僕の諭吉おじさん

作者: greed green/見鳥望

「これあげるわ。ただし使用期限は今日中よ」


 母さんはそう言って、僕に一枚の紙切れを渡した。

 なんだか頭が良さそうなおじさんが描かれたその紙を手に取って僕はとても戸惑った。


「母さん、これ……」


 母さんはにっこりと笑った。


「そう、諭吉おじさんよ」


 手にした事のない一万円札という大金に、僕の両手は震えた。





 一万円。

 なんでこんなおっきなお金を母さんは急にくれたんだろう。

 その疑問の答えはないまま、僕はとりあえずありがたくこの諭吉おじさんを使わせてもらう事にした。

 とはいえ、まだ小学校2年生の僕にとってこのお金は少々大きすぎる。急に渡されてもどう使っていいものかまるで分からない。

 最初混乱していた僕だったが、そんなにややこしく考える事はないんだと気付いた。

 母さんはこの諭吉おじさんを“あげる”と言った。

 つまり、僕はこれを好きに使っていいんだ。


 僕は自転車にまたがりお日様の下を走り出した。風は気持ち良かったけど、それでもじりじりと肌が焼き上がっていくほど熱い日差しだった。

 頭の回転が鈍りそうな暑さの中で、僕は改めて諭吉おじさんの使い道を考えた。

 頭の中にいくつかの候補が浮かび上がる。

 僕はそれら全てが揃っている場所を目指した。



 自転車を漕ぐこと15分、目的の場所に到着した。

 広大な駐車場を走り抜け、駐輪スペースにすでに多く並んだ自転車の中に自分の自転車を停める。僕はそのまま入口の自動ドアをくぐり、夢の世界へと足を踏み入れた。

 でかでかと書かれた『PANDORA』という看板の文字をパンドラと呼ぶ事を知ったのも、その店の中がこんなにも素敵なもので溢れている事を知ったのもつい最近の事だった。

 友達のゆう君が「パンドラ行こうぜ!」と言うと、周りの皆の笑顔がきらめきだって見えたのがとても印象的だった。その時まだパンドラを知らなかった僕はゆう君にそれを尋ねると、


「お前もきっと気に入るぜ」


 と、得意げに笑って見せた。ゆう君の言葉通りだった。

 テレビの中でしか見る事が出来なかったヒーローや、武器。迫力満点なゲーム。それらが全て目の前に存在している。僕らは度々ここを訪れ店内を走り回った。

 何を手に入れるでもない。見ているだけで十分だった。

 でも、今僕には諭吉おじさんがいる。

 眺めている事しか出来なかった夢を、今なら自分の手に出来るかもしれない。

 前に一度、母さんに欲しいおもちゃをねだってみた事があった。けど、「そんなもの必要ないでしょ。買ってどうするの?」と静かに言い返されたとき、僕は何も言い返せなかった。

 どうするもこうするもない。僕はただそれが欲しいと思っただけだった。

 それ以来、母さんといる時におもちゃをねだる事はしなくなった。

 今日僕の横に母さんはいない。好きに何でも買っていいんだ。欲しいという気持ちそのままに動いていいんだ。

 自由な僕は、わくわくを胸に店の中を歩き始めた。


  

 


 *


 

 

 結果から言えば、夢を持って歩き始めた僕は、ひどく現実というものを思い知らされる事になった。

 まず僕が最初に手にしたのは、朝テレビで放映されている戦隊ヒーロー、ライトレンジャーのおもちゃだった。

 悪の組織を倒す為の数ある武器の一つライトソードは、使用する者の”意志”に応じて色を変える。五色で構成された戦隊のメンバーは皆そのライトソードを持っており、それぞれの色に対応した効果を使用する事が出来る。例えば赤なら炎。剣が光熱を帯び、怪獣を焼き切るだけでなく、刀身から火球を生み出し投げつける事も出来る。青なら氷。緑なら風といった具合だ。

 今僕はその剣が収められた箱を手にしていた。しかもこの剣は僕の手で五色全てに変える事が出来る。最強だ。炎や氷や風を操る自分の姿を想像していた僕は箱に貼られている小さい黄色い四角のシールを見て現実に引き戻される。


