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魅惑の報酬 ユリウス視点

ダンジョンから出ると、ヘルフリートからの言伝がダンジョンの門に届いていた。

一旦戻るようにとの言葉に、共にダンジョン攻略をする騎士たちに休暇を与え、ユリウスは重たい体を引きずりエーレルト伯爵邸に戻った。


敷地内に足を踏み入れた瞬間、どこからか明るい笑い声が聞こえてきて不思議に思った。

この屋敷の者たちは誰もが主人たち想いで、ジークが倒れてからは息を殺している。

そこまで思い詰めずともいいとヘルフリートが窘めても変わらない彼らの忠誠心は心強くもあるが、それがジークを追い詰めているようにも感じていた。


様子を見に行ったユリウスは、目の当たりにした光景に目を瞠った。


「じゃあ、次はカレンがユリウス叔父様にサシェを渡す番だからね」

「もうわたしが渡す必要ってない気がしますが」

「ぼくが母様に渡したら渡すって言った」

「言いましたかね??」

「うふふ。本当に仲のよろしいこと」


庭先で、ジークとアリーセがティータイムを楽しんでいた。

ジークはひとりで椅子に座り、カップを自分で手にして口に運んでいる。


ほんの三週間前までベッドに横たわることしかできず、腕を持ち上げることすらできなかったジークの変貌した姿に、何が起きているか理解する前に目に涙が滲んだ。


「大したことじゃないんだから、勢いで渡してしまえばいいんだよ。難しく考えずにさ。あ、化粧箱を用意してあげようか?」

「その言葉を伯爵夫人にサシェをお渡しする前のジーク様ご本人に聞かせたいですね」


ジークが舌を出し、いたずらっ子のように笑っている。

その無邪気な笑顔の先にいる女は――ユリウスとの結婚を報酬に望んで依頼を受けた、錬金術師のカレンだった。






「兄上、ただいま戻りましてございます」

「よくぞ無事に帰ってきてくれた」


ヘルフリートの執務室に入ると、大手を広げてヘルフリートが近づいてくる。

兄であるヘルフリートをずっと見続けてきたユリウスは、その晴れやかな笑顔を見て、すでに目頭が熱くなった。


「あの女は本物だったのですね、兄上」

「ああ。カレンは本物の錬金術師だったよ、ユリウス。素晴らしい錬金術師を連れてきてくれたな」


そう言って、ヘルフリートはユリウスを固く抱きしめた。

香水なのか、爽やかな甘い香りが鼻先をくすぐる。

背中を叩かれ、ユリウスは涙が零れないよう目をきつく瞑った。


「ジークは完治したのですか?」

「完治、というわけではないが、最近熱を出す頻度は確実に減ってきている。熱を出したときの辛さも軽減されているという。これが日々提出されている記録と、カレンの治療方針だ」


そう言って、ヘルフリートが机の上に置いた資料を手に取った。

日々の記録には、ジークの言葉でどのような身体症状が出たか詳細に記録が付けられている。


「ジークが自分の辛さを打ち明けられるようになるとは……」

「それもカレンのおかげだ。ジークを言葉巧みに研究の協力者に仕立て上げて、言わざるをえないように誘導してくれた。私はそれをジークを利用しようとしているのだと思い込み、彼女に無礼を働いたのだが――助けられてしまったよ」


ヘルフリートの視線の先にはビリビリに破かれた契約書があった。


「私は、心のどこかでジークの命を諦めかけていたらしい……それを聡いジークに見抜かれかけたが、彼女が誤魔化してくれた。いや、あれは本気で誤解していたのか……? 何にせよ、彼女には深い恩ができてしまった」


ヘルフリートの言葉に抑えきれない感謝が滲む。

カレンという錬金術師は、あの女、などと呼んではいけない相手になったのだ。

ユリウスは意識を切り替えた。


「ジークを助けるための方便ではなく、実際にジークの症例を題材に、研究論文を書くつもりだそうだ。ジークは喜んでこれに協力している。血筋の祝福への対処方法という画期的な研究論文にエーレルト伯爵家の名が記されるということだ。これは、ジークの実績にもなり得る。それをジークもよく理解している……ありがたい話だと、はじめから思うべきだった」


