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第32話 風雲児

 伊藤は混乱した。なぜ、こんな所に悠那がいるのか、まるで理解できなかった。いや、本当は気付いていたが、信じたくなかったのだろう。ほんの数日前まで同じクラスメイトだった女子が、あのような惨劇の発端であったなんて、思いたくもなかった。


 ましてや、伊藤は悠那に淡い恋心を抱いていたのだ。あれは高校に入学して間もない頃、教室で伊藤が佐藤ら不良グループに虐められていたのを、悠那は当然のように注意してくれた。自分みたいな根暗の為なんかに身を挺して護る。今時、そんな事ができる子が、それも同世代の女子にいた事に伊藤は衝撃を受けたものだった。だが、佐藤のような不良には逆効果であり、虐めの対象が移されるだけ。この時伊藤は、心の中で虐めの対象が移ってホッとしている自分がいるの感じていたが、それも仕方のない事だと思っていた。


『ああん? 文句あるのかよ?』


 ああ、あの子が危ない。そう思う伊藤であったが、暴力を振るわれる悠那を見る勇気が出ず、視線を逸らしてしまう。暗闇の視界の中で鈍い音が何度か鳴り、やがて静かになった。教室の中では他のクラスメイトの悲鳴が聞こえた。仕方ない、仕方ない――― そればかりを頭の中で繰り返した。


『大丈夫?』


 次に聞こえたのは、びっくりするくらいに安心する、綺麗な声だった。目を開けると、直ぐそこには自分に手を差し伸べる悠那の姿。彼女の足元には佐藤ら4人が転がっていた。悠那は、男である佐藤達と真っ向から勝負して、無傷で勝ったのだ。


『えっと、大丈夫かな?』


 この時、伊藤は悠那を天使に、いや女神にも思えた。この出来事はクラスでのちょっとした英雄譚となった。佐藤達もまさか女子1人に喧嘩で負けたなどとは教師に公言できず、公になる事もなかったし、悠那の目の届く範囲では伊藤も虐められる事がなくなった。


 やがて、伊藤は恋をした。明るく元気で天真爛漫な彼女を、自然と目が追っていた。部活動などの大会があれば、こっそりと会場に出向き、ビデオカメラで録画したりもした。彼女が勝てば、陰ながら勝利を祝ったものだった。伊藤にとって彼女はいつでもヒーローであり、ヒロインであったのだ。


「えっと、大丈夫かな?」

「あ、ああ、うん……」


 そんな頬に血を付けた女神が、同じ声色で同じ台詞を言う。至福だった筈のその声が、今はただただ恐ろしかった。足元に転がっていたのが、あの時の佐藤達と組員の亡骸かの違いだけだというのに、今は悪魔のように見える。


 ステータスが低いという理由で悠那は転移初日に1人どこかへ連れて行かれ、それ以降戻って来なかった。仮にクラスメイトの元に戻っていたとしても、伊藤には分からぬところではあったのだが、その時にしてしまったクラスメイトの対応が不味かった。期待の裏返し、度重なる罵声、落胆――― その中に入りこそしなかったが、自分はまた何もしなかった。また、何もできなかった。


 自分であれば絶対に心が折れてしまうであろうあの状況で、あの時、連れて行かれた悠那はどんな表情をしていたのだろうか?


 それについては分からない。ただ、1つ確信している事がある。悠那を陰ながら追いかけていた自分だから分かる事がある。


 ―――彼女は、絶対にここで終わる器ではない、と。


「ハル、知り合いか?」


 悠那の背後から、男の声が聞こえた。明るいオレンジ色のローブを着た悠那とは対称な、ダークカラーなローブが印象的な男だ。自分よりも歳はかなり上、30代ほどだろうか? 数日前に悠那を見捨てておいて、今に伊藤が言える事ではないのだが、愛称で呼ぶなんて妙に馴れ馴れしい奴だ。とも感じたようだ。


「あ、はい。クラスメイトの伊藤君です、師匠」

「こいつがか? 何か、俺の想像してたのと違うな……」


 男は観察するような目付きで、伊藤と視線を合わせる。思わず、伊藤は視線を逸らしてしまった。


「駄目ですよ。伊藤君、結構人見知りなところがあるんですから。ね、伊藤君?」

「う、うん……」


 幸いな事に、悠那は伊藤を殺す気がないらしい。むしろ、伊藤を案じているようでもあった。上手く立ち回れば、自分だけでも助かる道もあるのではないか? 心臓の鼓動が早まる中、伊藤は必死にその道筋を思い描く。


