第31話 身から出た錆
「いてぇ、いてぇよぉ!」
「指、指がぁ……!」
奇襲を仕掛けた組員の2人は未だ床を転げ回っていた。少女の黒杖に斧を弾かれた際、指と腕が曲がってはならない方向に折れ曲がってしまった為だ。その様子に、少女の後に屋敷に入って来た男が顔をしかめた。
「大の大人がそれくらいで騒ぐなよ。こういう世界で生きている人間なんだろ?」
「あ、すみません師匠。止め刺します」
男に向けてそういうと、少女は手に持った黒杖をゴルフクラブのように振り下ろし、倒れた男の頭部目掛けてフルスイングした。ぐちゃりと肉の弾ける生々しい破裂音が場を支配し、続いてもう片方の男にも同様の処理を施していく。エントランスの左右の壁に、真っ赤な花火が咲いた。
「……まだ会話中だっての。まあ、返答は期待してなかったけど。しかし本当に容赦ないな、お前。そこいらの悪人の方がまだ可愛げのある殺し方をするぞ?」
「相手をモンスターだと思えば大丈夫でした、はい!」
「そ、そうか。頼りになるな……」
少女が灰縄の組員達をモンスターと同様だという。それを耳にした組員達は、背筋に寒気が走るような感覚に襲われてしまった。まるで、自分達は人間ではないと宣告された気がしたのだ。少女の言葉に心は恐怖に蝕まれるも、怒りが出てくる兆しはない。彼らも心のどこかで図星であると思ったかは定かではない。但し、時にはモンスターが人にするよりも残酷な行為を働いた事があったのも、また事実だった。
「ひい、ふう、みい――― 16人か。装備と獲物の質は兎も角、全員武装しているな。1分でいけそうか?」
「どうでしょう? 分かりませんけど、頑張ります」
「よし、行ってみようか」
少女の後ろに立つ男が、パンと手を叩く。するとそれと同時に、黒杖を持って少女が組員達に向かって駆け出した。歳相応の表情があった先ほどとは打って変わって、今の少女に感情らしきものが見られない。このまま黙っていれば、殺される。極限まで恐怖を高めてしまった影響か、1階を守護していた組員達は雄叫びを上げながら次々と走り出した。全員で一斉に襲い掛かれば、或いは。そのような考えが僅かにでもあったのだろう。
「うぅおおおーーー!」
怖れを頭から掻き消す為の、渾身の叫び。自らを鼓舞し麻痺させ、考える事を放棄する。そうでもしなければ、眼前の悪魔の恐怖に飲まれてしまう。16人のギャング達は魂を燃やして、決死の特攻を仕掛けたのであった。
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部屋を出た伊藤が1階に続く階段に向かおうと歩いていると、ふと壁に違和感を感じた。トロンくらいの屋敷ともなれば、鹿などの動物の頭部を剥製として飾る、所謂ハンティング・トロフィーがある事は珍しくない。ただ、刃が剥き出しの鉄斧が壁に刺さっているとは何事だろうと思うのは、至って普通の感性だろう。
「新しい趣向の装飾品、なのかな……? ここの人達、変な趣味持ってる人が多いし…… うわ、これ本物?」
刃に指を軽く触れさせると、指先から鋭い痛み。感じた直後に指を離すと、そこからは伊藤の血が少しずつ滴っていた。偽物ならまだしも、本物の鉄斧を飾るとはどんな感性なのか? 僧侶である伊藤は指先にヒールと唱え、不思議に思いながらその場を後にした。
「これで良し、と…… それにしても、今日は屋敷が嘘みたいに静かだなぁ。いつもだったら、喧嘩のひとつも起こるのに」
トロンの屋敷を警備するのは、灰縄の組員達だ。偏に組員といっても、仲間というよりは己の欲求を満たす為の集まり、という意味合いが強く、日々身内の中でも争いが絶えない。その姿は正しくならず者と呼べたが、伊藤にとっては烏合の衆のようにも感じられた。
