ビッチ令嬢、承ります
「ビアンカ、明日も会えるかい?」
「明日はきっと雨が降るわ。お家にいらっしゃいな、お坊ちゃん?」
「なら明後日は?」
「晴れていたら会えないわ。森に散歩に行っているもの」
「なら、曇りなら?」
「ええ。曇りならね、あってあげられるかもしれないわ、ユージン」
アーチ型の門の外、ビアンカは名残惜しげな客を抱きしめた。
王都の中心街はずれの小さな邸宅。
すぐそこは広い通りであり、胸を押し付けるようにして女に貼りつかれている黒髪の青年の姿は、大勢の人に目撃されているだろう。それこそが、ビアンカの狙いだった。
ビアンカ・ハニーパイ。没落したハニーパイ男爵家の令嬢だったが、借金のかたに債権者の愛人にされる。そして債権者が亡くなったあとは、なしくずしに社交界のあだ花 ―― 高級娼婦と呼ばれる身になっていた。
娼婦といっても、高級娼婦が客と枕をかわすことはめったにない。彼女らはその容姿と話術や芸事で夜会を盛り上げる、いわばホステスのような役割だ。もちろん愛人としての需要はあったが、選ぶ権利は高級娼婦のほうにある。
ビアンカも、そうしたなかのひとりだった。珍しいストロベリーブロンド、幼さの残る可憐な顔とやや小柄な身体、アンバランスに大きい胸。特徴的な容姿と豊富な話題、魅惑的な雰囲気を持つ彼女を愛人にと望む貴族は多い。
だが、ビアンカ自身はもう、誰かの愛人になる気などなかった。いくら豪奢な生活ができたとしても、他人の金をアテにし続けねばならぬのでは、将来が不安すぎて楽しく過ごせない。
それよりは自分の力で稼ぎ、きっちりと貯金し、年を取ったら田舎でそこそこの隠居生活を送ろうと決めていたのだ。もっとも、愛人ではなく本気で結婚してくれる金持ちで誠実な男性が現れるなら、それはそれでやぶさかではないけど。
だからこそ、ビアンカは顧客満足度120%を目標に、仕事をしている。
いまビアンカが抱きしめている黒髪の青年も、そんな客のひとりだ。交易のさかんな街を領地に持つ侯爵家の令息で、通りすがりに振り返らないひとはいないほどの美形 ―― 彼がビアンカに入れあげているという噂は、もう広まりはじめている。
視界の端に彼の従者のしかめっ面をとらえて、ビアンカは 「ふふっ」 とほくそえんだ。
予期せぬ客がビアンカを訪れたのは、ビアンカが青年 ―― ユージンを見送って、しばらくのことだった。
「予約のない、女性のお客様で、ダンヴァーズ伯爵令嬢と名乗っておられますが……」
メイドのマリサに戸惑いぎみに告げられ、ビアンカは口の両端をつりあげる。
「あたしも、彼女がいらっしゃるのを待っていたのよ。お通ししてちょうだい」
「かしこまりました」
案内されて入ってきたのは、銀色の髪にすみれ色の瞳の令嬢だった。きつめだが整った顔は、緊張のためか青ざめている。
ビアンカは彼女を翻弄するように、甘やかな眼差しで微笑みかけた。
「ユージンの婚約者さまね。よく来てくださいましたわ」
すみれ色の瞳が、大きく見開かれる。
「わたくしが、ユージンさまの婚約者だと知って……?」
「ええ。すべて、ユージンから聞いておりますわ。家どうしの都合を優先した政略で、愛などないとか?」
「そのような…… たしかに、まだ、親しくお話したことはありませんけれど…… でもわたくしは、彼を愛しています。彼だって、わたくしにとても優しくしてくれていて。いつも手紙を……」
「それ、あたしに会う前でしょ? 残念ね。ユージンの欲しいものは、もう、あなたとの結婚ではなくなったみたいよ?」
令嬢の顔はますます強ばり、青くなった。
しばらく話し込んだあと、ビアンカは彼女を門の前まで見送った。
「ダンヴァーズ令嬢。また、いらしてくださいね? こんな卑しい身のあたしでもよければ、いつでも大歓迎ですわ」
「…………」
「そうそう。国王陛下の誕生日の夜会には、ダンヴァーズ令嬢もいらっしゃいますの?」
「…………」
「実はあたしも、参りますの。ユージンにどうしても、と、誘われているものですから……」
「…………」
「大きな夜会なので、緊張しそうだわ。もしよろしければ、また、今後について相談しませんこと? ね?」
令嬢は地面に目を落としたまま。ひとつうなずき、馬車に乗って帰っていった。
「ふふっ……」
見送るビアンカの口から、小さく笑いがもれる。
計画は、順調 ―― このぶんだと、彼がダンヴァーズ令嬢との婚約を破棄してくれるのも時間の問題だろう。
