出しては夕食会のやり直しで振る舞ってくれた。


食べると体に広がる充足感があった。魔法効果だ。

含まれる魔力量がそれほど多くないせいか、ユリウスの体内魔力を刺激せず、魔法効果の割に気兼ねなく食べることができた。

確かに美味で、万能薬にならずとも次の機会が楽しみになった。

だが、そんな楽しい日々も今日で終わりだ。


ジークはカレンに抱きつき、上目使いで目を潤ませた。


「……カレンのこと、カレン姉様って呼んじゃダメ?」

「えっ?」

「カレン姉様って呼ばせてもらえたら、いつもカレンが近くにいてくれるような気がして、恐い夜もきっと心強いと思うんだ」


カレンは驚いたように目を丸くしていたが、確認を取るようにヘルフリートとアリーセを見やったあと、ジークを見下ろして微笑んだ。


「ジーク様に姉と呼ばれるなんて光栄です」

「ありがとう! カレン姉様っ!」


抱きつくジークをカレンが抱き留める。

ジークの目には本物の涙が浮かんではいたものの、カレンの肩越しにユリウスを見る眼差しは冷静だった。


ユリウスと結婚しないことを選んだカレンを、エーレルト伯爵家に繋ぎ留めるため、行動に移せと促している。

さすがは兄の一人息子だと、ユリウスは舌を巻いた。


だが、どうにもユリウスは動けずにいた。

そんなユリウスのもとに、カレンが近づいてくる。


もうそれは、ユリウスと目が合うたび顔を赤らめて目を背けていたカレンではなかった。

カレンはユリウスをまっすぐに見上げて言った。


「ユリウス様、この度はわたしのくだらない望みに付き合わせてしまい、申し訳ありません」


言って、カレンは頭を下げた。

再び顔をあげても、カレンの水色の瞳には強い意志が宿っていて、ユリウスへの熱が宿らない。


空のような色をした目だと、ユリウスははじめて気がついた。


「国で一番結婚したい殿方として有名なユリウス様と結婚すれば、わたしも何者かになれるような気がしたんです。ユリウス様の数々の功績にタダ乗りして、輝かしい栄光を掴んだつもりになりたかったんです。ですが、それは間違っていました」


間違っているのだろうか、と疑問に思う。

近づいてくる令嬢たちも、ユリウスの妻になることで得られるものを欲している。

ヘルフリートがユリウスをカレンに差し出そうとしたのも同じこと。

政略結婚とはそういうものだろうに。


「カレン。君には私と結婚して、私と私の持ち物である鑑定鏡のどちらも手に入れる方法もあったと思うが、それではいけなかったのかい?」

「夫の持ち物を借りるのと、わたしのものにするのでは全然違います」


カレンは迷うことなく言った。

その躊躇いのなさに、ユリウスは胸が重たくなるものを感じた。


あれほどユリウスを欲しがっていたのに、気持ちが変わってしまったという。

やはりカレンはユリウスを恐れて距離を取ることを選んだのではないか。


「それに、ユリウス様と結婚なんてしたら……その……気が散りますので」


そう言って、カレンを見つめ続けるユリウスの眼差しから気まずげに目を背けた。

ユリウスを恐れているにしては、カレンの反応は何か奇妙だった。

ユリウスから目を背けようとするカレンの顔をのぞき込み、注視する。


すると、みるみるうちにカレンの顔が赤く染まる。

顔を近づければ空色の瞳が熱を帯びることに、ユリウスは妙にほっとした。


「あの? 何でしょうか……近いんですけど!」

「妥協したくないと言ったり、気が散ると言ったり……一体どういう意味なのかと思ってね」


残忍なユリウスの姿を見て恐ろしくなったから結婚したくなくなった、という意味ではないのだろうか?

