2-43 もしもなんて
「一之瀬君に、赤坂さん?」
不意に、発せられた声。
二人同時に顔を横に向けると、歩いてくる制服姿の白鳥の姿があった。
やべ、今のやり取り見られたかな?
「じゃあ、私はこれで」
不意に赤坂はいつもの調子になり、フェンス脇に置いてあった鞄を取りに行く。
いきなりのモードの切り替えっぷりにビビる。
「赤坂さん、ありがとう。お疲れさまだね」
「白鳥君も。最終回のリード良かったよ」
しかし、白鳥はその変化を目撃していた筈なのに敢えて触れない。快く手を振って赤坂と挨拶を交わす。
「じゃあ、また明日ね」
夕陽を浴びながら赤坂は手を掲げて帰っていく。その去り際はまるで、西部劇の終わりみたいだった。
揺れるツーサイドテールの背中を、白鳥と微笑ましげに見送る。
「赤坂さん、楽しそうだったね」
「そうか?」
俺はとぼけるのだが、白鳥の表情はどこか真剣だった。
遥か遠くまで見通す鷹の目だ。
「どうしたんだよ?」
白鳥はううん、と首を振る。
「赤坂さんって、やっぱりああいうふうに笑う女の子なんだなあって」
捕手として長年相手打者の思惑を読み取ってきた白鳥。その経験が、赤坂の素の性格を読み取っているようだった。
たった一度の球技大会で赤坂環季と言う女子生徒の深層に迫る慧眼。俺はそれに驚かされる。
「何でも分かっちゃうんだな。流石キャッチャー。優秀だよ、お前」
「そんな事ないから」
しかし、俺の言葉を謙遜と受け取ったのか、白鳥はゆっくり首を振る。
あの劣勢でも決して絶やさなかった。そんな誰かを勇気づけるための穏やかな笑みを浮かべながら、
「でも、僕は一之瀬君に用があってここに来たんだ」
「え? それって、どういう」
そう言って、白鳥は少しだけ眉根を引き締める。
「何で祝勝会、断ったの?」
「ああ。その事か」
教室を出る時、須山と斎藤達に捕まえられた。何でも、野球優勝を祝って女子も合わせた皆でカラオケに行くとの事だった。
「人前で歌うなんて俺にとっては拷問だからさ。断ったよ」
こんな陰キャ全開の事を言うのは恥ずかしい。
でも、白鳥には俺のその場しのぎの言い訳なんてお見通しだ。だから、正直に答える。
「ああ、成程ね」
すると、白鳥は憑き物の取れたような顔で肩を崩す。
「そういう風だもんね。一之瀬君は」
「ええ……」
相変わらず酷い事を言う。
「んで、白鳥は行かないのか?」
「僕も、ああいうのはちょっと苦手」
そう言って白鳥は少しはにかんだような顔を作った。
確かに、賑やかな運動部グループにいる中で白鳥はいつも大人しい。
同じだな、俺はそう思った。
二人で古びたベンチに腰掛けながら、夕暮れのグラウンドを見ていた。
「俺はさ」
黙ってこちらを見る白鳥に語りかける。
「小学校は別の街に住んでいたんだ。この市には中学に上がる時に引っ越してきた。だから、昔の友達とずっと同じ部活で最強を目指すなんてなかった」
野球漫画ではよくある展開。俺はそういうのを小さな頃から読んだものだ。
「結構憧れてたんだけどな」
「物は考えようだよ、一之瀬君」
黙って聞いていた白鳥は俺を見上げ、好戦的な笑みを浮かべる。
「もし別々の市でも、県の大会を勝ち進めばまた会える。今度はどっちが上か対決できるってことじゃない?」
「白鳥――」
「昔馴染みが別の環境で育つ。中学……ううん。高校では敵同士で再会する。それぞれの環境でどれだけ強く成長したか力比べ。どう、燃えない?」
「めっちゃ、燃えるな」
暫くの間、昔を思い返してから答える。
「まあ……それも、もう無くなったけどな」
俺が言うと、傍らの小柄な少年も深く頷いていた。
「一之瀬君と対決してみたかったな」
「俺もだ」
二人して夕焼けを見上げながら、そんな事を言い合う。
――もし、どこかで何かが違っていたら。
例えば、中学以前から俺がこの街にずっと住んでいたり、中学でも野球を続けていれば。
こいつと共に戦ったり、敵同士しのぎを削る。そんな野球も出来たのかもしれない。
「いや……」
しかし、俺は勝手に納得して首を縦に振りきった。
今は今だ。もしもなんて、ない。
でも、その今ってヤツは確かに言える一つの事を俺にくれた。
白鳥と会えて良かった。野球ができて、良かった。
「少し、やっていかない? 硬球で」
そんな事を一人で考えていたら、白鳥が懐から何か取り出しながら言う。
それは、真新しい白いボールだった。
「硬球なんて殆ど知らないぞ、俺」
せいぜい中学時代に、遊びで触れた程度だ。
高校ではこんな硬い球で野球をするのかと驚いたものだ。
もっとも、そんな事を言い合った友達も今は何をしているか分からない。
そんな風に、築きかけては何度も人間関係を失ってきた。
俺は友達だと思っていた相手でも向こうが同じように思っていたかとなると、正直自信が無い。
白鳥とも高校を卒業――もしくは、二年のクラス替えで別々になってしまったら、それっきりのかもしれない。
この十六年未満の人生で、一期一会は俺の座右の銘になりつつある。
ふと、視線に気づくと、不安そうな顔の白鳥がこちらを見ていた。
「だめ……かな?」
「いや」
俺はゆっくりと立ち上がる。
宙ぶらりんで伸ばされたままの白鳥の手。
握られた硬球は、ゴムで出来た軟球には無い赤い縫い目が施されている。
「いいな、それ」
俺は固い縫い糸の感触を確かめるように、それを受け取った。