「ふーん」


 ただ、男の視線が何物をも見通すような気がして、どうも心に浮足が立ってしまう。


「それじゃあ、伊藤君とやら。君はここで何をしているのかな? 知ってると思うけど、ここのお屋敷は悪ーい人達の溜まり場なんだ。普通は入る事もままならない、悪の巣窟だ。もう一度聞こうか、数日前に城から消えた伊藤君。何でこんな所でゲロ吐いて這いつくばってるの?」


 伊藤に視線を合わせるようにしゃがんだ男は、当然の質問をぶつけてきた。男の瞳から光沢が消え、死んだような目になっている。表情こそ変わらないが、伊藤を怪しんでいる様子がヒシヒシと空気から伝わってきた。ここで選択を間違えれば、後はない。そう考えながら、伊藤は震える口を開いた。


「ぼ、僕は佐藤君達に無理矢理連れられて、城を抜け出したんです。その後も、色々な事を無理強いさせられて……」


 嘘は言わなかった。ここに来たのも元々は佐藤らによる強制であったし、好んでやっていた訳でもない。ただ、自分にも利があった事を省いて説明しただけだ。


「げ、佐藤達もいるんだ」

「そいつらが残りの4人か?」

「たぶん、クラスの不良グループ仲良し組ですね。リーダーの佐藤に、鈴木、高橋、田中の4人で…… 伊藤君を虐めて楽しんでいるような奴らですよ、最低です!」


 良い感じに悠那が追い風を送ってくれている。さっきの怖さはもう悠那からは感じないし、勘違いだったのか、男の方がやったんだ。やはり自分達は運命の赤い糸で結ばれているのでは――― などと、妄想する余裕さえ生まれてきた。しかし、ここはチャンスだ。更に自分が潔白っぽい事を言っておこうと、伊藤は続ける。


「そ、そうだ。街から攫われた人が、この屋敷にいるんです。早く助けないと……! た、確か地下に幽閉されている筈です」


 それとなく、佐藤達がいる2階とは真逆の地下へ誘導する。佐藤達に会ってしまえば、余計な事を喋れられる可能性があるからだ。仮に悠那達が伊藤の言い分を信じてくれたとしても、他の3人は兎も角、佐藤はレベル4の剣士。1階で死んでいた組員とは別格の強さを持っている。自分なんかではどちらが強いかなんて想像もつかないし、ここは捕らえられた少女達と避難するのが先決。ここでの生活は名残惜しいが、悠那が一緒なら話は別だ。あわよくば城に戻ろう。狡猾に、伊藤はこれからの計画を練り出した。


「ふんふん。それで、少女誘拐の主犯格は佐藤でいいのかな?」

「……そ、そうだと思います」

「なら、まずは助けるよりも悪を根元から断つ方が先決だな。これ以上罪のない無垢な少女を増やしては、俺の心が痛む」

「……え?」


 男が、伊藤の体を肩に担いで立ち上がった。伊藤の思考が一瞬止まる。


「師匠、柄にもない事を言わないでくださいよ。でも、悪を断つ意見には賛成です! んー、あっちから笑い声が聞こえますね!」

「……え、ええ?」


 色々な事情から防音が施された佐藤達のいる部屋を、耳を澄ました悠那が指差す。伊藤の思考が真っ白になる。


「キャーーー!?」

「ふわぁっ!?」


 1階から女性の悲鳴が聞こえてきた。使用人か奴隷かが、エントランスの惨状を目の当たりにしたんだろう。伊藤はショックのあまり、気を失う。


「おっと、見つかったか。こっちも早いとこ佐藤君とトロンを見つけないとな。ハル、声のした部屋に案内よろしく」

「了解です!」


 少女だけ助けたとしても、同様の事件はまた起きるだろう。夕食までに帰らねばならない2人は、速攻の完全解決しか頭になかったのだ。気絶した伊藤を担ぎ、2人は2階の通路を進み出した。

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