「え?」


 3000円。


 そこに書かれていた数字が、その剣の値段だった。

 3000円という事は、確かちょびひげのナツメなんたらって人だ。

 ナツメおじさん3人分。

 諭吉おじさん-ナツメおじさん3人。残りは、ナツメおじさん7人。もしくは名前を忘れてしまったけど、丸眼鏡おじさん1人+ナツメおじさん2人。

 


 僕は剣を棚に戻した。そして他のコーナーに足を向けた。

 次に見つけたのはCMで流れている、二丁拳銃をかっこよく乱れ撃つ爽快感が売りのテレビゲーム。最近発売された事もあって、ゲームソフトのコーナーの中心に特設の台が備えられ、そこにはこれ見よがしに立てかけられたゲームソフトと、顔をすっぽり覆うように伸びた青髪と全身包む黒い衣服が特徴的な主人公の等身大のパネルがあった。

 僕はカッコイイなと思いながらソフトを手に取る。そしてこちらにも同じく黄色い小さなシールが貼られている。


 7000円。


 僕は目を疑った。

 このソフトとライトソードだけで、諭吉おじさんはいなくなってしまうのだ。


 僕はそこで初めて知った。

 諭吉おじさんをとてつもない大金だと思っていたけど、そんな大金もあっという間に、こんなにもあっけなく消えてしまうんだ。

 僕は何も知らなかった。

 お金というものは、こんなにも一瞬にして消えてしまうんだ。

 僕は母さんの言葉を思い出した。


“そんなもの必要ないでしょ”


 母さんは知ってるんだ。ちゃんとお金の価値を。だからあんなふうに言ったんだ。

 使い方を知らないと、お金はすぐになくなってしまうから。

 お金が大切なものだという事ぐらいは知っているつもりだった。

 何をするにもたいていのものにお金は必要になる。

 毎日食べるご飯も。今着ている服も。


 そこでやっと、僕は母さんの意図が分かった気がした。

 どうして母さんは僕に諭吉おじさんをくれたのか。

 きっと、僕にお金の価値を教える為だったんだ。


 ――そっか、そうだったんだ。じゃあ”価値のある”使い方をしなきゃ。







「ただいま」


 家に着くと母さんはソファに座りながらテレビをぼーっと眺めていたが、僕の姿を見るやソファから立ち上がり、僕の方へと近づいてきた。


「ちゃんと使えた?」


 母は微笑みながら尋ねた。


「うん」


 そう言って僕は、諭吉おじさんを両手で母さんに差し出した。

 母さんは戸惑った表情を見せた。


「使ってないじゃない」


 困った顔をしている母さんに僕は教えてあげた。


「今使う事にしたんだ」

「え?」


 意味が分からないといった様子の母さんに、僕は得意げに言いきる。


「僕が使うより、母さんが使った方が価値があると思うから」


 僕は今日、お金の価値を知った。

 そして、僕なんかに扱えるお金ではない事を知った。

 この諭吉おじさんは、まだ僕には使えない。

 でも母さんなら、ちゃんと諭吉おじさんを使えるはずだ。ちゃんと価値のある使い方が出来るはずだ。僕なんかよりずっと。

 だから僕は、母さんに諭吉おじさんを使ってもらう事にしたのだ。

 それでも母さんの顔は戸惑っているように見えたけど、


「分かった。じゃあこれは母さんが使うわ」


 と最後にはため息を漏らしながらそう言った。


 どうやら母さんは納得出来なかったようだ。

 でも、僕はこれ以外の使い道が考えられなかった。だから後悔はしていない。

 

