第62話 仕掛人
場所は変わり、国境より東にあるアーデルハイトの深き森。木々は茂り、見上げるほどの大木が多くあるこの森は、毒を持つモンスターが生息する為に近隣の人々でも寄り付かない場所とされている。
「倒されてしまいましたか…… 折角レベル6になったというのに、終わりは呆気ないものですね」
だが、そんな忌諱される森にある怪しげな男がいた。数ある大木の1本、その天辺にて遠方を見詰める仮面を被った男だ。仮面は顔の上半分を隠すものでフードも深く被さっており、他人が見れば十中八九不審に思われる身なりである。尤もここは森の中、そのように思う人自体がいる筈もないのだが。
「ネルによってゴブリンヒーローかオークサタン、そのどちらかが撃破される事は予想していましたが、まさか両方が倒されるとは。ですが、彼らを倒し得る実力者がいる。その事実を持ち帰れるだけ、収穫はあったとしましょう。魔法王国アーデルハイト、中小国でありながら大国に囲まれ、長きに渡って生き長らえた国なだけはありますね。それでも、1人2人の強者なら幾らでも対策は立てられます。早速、我が主に進言すると致しましょう」
屈んでいた姿勢から立ち上がり、仮面の男は満足そうに口元に笑みを浮かべた。
―――ズドガァーーーン!
立ち上がる際の、ほんの僅かに視線を逸らした瞬間。先ほどまで視線の先にあった場所から、けたたましい爆発音が鳴り響いた。
「何でしょうか?」
仮面の男が直ぐ様に視線を戻す。音が轟いたのは、オークサタンの軍勢がいた場所、詰まりはネルが築いた焼死体が散乱する草原地帯だ。そこには地面に大きな穴が空いており、まるで何かが破裂したかのような傷跡が残されていた。その現象に巻き込まれたのか、ちょうどその地点で燃え盛っていたオークサタンの体が、跡形もなくなっている。だが、それよりも驚くべきは違う事だった。
「……ネル・レミュールがいない?」
オークサタンに止めを刺したネルが、どこにもいないのだ。草原は見渡しが良く、隠れられるようなものはない。いや、焼死体を積み上げれば可能だろうが、今そうする意味もないだろう。ならば、一体どこへ? 仮面の男は国境の砦やゴブリンの軍勢に目を向け探すも、そちらにいる様子もなかった。
「ちょっと、覗き見とはデリカシーがないんじゃないかしら?」
「―――っ!」
背後からの女の声。それは華やかに澄んだ声、上品に問い掛ける声。しかし仮面の男はその声に身の毛がよだつほどの恐怖を覚え、木から木へと咄嗟に飛び移った。背後にいた女性はネル・レミュール。ついさっきまで遥か遠くにいた筈の、王国最強の騎士だった。
「あら、レディーを相手にそんなに驚くものじゃないわよ。本当に失礼ね」
「……ええ、大変申し訳ありませんでした。私、背後に立たれる事に慣れていないものでして」
仮面の男にとって、気付く事なく背後を取られるのは驚嘆に値する出来事だった。オーク達を傷1つ負う事なく撃滅した実力は元々高く評価していたが、更にもう1段階位置付けを改めなければなるまいと、冷や汗を頬に流す。
「まあいいわ。それで、貴方どこの所属よ? 大方オークとゴブリンを嗾けた一派なんでしょうけど、一応聞いてあげるわ」
「ふふ、私が素直に応じるとでも?」
「消し炭にされる前に吐くか、少しずつ身を焦がしていたぶった後に吐くかくらいは選ばせてあげるわ。どっちが良い?」
ネルの口調は清淑なものだが、その内容は物騒極まりないものである。周囲には声と同時に発せられる重圧がのし掛かり、比喩ではなく本当に押し潰される感覚に陥ってしまう。実際に、足場の木々がメキメキと悲鳴を上げ始めている。それでいて見惚れてしまいそうな笑顔を携えているのだから、始末に悪い。彼女としてはどちらの選択でも良いのだろうが、問われる方の被害は肉体的にも、精神的にも甚大だ。