令嬢には可哀想かもしれないが、しかたないことだ。
望みに反して無理やり結婚したとしても、わだかまりはきっと、残ってしまうのだから。
小さな亀裂はやがて、大きな亀裂になって、平穏な生活を壊すものなのだ。亀裂を見ないふりをして、なんとかごまかしつつ、やっていけたとしても…… 溜め込んでいた不満は、いずれは爆発するに違いない。
ビアンカの父が、平民出身の愛人に夢中になって大金を貢ぎ、家督を傾けさせたように。
「そうなるまえに壊してあげるんだもの、むしろ、感謝されてもいいくらいだわ」
そうひとりごち、ビアンカは、門のなかへと入っていった。
10日後 ―― 国王の誕生日を祝う夜会が開かれた。
人々の注目を集めているのは、美貌の侯爵令息と、彼がエスコートする可憐な女性。最新流行のドレスに身をつつんだ彼女は、清楚に見えながら、思わず触れてみたくなるような色気をも漂わせている。あふれるような魅力 ―― だが、ユージンの婚約者ではない。
「あれが噂の……」 「まったく侯爵令息ともあろうひとが、なにをトチ狂ったのかしら」 「いや、あのお堅いユージンですらハマるほど、彼女がスゴイってことだろう」 「ビアンカは、大金積んでもなびかない、っていうぜ。逆に羨ましい」 「まあ、いやだ」 「ダンヴァーズ令嬢が、お気の毒だわ」
ひそひそひそひそ……
噂の渦のなか、ユージンは婚約者の前で足を止める。今日のダンヴァーズ令嬢は、エスコート役をほかの者に頼まなかったのだろう。家族からも離れて、ひっそりと壁の花になっていた。
「…………」
沈黙とともに向けられる、すみれ色の瞳に、ユージンは最悪なセリフを叩きつける。
「ダンヴァーズ伯爵令嬢! ただいまをもって、あなたとの婚約を破棄する!」
ダンヴァーズ令嬢は息をのんだ。
あたりがざわつき、人々が集まってくる。見世物を期待する輪のなか、令嬢は目の前の薄情な男を、すがるように見つめた。
「…… なぜ、ですか。わたくしに、なにか……」
「あなたに至らぬ点はない! だが、僕は真実の愛をみつけたんだ……! ここにいる、ビアンカ・ハニーパイ男爵令嬢こそ、僕の真実の恋人だ!」
「…………!」
すみれ色の瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる…… 次の瞬間。
ダンヴァーズ令嬢はビアンカにつかみかかっていた。ふっくらと柔らかそうなほおに、平手を見舞う ――
「ビアンカに、なにをするんだ!」
すんでのところでユージンが、ダンヴァーズ令嬢の手をつかんだ。
「あなたがこんな、乱暴な女だとはしらなかったよ、ダンヴァーズ令嬢! もう、顔も見たくない」
ユージンは乱暴に、ダンヴァーズ令嬢の手を離した。
うつむき、走り去るダンヴァーズ令嬢。
いくつもの視線が、つきささる。その背に、ビアンカは勝ち誇った声を投げ掛けた。
「ごめんなさいね、ダンヴァーズ令嬢。彼、政略よりもあたしをとってくれるんですって。だから、あなたも、もう諦めて幸せになってね」
まったく、本心である。
ビアンカからしてみれば、仮にも婚約者である女性を大切にしようと思わず、己の希望 (欲望?) を優先する男など、ドクズもいいところなのだ。
そんなドクズと親に言われるままに結婚などしなくて、良かったではないか。
ダンヴァーズ令嬢はダンヴァーズ令嬢で、真の自分の幸せを見つければいいのだ ――
「ユージン! おまえが、これほど愚かとは、思わなかったぞ!」
顔を真っ赤にした侯爵と、真っ青な顔をしたダンヴァーズ伯爵が、大慌てでかけつけ、詰めよってくる ――
ここぞとばかりにユージンの腕にすがりつくビアンカ。
「お許しください、お父さまがた……!」
声を震わせ、男たちに上目遣いの眼差しを送る。
―― この侯爵は、あたしの靴にキスするためにダイヤのブレスレットとネックレス、それから包装が全部お札のお菓子を貢いでくれたんだったわね。
―― ダンヴァーズ伯爵…… この人のくれたドレスは、即、たたき売ったんだったかしら。趣味が悪くて…… あれ噂になって、一時笑いものにされてたわね。社交界でセンスがないって、致命的だもの。
「お許しください! あたし、ユージンを愛してしまったんですの! あたしのお腹のなかには、いま、ユージンの子が……!」
侯爵のこめかみの血管がふくれあがり、伯爵のほうからはギリギリと歯ぎしりが聞こえた。
「ユージン! おまえなど廃嫡だーー!」