 ――またね、諭吉おじさん。


 僕は心の中で、諭吉おじさんに手を振った。








 人は忘れる生き物だ。

 忘れる事で人は生きていく事が出来る。

 それでも消えない記憶がある。

 残り続ける記憶がある。

 忘れようとしても、嫌でも思い出してしまう記憶がある。

 視覚、嗅覚、触覚。人が持つ感覚がそれを呼び覚ます。

 意図しない引き金が、こちらの気持ちとは関係なく引かれてしまう。

 僕にとって一万円札がその引き金だった。

 一万円も扱えなかった小さかった僕も、今や社会人として月に束の一万円札をもらうようになっていた。

 一人暮らしの部屋で畳に胡坐をかきながら、僕は財布から取り出した一万円札を眺める。


「諭吉おじさんか……」


 馬鹿みたいだと、今は思う。

 あの日の記憶。

 忌まわしく塗りつぶされた記憶。

 母が逮捕されたのはもう7年前の話だ。

 思い出したくもない、腐った記憶。

 でも、こいつを見る度に脳が反射的に記憶を繋げてしまうのだ。

 


 

 高校生だった当時、家に着くと玄関の前にパトカーが止まっていた。

 そして程なくして二人の警官に挟まれるような形で母が現れた。

 母がちらりと僕の方を見た。でも何も言わず、何も表情を変えず、母はそのままパトカーの後部座席に押し込められた。



 逮捕された理由は、偽札の使用だった。

 母の逮捕後、僕にも事情聴取が行われた。

 全く意味が分からなかった。どういう事なのかこちらが教えて欲しいくらいだった。

 取調室で向かいに座るまるで感情のない蝋人形のような刑事に僕は戸惑いや疑問を投げつけた。

 刑事の口から、母が度々偽札を使用していた事が明らかにされた。まだ詳しい事は分からないが、おそらく相当前から使用していた可能性があるとの事だった。おそらくは10年以上も前から。

 それを聞いて僕は、警察も知れてるなと思った。そんなにも長い間、母の犯行は見逃されていたのだ。

 聞けば、母は馬鹿の一つ覚えのように偽札をばら撒くように使っていたわけではなく、ちょっとした買い物にたまに忍ばせるように使用していたらしい。また、当時はまだそれほど偽札に対する対策も整っておらず、それ故にすぐに犯行がばれなかったが、増加の一途を辿る偽札事件の反響は各地に注意勧告が促され、精巧な偽札も見抜く技術が出来た事も伴い、とうとう母の犯行が露見したのだ。

 


 愕然とした。

 警察の言い訳じみた言葉などどうでもよかった。

 自分の母親が犯罪者だった。

 その事実があまりにもショックすぎて、動揺を隠し切れなかった。

 

 ――ちょっと待てよ……。 


 そしてその時、とんでもなく恐ろしい考えが僕の頭をよぎった。



“これあげるわ。ただし使用期限は今日中よ”


 母が突然僕に一万円を渡した日。

 訳も分からず僕はあの一万円の使い道を考えた。

 結局あの時、僕自身で一万円を使う事が出来ず、母にそれを返すという使い方で自分を納得させた。


“ちゃんと使えた?”


 記憶が鮮明になっていく。

 分からない。僕の妄想なのかもしれない。

 でももしあの言葉が、“ちゃんと偽札とばれずに使えたのか?”という意味だったとしたら――。


 一万円を返された時の母のすぐれない表情。

 何でも良かったのだ。ただ僕が、あの一万円で何かを買いさえすれば。

 母は、僕にあの一万円をちゃんと使ってほしかったのだ。

 偽札が問題なく使えるという事を知る為に。

 つまり、あの日僕は、実験台にされたのだ。


 眩暈がし出した。

 分からない。そうと決まったわけじゃない。

 でも後にも先にも、母が僕に一万円をくれる事はなかった。

 それは僕に渡しても、ちゃんと使ってくれないから。


 結局母は自分で使って試したのだろうか。

 その結果、問題なく使える事が証明されてしまい、母は罪に手を浸した。


 僕の思い出は、真っ黒に浸蝕されていった。








 全く色を変えてしまった思い出。

 母が渡した諭吉おじさん。

 僕が使えなかった諭吉おじさん。

 でもそれは、本当の諭吉おじさんではなかった。


「あんたは、本物なのか?」


 目の前の一万円に問いかける。

 厳格さを顔に貼りつけた紙幣の老人は、遠くを見つめるだけで求める返事をくれる事はなかった。


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