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2-38 エースになれなくても

「プレイ!」


 マスクを着けた主審の猿倉が右手を掲げ、試合再開がコールされる。

 打席に入ってきたのは相手チームのキャッチャー。この球技大会を所詮遊びだと言って俺達を笑った、あの三年生だ。


 ――ストレート。

 白鳥のミットに向けて、俺はセットアップから全力で叩き込む。


「ストライク!」

 外角高めを見送った相手の手元がぴくりと動く。俺はそれを見逃さない。

 いいぞ、そのままビビっちまえ。

 今度は低め。白鳥の構えるコース通り、俺は間隔短めに投げ込んだ。


「ボール!」

「ああ! ぎりぎり惜しいっ!」

 応援している誰かが叫ぶ。

 コントロールが微妙に外れ、相手打者は余裕でボールを見送っていた。

 恐らく、俺がペースを乱しているのを悟った上でフォアボールを待っているんだ。

 白鳥の要求コースはまたもストレート。今度はちょい高めの内角。


「なんだこの配球は……」

 そんな声が漏れた。この期に及んで要求する球筋がエグ過ぎる。


「ああ、分かったよ」

 せめて気持ちだけでも、()()()に負けられない。三球目も力いっぱい投げ込んだ。

「ファール!」

 ゴン、鈍い音をさせて弾かれる。

 三塁線ギリギリを逸れていく打球にサードの江崎さんが動きを止めたまま、身体をビクつかせて驚いていた。

 ベンチ脇のスピーカーマイクからは絶えず高校野球のブラバンのBGMが流れている。

 雰囲気付けのつもりで持ってきたんだろうけど、なんかムカつく。


「相手チームの時も応援曲を流すのかよ……」

 忌々しいコンバットマーチを聞き流そうと頭を振ると、汗の水玉がばちばちと跳ねる。


「一之瀬君。コントロール戻ってきたよ」

 そんな事を言って白鳥はボールを返してくるけど、やっぱり肩は痛いんだ。

 赤坂は三試合も投げ勝ってきたのに俺はたった3イニングだけ。それなのに弱音を吐く程にスタミナが切れている。


「ファール!」

 一球外しても、相手打者は食らいついてくる。タイミングもさっきより合ってきた。

 あとはもう、こちらの気力が途切れるかどうか。打たれるか打たれないか。それだけだ。

 でも、肩は重いし上がらない。気合とかそういう理屈でどうにかできるレベルとは思えない。

 それでも強いピッチャーは負けない。マウンドに立ち続ける。そういうものだ。


「本当……バケモノかよ、赤坂あいつは」

 これが赤坂の立っていた場所なんだと思い知る。

 三年生の応援席の連中からも視線を感じた。かわいそうな物でも見るかのような、そんな視線。

 足元の土は、零れたおびただしい汗で黒い染みをいくつも作っている。


「一之瀬君、大丈夫! まだ勢い来てる!」

 拳でミットを叩きながら、白鳥が気を確かにさせようと声高く叫んでいる。


「クソッ!」

 俺は一度、自分の頬を思い切り打ち付ける。

 そして、もう一度白鳥のミットを凝視した。

 そうだ――少なくとも、この場には俺以外にも本気で勝とうとしている奴がいるんだ。白鳥秋良に赤坂環季。

 諌矢はわかんねえ。あいつはいつも飄々としてるからな。でも、この試合を絶対に勝ちたいと思っている奴らは、他にもいる筈だ。


『あんたは人が良すぎる』

 赤坂はいつかそんな事を言っていた。そういうお人好しはバカだって。

 俺は人を信じたい癖に、信じられないから苦しんでるだとか、偉そうに講釈垂れてたよな。

 でも、それは違うよ。俺は人よりも先に自分自身が信じられないし、それは心の弱さだ。

 他の人を信じるのはもっと怖い。裏切られたら傷つくから。傷つくのが何よりも怖いくらい自分が大事だから。

 しかし、今の俺は心のどこかでは、赤坂の言う通り皆を信じたいのかもしれない。

 勇気出して投げたいって本音を言って、それでも笑って頷いてくれたからなのかな。

 ここに立ち続けようと俺を後押しした中には、間違いなくそんな感情も入っている。


「……」

 白鳥のコースに俺は首を振る。新たなサインを待ち続ける。

 汗で滑らないように、ジャージの裾で手のひらを拭う。

 馬鹿にされようがくだらないって笑われようが、勝ちたい理由はそんな動機でもいいんだよな。

 ボールを握り直し、投じる。


「ファール!」

 バックネットを叩きつけるファールボール。


「一之瀬君!」

「くそ、もう一度だ!」

 反射的にそんな声を白鳥に飛ばしていた。

 白鳥はマスク越しに、面食らったような顔を一瞬浮かべると、


「……っ!」

 笑いをこらえきれない顔をさせて地面を一瞥。

 そして、細っこい右手を掲げてからしゃがみ込む。

 俺が叫んだのがそんなに面白かったらしい。


「ファール!」

 今度は内側に投げ込んだストレートを当ててきた。

 相手打者が脇を締め、次は打ってやるぞという不敵な顔をこちらに向ける。

 お前の球なんか怖くもなんともない、こんな事に本気になってどうすんのとでも言いたげだ。

 確かにこんな大会、所詮は学校の行事だ。下らないのかもしれない。

 ふと、離れたベンチに座った、西崎とも目が合う。

 あいつはいつもの傲岸不遜な眼差しで、俺やら赤坂を睨みつけるように見ている。


「くそ……」

 本気になるのは格好悪いし下らない。そんな風に見下す奴はたくさんいるのかもしれない。

 でも、生憎俺は、他の人なら何でもない事でも気になる性分なんだ。

 誰も気にしてないのに学校の個室トイレに入るのは気後れしちゃうし、俺自身が被害者になった訳でもないのに、教室内で誰かが嫌な目に遭っているのを見るのも辛い。

 傍観者の癖に、何も変えられない分際で、いつも一人で勝手に落ち込んでいる。

 それでも今この場は、俺自身の力で何とかできるかもしれない。

 ようやく、自分でそんな風に考えられるようになったんだ。

 だから、


 だから、下らないなんて――決めつけんな!


 それら思いを全部乗っけて力いっぱい投げ込んだ。

 一瞬視界がふらつき、その彼方で銀色バットが火花みたいに煌めく。


「……」

 盛大に空振られたそれを見ていた。


「ストライク、バッターアウト!」

 判定を下す拳が高く掲げられ、相手打者は腰をがっくり沈ませていく。


「くっそおおおおおおおおお!」

 迸る絶叫はまるで、今まで馬鹿にしていた態度が嘘だったかのような、そんな咆哮だった。



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