カレンの鼻先がユリウスのそれに触れかけて、カレンが息を呑む。


真っ赤になり空色の目を潤ませるカレンは、ユリウスから後ずさりしながら叫んだ。


「妥協と言ったのは、それくらいはっきり言わないと、わたしが本気で別のものを欲しがっているとヘルフリート様に伝わらないと思ったからでして! 決してユリウス様を侮辱する意図はありませんので、勘弁してもらえませんか……!?」

「勘弁してもらいたいとは、どうして欲しいということかな?」

「そのお綺麗な顔をわたしに近づけないでいただけませんかね……!?」


毛を逆立てた猫のように叫ぶカレンに、どういうわけか恐れられている気がまったくしない。

その真っ赤な顔のせいだろうか。


「私の顔が近づくと、何か困ることでもあるのかい?」

「気が散って脳が溶けます!!」


カレンは頭を抱えて叫んだ。

顔を近づけるくらいで脳が溶けるわけなどないが、カレンは本気で言っているようだった。


「錬金術どころではなくなってしまいます! わたし、恋愛脳なので!!」


錬金術師として自分の道を自分で切り開いていきたいのだと吐露したばかりのカレンの切実な叫びに、ユリウスは思わずぽかんとした。


「あはは! カレン姉様らしいね」

「うふふ、可愛らしいこと」

「ユリウス、カレンの望みの邪魔をしてはいけないぞ」


笑っているジークたちの姿に、カレンは赤い顔をしたまま半泣きになった。


「本当に、勝手なことばかり言って申し訳ございません……」

「いや、あれくらい言われなければ、私は確かに君の心からの望みを理解できなかっただろう。ユリウスの兄としての欲目もあった」

「本当に、本当にすみません」


カレンがヘルフリートに何度も頭を下げる。

彼女はどうもヘルフリートを恐がっているようだったが、ユリウスの兄はカレンを優しい眼差しで見下ろしている。

その目は家族に向けるものと同じだった。


カレンはやがて再びユリウスを見やった。


「あの、まさかとは思いますけれど、わたしの言葉でユリウス様を傷つけてしまったなんてこと、ありませんよね……?」


カレンが恐る恐るユリウスをうかがう。

殺されかけた我が身を哀れむよりも前に、ジークのために犯人が外部の人間であることを祈ったこの心優しい娘が今度は、ユリウスを傷つけたのではないかと不安になっているらしい。


ユリウスを恐れているわけでも、ユリウスとの結婚が嫌になったわけでもなく。

ただ錬金術師としてありたいだけのカレンが、その人の良さで、己の望むものを望んだことに罪悪感を抱いているようだ。


だったら、その罪悪感を払拭してやるのが恩を被った者の役目だろう。

ユリウスは完璧な笑みを浮かべた。


「我々エーレルト家の恩人たる君が、心からの望みを口にしただけだ。君の夢を応援しこそすれ、傷つくようなことはないよ」

「まあ、そうですよね。わたしとの結婚がなくなったからって、ユリウス様が傷つくなんてありえないですもんね」


カレンは笑いながら胸を撫で下ろすのを、ユリウスはどこか心に引っかかりを覚えながら見つめていた。

カレンは姿勢を正し、再びユリウスを見上げた。

柔らかな茶色の髪を爽やかな風になびかせ、空色の瞳でユリウスを見ている。


カレンを見下ろしていると、晴れた空を見上げているかのような心地になりユリウスは目を細めた。


「ユリウス様のおかげで、わたしは一歩を踏み出せました。あなた様の活躍に胸を躍らせ、お近づきになりたいという気持ちが、わたしの背中を押してくれました」


婚約者に捨てられ、自棄酒を飲んだあげくに勢いでユリウスとの結婚を報酬に望んで依頼を受けた娘。

はじめて会いに行ったときの青ざめた顔とはまったく違う、晴れやかな笑みを浮かべている。


「自分勝手なことばかり言って申し訳ありません。でも本当に……ありがとうございました」


そう言ってお辞儀をして顔をあげたカレンの笑顔が、光り輝いているかのように眩しかった。

ユリウスは目を細めると、気づくとカレンの手を取っていた。


普段から手仕事をする者の、貴族の令嬢とは違う節の浮いた指先だった。

不思議な感情が胸に湧き上がるままに、ユリウスはカレンの指先に口づけた。


「君の夢が叶うことを、私は心より応援しているよ、カレン」


そう言って顔をあげてカレンを見やると、カレンは顔を真っ赤にしてはくはくと口を動かしている。

何か言いたげだが、中々言葉が出てこないらしい。

見守っていると、やがて絞り出すようにして言った。


「これは、妥協とか言ったわたしへの、報復ですね……!?」


敬意を表したつもりなのに、息も絶え絶えにカレンが言う。

もしかしたら、この指先への口づけさえもカレンにとっては夢の妨げになるのだろうか。


だとしてもユリウスはどうにも反省する気にはなれず、カレンの動揺する姿に声をあげて笑ってしまった。


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