では、なぜ伊藤はその中に未だ混じっているのか? ここは王城とは違い外からは兎も角、内部からは意外と簡単に出ていける。詰まり、伊藤はいつでも自由に脱出できたのだ。しかし、伊藤は城に戻ろうとは思っていなかった。
佐藤らよりも立場は弱くとも、これでも伊藤は僧侶のレベル3。それなりに重宝され、それなりの待遇を受ける立場にいたからだ。直接手を汚すのは主に佐藤らであり、自分は後方支援の役目を全うすればいい。後は佐藤らの虐めさえ我慢してしまえば、仕事の流れで発生するおこぼれに預かれる。それは伊藤にとって高校生活よりも遥かに華やかな役回りであり、今まででは成し得なかった出来事。頭の中では、このままではいけないという気持ちもある。ただ、それだけだ。伊藤はこの状況に、溺れてしまっていたのだ。それは綺麗事を並べておきながら、実質的には自分も同じ穴の
さっきの奴隷の少女だってそうだ。表面上は可哀想だなと思いながらも、その裏では行為の後で優しく近付けば、ワンチャンがあるのでは? などと下賤な思考を働かせている。彼が城に戻ったところで、ヒエラルキーが変動する訳でもない。ならば、今の状況を享受した方が――― 悪の味を知ってしまった伊藤に、もう後戻りをする気持ちはないのだろう。
「音がしたのは、玄関の方だったかな? 急いでもどうせ嫌味を言われるし、この際ゆっくり――― ん? 何か、変な臭いがする……?」
変な臭いは、エントランスに近づくにつれ強まっていく。足を進める毎に、その臭いの正体が鮮明に描かれていく。
―――鉄臭い。
この職場ではそう珍しくもない、血の臭いだった。ただ、その濃さが尋常ではない。鼻の穴いっぱいに満たす、この嫌悪感。明らかに、1人2人の血の量から発せられるレベルではなかった。
眼前には、吹き抜けのエントランス1階が覗ける手すりがある。そこから少し顔を出せば、この鉄臭いものの正体が分かる。分かるけど、引き返す事もできなくなる。理屈ではなく、伊藤は本能的にそう感じた。
(戻って、佐藤達と一緒に来てもらう? ……いやいや! 万が一何かあっても、あいつらはきっと僕を捨て石に使う。ここはほんのちょっとだけ覗いて、やばそうだったら1人で逃げる。うん、そうすべきだ!)
恐る恐る手すりへと近づく伊藤。勇気を振り絞り、1階を覗き込む。
「……は?」
血だ。ただただ血が広がっていた。煌びやかだった屋敷の床や壁が、紅い血で染まっている。血の海、凄惨な殺人現場。比喩は幾らでもできて、そんな文章は飽きるほど読んだ事があっただろうが、実際にこれほどまで酷い光景を見たのは初めてだった。床には血の発生源だと思われる骸が何体も倒れていて、どこかしらに欠損や、目に見えた致命傷が施されている。1つも無事な体などなく、中には朝に言葉を交わした者も転がっていた。2階から見て誰だか判別がつくのはまだ良い方で、酷いものだと頭部が吹き飛んでいる。まるで血の海に浮かぶ群島だ。
「う、ええぇ……」
思わず、伊藤は吐いてしまった。自分でも分かる不快な音を立てて、鉄臭さと嘔吐物が混じり合い、少しでも油断するとまた吐いてしまいそうになる。不味い、不味い、これは不味い。必死にそう思うも、震える足は一向に動こうとしない。なのに、こんな時に限って耳は余計な音まで拾ってしまう。動揺する伊藤の耳は、何者かが階段を登る足音を聞いてしまった。
(こ、殺される……!)
一分一秒でも速く、這いつくばってでも来た道を戻る。それが彼に残された最善策だった。だが、それを嘲笑うかのように、この惨状を作り上げた悪魔は伊藤に微笑んだ。
「あ、伊藤君だ」
「え……?」
鈴を震わすような澄んだ声に、伊藤は無意識に振り向いてしまう。そこには、転移した初日のうちに行方が分からなくなった女子生徒、桂城悠那の姿があった。