2-40 決着は呆気なく
「ワンナウトー」
元気なボールが返ってくる。白鳥の掛け声は甲高く、鷹の一声みたいに鋭い。
「ワンナウトだよ! よし、このまま! 行けるよ、一之瀬君」
白鳥がしゃがみ込み、ミットを構えるけれど、俺は非情な現実に絶望した。
「二回も言うなよなあ……」
もう二つアウトを取らなきゃ試合は終わらない。しかも、塁上にはランナーが二人も残っている。
「こうなりゃ江崎さんが言ってたみたいに、それこそ肩が壊れるまでやってやる」
弱気は捨てたし覚悟完了したはずだ。俺はそう言い聞かせて頷く。
「ボール!」
汗が滴り落ちる。六月だってのにバカみたいに熱い。グラウンドの土が熱を籠らせて殺しに来る暑さで責め立ててくる。
息を落ち着けながら、ホームを見据える。
もう一球。
ぐっと太ももに力を込め、投じた。
ガン。打たれたと思った時には遅かった。
稲妻のような打球が頬を掠めていく。
「――ち!」
グローブを構える事も忘れ、反射的に身体を逸らした。
打球はそのまま、地面を抉る様に一つバウンドして後方へ抜けていく。
やられた! ここまで来たのに。
「「おおおおおおおおッ!」」
しかし、振り向いた先では赤坂が今まさに打球に飛びつきキャッチ。黄色い歓声が沸く。
「斎藤君、ファーストに。間に合うっ!」
そのまま地面に飛び込む寸前、赤坂は二塁の斎藤にグラブトス。斎藤はそれを素手で受け取り突っ込んできたランナーをアウトにする。
「風晴!」
そのまま、一塁への矢のような送球が飛ぶ。
「アウト!」
諌矢がしっかりとファーストを踏んだまま捕球、スリーアウト。
赤坂のプロ顔負けの好プレーに、両ベンチから拍手と声が巻き起こる。
俺はそれを呆然と見ている事しか出来ない。
「だから、もう野球部入れよ」
「一之瀬君! 勝った! 勝ったよ!」
白鳥が誰よりも早く一直線にマウンドに駆けてくる。
珍しく狂喜乱舞だ。普段はおとなしくしているのに今は感情露わに諸手を振って喜んでいる。
「ごめん。ちょっと待って……」
しかし、俺は膝が大笑いしている。ついでに肩にも力が入らない。
狂喜乱舞のチームメイトを隣に見ながら、よぼよぼ歩きで挨拶位置にようやくたどり着いた。
「5対4。一年三組、ゲーム!」
審判役の野球部顧問が声を上げ、大人みたいな体格ばかりの三年生クラスと握手を交わした。
「やったー。勝ったぞおおお! 風晴、俺達やったぞ――!」
「つーか、お前。デッドボールで出た以外、何もしてねーじゃねーか!」
試合終了と同時に沸く、俺達のクラス。春を待ち焦がれた冬眠明けのヒグマみたいに喜んでいるのは三振王、須山鉄明だった。
抱き着かれた諌矢もすごく暑苦しそうだ。
応援していたクラスメート達も集まってくる。
俺はそれを見ながら、重い足を引き摺ってバックフェンスの土台にへたり込んだ。
「膝痛ぇ……もう立てない」
生まれたての小鹿の逆再生だ、これ。
コンクリートの土台は熱に当てられじっとりと温かい、というか熱い。
「ほんとすっっっごい!」
ふと、疲労感で萎えていた思考を覚ますような清冽な声。
視線の先、一塁ベンチの前では竹浪さんや江崎さんといった女子達が赤坂を囲んではしゃいでいる。
「赤坂ちゃん。マジで感動したよ!」
「環季ちゃんって中学でソフトやってたって本当!? うちソフト部だから出れなかったんだ。ソフト部入らない!?」
赤坂を囲んでいるのは。女子の派閥を越えた集まりだ。
しかも、その渦中にいるのが赤坂なのだから、何かすごく優しい気持ちになる。
「私は別に……」
普段話さない女子達に矢継ぎ早に攻め立てられ、さしもの赤坂もたじろいでいる。
「ねっ。赤坂ちゃんって結構照れるタイプっしょ!?」
「はあ!?」
竹浪さんの指摘に、赤坂は素で驚いたんのか声を上擦らせる。
赤坂は素の性格を隠していたつもりだったのかもしれないが、これじゃあ丸分かりだ。
「そんなんじゃないから……」
「また謙遜してるー! あれだけ頑張ってたんだから私分かってるよっ」
竹浪さんがもみくちゃにしながら抱き着いた。赤坂がいつも教室で強がっているのは単に恥ずかしがっていただけ。そう思っているのかもしれない。