仮面の男はやれやれと溜息を挟み、白い手袋をした右手の平を前に出して、こう言おうとした。
「どちらもお断りさせて―――」
―――言おうとしたが、遮られた。ズバン。爆発音と刃物が切り裂いた音が入り混じったような、奇妙な響きを耳にする。発生源である右手を見れば、手首から先がなくなっていた。鋭い何かで綺麗に両断されたようで傷口は綺麗な断面に、しかし血は出ていない。傷口は炎で炙られたかのように焦げていたのだ。
「っ!?」
「そう、いたぶられた後に吐くのね。その根性は気に入ったわ」
瞬きの間に間近まで迫ったネルは腰の鞘から、紅蓮に染まった刀身を持つ長剣を抜いていた。斬る、というよりは焼き溶かすという表現が正しいのかもしれない。明らかに魔剣の類だ。
仮面の男はこの危機的状況から脱する為、ある魔法を使用した。詠唱するまでの代償に、右腕の肘と手首の間を斬られはしたが、兎に角魔法は成功した。ネルの前から男は消え、彼はまた離れた大木の上に現れる。
「―――転移魔法。ちょこまかと気配場所がずれると思ったら、また面倒なもの持ってたのねぇ……」
「お褒めに預かり、光栄の至り。残念ですがネル様のご提案は、どちらも遠慮させて頂きます。ですが、自己紹介くらいはしておきましょう。私、この大陸に居を置く魔王様の腹心をしております、ディンベラーと申します。ネル様とは近々相対する事になると思いますが、それはまたの機会に。では」
「逃がすか」
ズドォンとネルが足場としていた大木が弾けたのを最後に、仮面の男、ディンベラーの視界が歪む。転移魔法で移動した際に起こる現象が起こったのだ。次に眼前に広がっていたのは、また異なる光景、異なる場所。緑深き森林の中ではなく、どこか別の小屋らしき屋内だった。転移する瞬間に腹部を斬られそうになったが、それも浅いところで留まっている。
(……ん? 屋内?)
ディンベラーの心の中に、ある疑問が生じる。自分が転移しようとした先は、屋内などではなかったのだ。覚えのない小屋の中を急ぎ見回すと、窓際で黒いローブを着た男が本を読んでいた。黒ローブもディンベラーの存在を認識したようで、特に取り乱す様子もなくパタリと本を閉じた。
「ああ、やっぱり転移魔法だったか。悪いが、勝手に転移先をここに引き寄せさせてもらった。その怪我を見る限り、先にネルと会ったみたいだな」
「なん、ですって……?」
男は自分の力を、それどころか先ほどまでの状況を的確に読んでいた。見れば、男はゴブリン達と戦っていた少女の後ろにいた者だ。確実にネルと協力関係にあり、ディンベラーの頭には最悪な構図が瞬時に描かれていく。更にそれさえも遮らんと、かなり遠くの所でまた
―――ギィ。
小屋の扉が開かれた先に、ネル・レミュールが姿を現す。ディンベラーを、いや、黒ローブの男を見ると、ネルはむすっとした表情を作った。
「何だ、デリスじゃない。気配が増えたと思ったから、仲間を呼んだかと思ったわよ」
「小屋ごと吹き飛ばされなかった幸運を神に感謝だな。いや、信じていたぞハニー。だからその剣抜かないで」
「まったく…… 大方、魔力を引き寄せてここに強制転移させたんでしょう? そんな事しなくたって、こいつの最大転移距離くらい一発で追い付けるわよ。気配辿れば問題ないし」
「
2人はなぜか痴話喧嘩(?)をし始めた。ディンベラーを視界にも入れず、互いに意見をぶつけ合っている。
(今のうちに……)
ディンベラーは転移魔法を発動――― する事ができなかった。
「な、に……!?」
「ん? ああ、だから無理だって。俺の魔力量を超えない限りは、ここにしか転移できなくなってるから」