親戚連中の中には、すでにジークは亡き者として、後継者争いに乗り出している者たちもいる。

ジークが回復すればその動きは鎮静化するだろうが、後継者降ろしの流れが完全に絶ち消えることはないだろう。

今はユリウスがいるため表面化はしていないが、後にジークを苦しめる勢力となる。

だが、ジーク本人に実績ができれば、それがジークを守る盾になる。


「カレンはアリーセにも気を配ってくれている。おかげで私は数年ぶりにアリーセの笑顔を見ることができたよ。ほら、これを見てくれ」


ヘルフリートは嬉しそうに胸のポケットから小さな袋を取り出した。

爽やかな甘い香りが漂う。

抱き留められたときに香ったのはこれだったらしい。


「アリーセが私のために作ってくれた、サシェという香り袋だ。私の髪色と瞳の色に合わせて布とリボンを選んでくれたのだ。ジークに教わって作ったのだそうだよ。ジークは、元はカレンに教わったそうなんだがね」


楽しげに語るヘルフリートの姿を、ユリウスは目を細めて見守った。

カレンが、あの馬鹿げた報酬を要求してきた錬金術師が、兄の柔らかな笑みを取り戻してくれたのだという事実を噛みしめていた。


「今日もアリーセはジークと茶会をするのだと言って、朝から張り切っていた」

「義姉上とジークがいるところを見かけました。二人とも、健やかに見えました」

「何もかもカレンのおかげだ」

「そうなのですね。でしたら――」

「ああ」


ヘルフリートは微笑みを霧散させてうなずいた。


「酒に酔った勢いだったのだろう、一度は辞退を申し出てくれた達成報酬だが――それが彼女の本当の望みであるのならば、エーレルト伯爵家の威信にかけてその望みを叶えるつもりだ。おまえの意志には関わらず、な」

「依頼の受理を受け付けた時点で、私の意志は兄上の意志と共にあります」


困難を達成した者には、正当な報酬を与えなければならない。

他の報酬を与えて茶を濁すことなど、決して許されることではないのだ。


たとえ相手がFランクの錬金術師であってもだ。


大崩壊(スタンピード)が起きた際、魔物があふれるダンジョンから逃げた人々は近隣の町に逃れようとするが、あらゆる分野においてFランクの人間は町に入れない。


町に入れる数には限りがあり、町は有用な人間のみを選別する。

さもなくば、次は自分たちの町で発生するかもしれない大崩壊(スタンピード)を乗りこえることはできないからだ。


ゆえに、有事には真っ先に見捨てられる存在。

そんな存在に助けられたことが至極不思議だったが、それが事実だ。


「この婚姻の妨げとなるすべての要素は、私が排除する」


それがユリウス自身の気持ちでも、と言うかのようにヘルフリートは鋭い眼差しでユリウスを射貫く。

ユリウスはジーク、アリーセ、ヘルフリートの笑顔を順番に脳裏に思い浮かべ、微笑した。


「彼女がエーレルト家にもたらしてくれたものを思えば、私は心からの愛情をもって彼女を妻として慈しむことができるでしょう」


ヘルフリートに肩を抱かれた際に鼻先をくすぐった、甘い香り。

熱い涙を誘われたあの一瞬をもたらしてくれた人のためならば、人生を捧げることさえできるだろう。

それが、カレンにとってよいことなのかはわからないが――当人が望んだことなのだから構わないだろう。


あとでカレンが後悔する日が来るとしても、それはまた別の話だ。


ユリウスはヘルフリートと別れると庭に向かった。

ユリウスに気づくと、ジークとアリーセは笑顔を浮かべた。

カレンを見れば、目を丸く見開いて固まっている。

どういう感情なのだろうか? とユリウスは内心首を傾げた。

好かれているのは間違いないので、女好きのする笑みを浮かべて近づいていく。


「叔父様! お帰りなさい!」

「よくぞご無事でお戻りくださいました」

「ほら、カレン! 今だよ!」

「ひどい空気になったら助けてくださいよ?」


ジークとヒソヒソと言い交わしていたかと思うと、カレンが進み出る。


「ユリウス様、お久しぶりです。よろしければこちらをどうぞ。サシェという、安眠効果のある香りを放つ薬香の香り袋です。まあ試供品のようなものとして」


黄色の布地に金のリボン。

まるでユリウスのためにあつらえたような配色だ。

気まずそうな顔をしているカレンは、達成報酬の件を未だに気にしているらしい。

こちらがそれを条件に依頼の受理を受け付けたのだから気にする必要などないというのに、根が善良なのだろう。


「ありがたくいただこう、カレン」

「えっ」


香り袋を持つ手ごと捉えて、そのまま引き寄せ指先に口づける。

上目に見れば、カレンが真っ赤な顔をして口をはくはくと動かしている。


呼吸の仕方を忘れてしまったようなカレンへ、ユリウスは全力の魅惑の笑みでもって応えた。


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