竹浪さんは赤坂の過去はおろか、それが原因で勝手に拗らせた赤坂が、皆と距離を置きたがっている事情も知らない。
しかし、今はそんな事はどうでもいいのかもしれない。
球技大会前のいざこざすら帳消しにするような、そんな温かな感情が他の女子達にも伝播しているのがはっきりと分かる。
もしかしたら、これをきっかけに教室の赤坂に対する見方が変わるかもしれない。
「本当に、違うから……」
「赤坂ちゃんってかわいーね!」
「やめてよ……竹浪さん。怒るよ?」
憎まれ口を返すと笑いが起きる。もう、いつものピリピリした空気にはならない。
文句を言っている赤坂本人も、照れ臭そうに微笑んでいるからだ。
勿論、その笑顔には愛想だとかその場に合わせる上辺だけの物も混じっているのだろう。表面上仲良くするのが得意な女子だし。
それでも、あいつがこの先もクラスの皆に強がっていたとしても。それが照れ屋だとか微笑ましい物として見てくれるなら、誤解はきっと解けていくだろう。
いや、そうなってほしいと俺は期待していた。
「ねっ。皆で写メ撮らない!?」
「いいねー!」
一人の女子が提案し、赤坂を囲うように人だかりができる。その中にははしゃいでいた須山もいて、汗臭いとか野次られていた。
その中心で赤坂はどこか恥ずかしそうに、しかし、太陽みたいな笑顔を浮かべていた。
「良くなるのかなあ……これで」
少しはクラスのいざこざも解消されただろうか。
安堵の溜息が肺から漏れ出し、俺は萎んだ袋みたいにずりずりと腰を落とす。
コンクリートの土台を背にぼんやり眺めると、三年生も一年生もごったになって騒いでいる。まだ熱戦の余韻に酔いしれているかのようだった。
そうしていたら、人混みの中から抜けるように出てきた人影が二つ、俺の方に近づいてくる。
「お疲れ様だね、一之瀬君」
「赤坂もだけどさ。お前もよくやったよ!」
座り込んだ俺の前に立つのは白鳥と斎藤だった。二人とも今大会の守備の要だ。
最後の打球に飛びついた赤坂も神だった。しかし、即座に反応した斎藤の正確な送球なくして、あのダブルプレーは成立しなかった。
「お、おう。白鳥も、斎藤もお疲れ……」
「なんだよ一之瀬。腰抜けてんのかー?」
からからと乾いた声で斎藤が笑う。
俺達はそうやって、集団からは少し離れた場所でひっそり健闘をたたえ合う。
「お前ら強えな」
と、そんな俺達に話しかけてくる大柄な男子。さっき対戦した三年生のクラスの生徒だった。
「女子の投手も凄かったけど、お前らバッテリーも最高だったぞ」
須山や諌矢を越えるかという長身に青々とした丸刈り頭。どうやら、向こうの応援席から試合を見ていたらしい。
「なあ。お前らまとめて野球部入らねえか? うちは弱小だから歓迎するぞ」
「もう六月ですよ。手遅れでしょう?」
野球がどれだけきついかは知っている。
しかし、それを聞いて、野球部員らしい先輩は爽やかに笑い飛ばした。
「お前らのクラスに野球部で川村っているだろ? あいつなんて未だに硬球なれてねえし。今からでも大丈夫だって!」
敗者とか、学年の差を感じない心地よい声だ。
「それにうちの部、二年が少なくてさ。俺達の学年が引退したら本格的にヤバイんだよ。特に投手と捕手がいなくてな。どうだ?」
すっかり大人の、落ち着いたトーンで俺達を見渡す。
割と本気で勧誘しているつもりらしい。
でも、やっぱり本格的な部に入る勇気は今の俺には足りていない。
勿論、オファーしてくれたのは嬉しいのだけど……
「硬式は怖いし、消防の頃にやったきりなんで――ごめんなさい」
「僕もすみませんが」
俺に続くように白鳥も謹んで辞退する。
「そっか。まあ、気が変わったらでいいわ。じゃあな」
立ち上がる事も出来ずに断る俺と、それから白鳥の頭を両手でわしゃわしゃとひとしきり撫でると、その先輩は去っていった。
「一之瀬はともかく、アキラなら十分通用するんじゃねえの?」
去り行く背中。それを見送りながら斎藤が呟く。
「そんな事ないってば」
白鳥はそう言って踵を返す。斎藤は肩を叩きながらまだ何か冷やかしていた。