「レオノーラは修道院に行かせます! 国王陛下のお祝いの場を台無しにするなど、わが娘でも許しがたい――!」
―― その夜のことは、しばらくのあいだ、貴族たちのあいだで愉快に噂され、やがて消えていった。
「ビアンカ、結婚式には、きてくれるかい?」
「もし雨が降ったら、行かないわ。教会に雨宿りのお客様が、大勢いらっしゃるでしょうから」
「でしたら、晴れるまで待ちますわ、ビアンカさん」
ユージンの隣で、レオノーラ ―― もとダンヴァーズ伯爵令嬢が、ほほえんだ。
「森のなかの小さな教会よ。散歩がてら、いらしてくださると嬉しいわ。きっとほかには誰も、いませんわ」
「だったら、ますます邪魔しちゃ悪いじゃない」
「ビアンカさん。あなたにだけは、来てほしいのよ。ねえ、ユージン?」
「そうだね、レオノーラ」
ユージンはうなずいた。
もう、侯爵令息ではない。あの婚約破棄の夜、家から身ひとつで叩き出されたのだ。
―― ユージンはもともと、堅実で真面目な性格だった。
レオノーラとの婚約は政略だったが、特に異存があるわけでもなかった。
それが変わったのは、学院生のとき。
教養科目だった魔法学に夢中になって、専攻科目の領地経営学も副専攻の商学もそっちのけで、魔法の研究に打ち込んだのだ。
結果、専攻と副専攻はボロボロの成績だったが、魔法学は学院から直接スカウトをうけるほどになった。
卒業しても学院に残り、魔法学を続けたい ―― だがその望みを両親にいくら説いても、両親は聞く耳すら持ってはくれなかった。
魔法学を続けたいなら、家を出ていけ。
そうまで言われたが、実際に出ていこうとすると、お前は跡継ぎなんだと止めにかかる。
ユージンは悩んだあげく、頭に円形ハゲまで作ってしまった。
黒髪であるがゆえによく目立つそれを、学友にからかわれているときに、かばってくれたのがビアンカだったのだ。
勢い、悩みを相談した。
「知ったこっちゃないわ」
冷ややかな返事。だが、続けられたことばに、ユージンは、はっと気づかされた。
「他人に聞いて、どうするの? あたしがこうしな、って言ったら、あんた従うの? それで、あとであたしのせいにするの? いま、ご両親のせいにしてるみたいに? やだ、ダサっ」
ビアンカの言うとおりだ、とユージンは思った。
自分で決めなければ。両親のものでも、ビアンカのものでもない、自分の人生なのだから ――
ユージンは悩み続け、円形ハゲが3つに増えたころ、やっと、結論を出した。
家を捨てよう。
学院はユージンを助手の扱いにしてくれるという。とんでもなく薄給だが、ひとりでつましい暮らしをするぶんには、なんとかなる。
唯一、気になるのは婚約者のレオノーラのこと ―― だが、幸か不幸かそこまで親しくない。
おそらくは、ユージンの代わりに家を継ぐ弟と婚約しなおし、すべては丸くおさまることだろう。
ユージンは計画を、ビアンカに話した。
ビアンカは学院の生徒ではなかったが熱心な聴講生だった。彼女が高級娼婦であることを知っている者のなかには 「客との話題づくりのために学があるふりをしたいんだろう」 と冷ややかに見る向きもある。だが、それだけではないとユージンは思っていた。
前に相談したときから、ユージンはビアンカに尊敬の念すら抱いていたのだ。
「ビアンカ、頼みがあるんだ。僕に、ひとりで生きていける術を教えてほしい。もちろん、授業料は払うよ」
「あら。お金までいただけるなら、計画をより確実にできるよう、おまけをつけてあげてもいいわよ」
こうしてユージンは、ビアンカの家に通いつめるようになった。ビアンカのメイド、マリサから家事のひととおりと、家計をやりくりする方法を学ぶためだ。
だが、ビアンカのつけたおまけにより、それは誰の目からも、まったく違うように見えていた。
高級娼婦に夢中になり、周りを省みなくなったお坊ちゃん ―― 噂は広まり、婚約者のレオノーラの耳にまで届くようになった。
レオノーラがユージンを見限るなら、それはそれで、良し。
だが、レオノーラはそうしなかった。
ビアンカのもとに乗り込み、身を引いてもらえないかと訴えたのだ。
そして、レオノーラは計画のすべてを知った。
ビアンカは、レオノーラに言った。
「あの男は、家よりも婚約者のあなたよりも、自身の欲をとったのよ。そんな男、捨てて、次いったほうが良いんじゃない? 侯爵令息でなくなったら、ただの貧乏学者よ?」
「でも、いまユージンさまは、家事のひととおりを叩き込まれているんでしょう?」
「そこ重要?」
