死を覚悟しないとやってられない男-2
意を決し、俺はミノタウロスを追って駆け始める。どうしようもない時のために準備しておいた命綱を、腰元の小さなポーチから取り出しながら。
「ほらほら! こっち見やがれ!」
取り出したのは火炎瓶。
素早く火を熾せる、魔法という手段を使えない者が持っていても、荷物になるだけで邪魔なアイテムだ。だが、ろくな攻撃手段を持たない俺にとっては、魔法が使えなくても重要なアイテムである。
「……よし!」
俺は取り出した火打ち石を、瓶の蓋になっている可燃性のオイルの染みついた布へと当て、器用に一回の打ち付けで素早く火をつける。火が燃え上がる前に素早く火打ち石を投げ捨て、瓶の底部分を握り直すと、ミノタウロスに向けて全力で火炎瓶を投げつけた。
「グモォォォオオオオオオ!」
火炎瓶はミノタウロスの背中にぶつかって割れると、中のオイルをぶちまけて燃え盛る。
全身が炎に包まれ、ミノタウロスは悲痛な叫び声をあげた。
「グゥゥゥゥ…………?」
しかし、それは一瞬のことで、ミノタウロスはすぐに落ち着きを取り戻す。
そう、ミノタウロスは火炎瓶如きで倒せるほど甘くない。
厚い毛皮が炎熱すらも防ぐため、せいぜい怯ませるのがやっとなのだ。
だが、これで注意を引くことはできた。ここからの動きをミスれば、俺は死ぬだろう。
「グォオオオオオオオオオ!」
一連の行動で怒り狂い、ミノタウロスは思わず委縮してしまうほどの咆哮をあげる。
とはいえ俺の心臓の音は乱れていない。レベル0の俺にとって、死の危険が付き纏う戦いなんて日常茶飯事だからだ。大事なのは、常に冷静に物事を考え、そして躊躇わずに動くこと。
躊躇った瞬間、俺は死ぬ。それだけ、実力に大きな差があるのを俺が一番わかっているから。
「グォ……………ォオ?」
ミノタウロスは、先程の咆哮が嘘かのような間の抜けた声を出す。
ミノタウロスの視界には今、誰も映っていないからだ。
村にいる者ではなく、火炎瓶を投げつけてきた相手を仕留めようとミノタウロスが振り返った瞬間を狙い、ミノタウロスが苦しんでいる間も走り続けていた俺はスライディングし、ミノタウロスの股の間を通り抜けて背後へと回った。
図体が大きく、巨大な斧を両手で持っているミノタウロスの死角は大きい。
ある程度近くまで接近すれば、ミノタウロスは一瞬の間、敵を見失うことになるのだ。
「よい……しょっと」
俺は接近する途中で拾い上げた短剣をミノタウロスの背中へと突き刺し、短剣を利用してミノタウロスの肩の上へと素早く移動する。
さすがにナイフを突き刺した段階で気付かれ、ミノタウロスは右手を斧から離して肩に乗る俺を掴もうと手を伸ばしてくるが―———――
「俺からお前にサプライズ」
それよりも早く、俺はミノタウロスの頭部へと飛びつき、ご自慢の角を掴んだ時の反動を活かしてミノタウロスの右側の大きな鼻の穴へと手を突っ込んだ。
「ぐっ!? ぐっ!? グモッブァァァァァァアア!?」
「ほら、左側にもプレゼントだ!」
「お、お、お、ウボォェベァアァァ!?」
ミノタウロスとは思えない悲痛な叫びが周囲に響き渡る。
両方の鼻の穴に手を突っ込んだ俺は、着地後すぐさま距離を取った。
「どうだ? さすがのミノタウロスでもかなり効くだろ?」
「ァァァァァァァァァアアアアアアアアアア!」
俺の声が聞こえないくらい効いているのか、ミノタウロスは両手の斧を地面に落としてのたうち回り、もがき苦しむ。
俺がミノタウロスの鼻の穴の中に放り込んだのは、俺の熟成に熟成を重ねたマイ靴下だった。
レベル15のリューネを失神させた、折り紙つきの新しい兵器。
リューネを失神させたくらいだし、鼻の穴へと放り込めばそれなりに効いてくれるのではないかと持ってきていたが、正直ここまで効いてくれるとは思わなかった。
仮にこれで効かなかったら、俺は今頃死んでいたので本当にホッとしている。
さすが俺の靴下。リューネを倒しただけのことはあるぜ。
「ディーチ! 今がチャンスだ! 近付いてバンバン撃て!」
ディーチが最初にうっかり攻撃してしまった時はどうなることかと思ったが、これを鼻の穴に入れるチャンスを作ってくれたと考えれば結果オーライだ。
「どうしたディーチ!? 早くしろ! いつまでも効いてくれるわけじゃないぞ! ……多分」
さすがに俺の靴下とはいえ、そこまで臭くないはず……だよね?
しかしディーチは、いつまで経っても矢を撃ってくれる気配がない。
遠すぎて聞こえていないのか、俺は少しだけ近寄って声を張る。
「ディーチ! 村を守りたい……ん…………だろ?」
直後、俺のすぐ右隣を光り輝く斬撃が通り過ぎた。
すぐさま背後を振り返り、もがき苦しんでいるはずのミノタウロスへと視線を向けると、ミノタウロスは今の光り輝く斬撃により、見るも無残な姿と変わり果てていた。
息絶えたミノタウロスは徐々に身体を崩壊させ、光の粒子――魔素へと姿を変えていく。
絶命したモンスターは全て、こうして魔素へと変化するのだ。
そして魂が天に召されるように螺旋を描き、魔素は空へと舞い上がる。
それを取り入れることでソウルジュエルは輝きを増すのだが、魔素は俺に吸収されることなく、ほぼ全て遥か遠くにいる一人の人物へと吸い込まれていった。
俺は戦慄し、頬に汗を垂らす。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ……!」
動悸が速まり、俺の呼吸が乱れる。ここまで恐怖したのは生まれて初めてかもしれない。
「…………ユンケル、見~つけた」
村の方角からゆったりと、長く美しい編みこまれた赤髪を揺らしながら向かってくる人影に、俺は恐怖で小便をぶちまけそうになった。
「言いたいことは?」
そして、ゆったりと歩いているように見せかけて、瞬時に俺の目の前へと移動してきた赤髪の悪魔は笑顔でそう言った。
「素敵な香りだったでしょ?」
次にそう言葉を返した瞬間、俺の意識はぷっつりと途絶えた。
俺、今回それなりに頑張ったと思うんだけどな。