「もちろんです。社交しなくていい上に家事も折半。素晴らしいと思いませんこと?」
貴族令嬢というと、それだけで勝ち組と世間からは見られがち。それもあながち間違いではないが、実態は虚しいものだと、レオノーラは思っていた。
生活の中心にあるのは、社交のみ。着飾るのもレッスンを受けるのも教養や話術を身につけるのも、すべて社交のためなのだ。そして、それだけで時間が過ぎていく。
「オシャレやダンスや語学レッスンする時間があるなら、一語でも多く、物語を書き進めたいのです! 噂話に興じるより、作品を推敲するほうが、よほど有意義なのですわ!」
―― レオノーラは、小説を書くのが趣味だった。家族に隠れてこっそり出版社に持ち込み、雑誌連載まで、もぎ取っている ―― だが、そうすると当然、〆切に追われるようになるわけで。
社交する時間のせめて半分でも、執筆にあてたい ―― これが、最近のレオノーラの切実な願いだった。
とはいえ、貴族令嬢である以上、未来は、結婚してまた社交にいそしむ道しかない。望まぬ時間で埋めつくされる予定の人生を耐えようと思えるのは、婚約者を愛しているからこそ、である。
だからレオノーラは、婚約者の浮気の噂をきいても、速攻でポイ捨てなどできなかった。みっともない執着だということは、百も承知。
それでも、この婚約が破棄され、傷物として扱われ、愛してもいない男のもとに嫁がされるのだけは、いやだった。
レオノーラがビアンカのもとに乗り込んだのは次善の策でしかなく、自身のみじめさを思って彼女は青ざめていたのだ。
だがそこで聞いた計画は、レオノーラの目から鱗のすべてをはぎとった。
―― なにも貴族でなくなったって、幸せに生きていく道はちゃんとある。
むしろ、心の充足を幸せとするならば、貴族やるよりそっちのほうが、よほど幸せではないだろうか?
なにしろ、家事とやりくりを完璧にマスターし、薄給とはいえきちんとした仕事を持っている愛する婚約者と暮らし、つまらぬ社交などにわずらわされることなく小説を書けるのだから。
「こんな好条件は、ありません!」
実家をあざむき貴族を捨てるという一大決心に、ますます青ざめつつも、レオノーラはそう、言い切った。
ビアンカは 「愛よりお金のほうがいいと思うけど? しかも、婚約者より学問をとる男よ?」 と首をかしげたが、ユージンとレオノーラへの協力は惜しまなかった。
筋書きはこうである。
―― 国王の誕生日を祝う大々的な夜会で、ユージンがビアンカを連れてレオノーラに婚約破棄を言い渡し、逆上したレオノーラがビアンカにつかみかかる。
衆人環視のなか、これをやられては、侯爵家と伯爵家も、ユージンとレオノーラを厳しく罰するしかない。
ユージンはおそらく廃嫡。
レオノーラも当分は、世間から遠ざけざるを得ない、と伯爵家は判断するだろう。そうなったら、こっそり家出をすれば良い。政略に使えなくなった娘を必死で探すほど、伯爵は愛情ある父親ではないのだから。
それぞれの家を出たあと、ビアンカの家で落ち合い、生活のための準備を整えて出発 ――
いまここ、といったところだ。
これからユージンとレオノーラは小さなアパートに移って新しい生活を始める。
ふたりきりの結婚式は、きっと美しく晴れた日になるだろう。彼らの恩人の、とても親切な男爵令嬢のために。
「顧客満足度120%、どうやら達成ね」
仲良く腕をくんで去っていく彼らを見送ると、ビアンカはそうひとりごちてアーチ型の門のなかへと入って行こうとし…… ふと、気づいた。
門のそばに、ひとりの青年。花束を捧げて、ひざまずいている。
ビアンカは彼を知っていた。
ビアンカがこの門でユージンを見送るたび、にらみつけてきた従者。たしか、裕福な子爵家の次男だったはずだ。地味な雰囲気だが顔立ちが整っているため、しかめっ面でもかわいいのが印象的だった。
…… だが、こちらから声をかける必要などない。
黙って前を通りすぎようとしたビアンカに、青年は焦ったように声をあげた。
「申し訳ありません! あなたを、誤解していました!」
ビアンカは足を止め、ゆっくりと振り返る。
「それがあたしに、なんの関係があるの?」
「ユージンさまから、すべてを聞きました…… これまでの私の態度を、お詫びしたく…… お時間をとっていただけるでしょうか?」
「そうね……」
ビアンカは、初夏の明るい光にあふれた空をちらっと見上げる。
「今日は晴れているから無理ね。これから、森に散歩に行くんだもの」
(おわり)