2-37 再びの窮地
赤坂の快打での逆転。
その後、二番白鳥が続き、三番で代打に出た諌矢も本当にヒットを放って追加点を決めた。
「いやー、俺のツーベースどうだった?」
「ムカついた」
ベンチに帰ってきた諌矢にそう答えると、一際楽しそうな顔に変わる。
相手チームの動揺も重なったのか流れは完全に逆転、俺達はまさかの5対2という点差で最後の守りに入る。
「よっしゃああああああ! 行くぜええええええッ!」
すっかりデッドボールの痛みが引いた須山が、テンション高めに守備に出る。本当にうるさい、けど心地良い。
ここを凌げば俺達の勝利だ。
一年生での優勝という快挙は石を投げれば届きそうな、そんな所まで来ていた。
「一之瀬。最終回だけど――お腹痛くない?」
マウンドに上がろうとしたところで、赤坂が話しかけてきた。
「この期に及んでかよ。期待されてないな、俺」
何か心配の掛け方が間違っている気がする。俺はこけそうになる。
「いや、いつものパターンだとそうなるじゃん。大丈夫? 無理そうなら私投げるけど」
世話好きらしい赤坂がじっと俺を見つめてくる。恥ずかしくなって俺はその視線をたまらず逸らす。
「大丈夫。まだいけるよ」
俺はそのままマウンドに上がり準備を始めるが、背後でショートを守る赤坂からの視線の気配は止む気配が無い。本当に赤坂には信用されてないな、俺。
「一之瀬君。最終回だよ!」
キャッチャーマスクを着ける白鳥の顔はどこか明るい。俺を元気づけるだけでなく、自分自身にも言い聞かせているそんな一声。
「よし、やるか」
ボールの感触を確かめながら頷く。グ
ローブの中でストレートの握りを作り――そして、ゆっくりと振りかぶった。
「よし、またヒット!」
三塁前、相手クラスの三年生が年甲斐も無くはしゃぎまくっている。
「おかしいな……」
思いもよらない展開に、俺は額を流れる汗を拳で拭った。
優勝というプレッシャーに飲まれていたのだろうか。のっけから連打を浴びてしまった。
呼吸を整えながら、白鳥のミット目掛けて球を放る。
「いったああ!」
そして、またも……渾身のストレートはレフト方向へ運ばれていった。
外野を飛び越えた軟球が小さく跳ね、その間にホームに一人帰ってくる。これで5対3。まだ二点差あるが、相手はノーアウト。
「くそ。まだ焦る程じゃないってのに」
これまでは何ともなかったのに、途端に心臓が鼓動を早まらせる。ドクンドクンと耳奥で響きやがって。本当に豆腐メンタルだな、俺。
「落ち着いて! 一之瀬君」
それでも、本塁を守る白鳥は俺を励ましてくれる。
「もう一度仕切り直しだ」
小さく息を吐き、気を取り直して投球を続けるのだが、
「バント!」
赤坂が背中から叫ぶ。
コン、と軽い音と共に押し出された打球が俺に向かって転がってくる。
「くそっ」
右手で直接ボールを拾い、白鳥に投げ渡すが微妙に逸れる。
ランナーがホームベースをタッチ、また一点献上。
あと一点で追いつかれる、いよいよまずい状況になってしまった。
「大丈夫?」
「すまん。白鳥。ミスった」
本当ならば落ち着いて一塁に投げるべきだった。
この状況下で投げる場所を間違えるなんて、慣れない事はするもんじゃない。
「まさかセーフティスクイズなんてね。今の人、絶対に僕らと同じ野球経験者だね」
「今のでバント処理下手くそとか思われちゃったかな。次も来たら笑っちゃうな」
白鳥からボールを受け取りながら、打席に入ろうとする三年生に場所を空ける。
すると、白鳥は少し考えた後に無邪気な笑顔を浮かべて俺の土で汚れまくった足元を指さす。
「一之瀬君、結構疲れてない? 膝も笑ってるよ」
何の冗談だ。
「うるさいなあ。今日は殆どしゃがんでたから結構キツいんだよ」
白鳥の軽口に何とか返してマウンドに戻る。だが、やはり動揺は収まらない。
まだ六月なのに、真夏の炎天下みたいに汗が吹き出ている。
「ボール! ボールスリー!」
そこからの投球は二球続けてのボール。相手打者の女子生徒にも完全に見切られる程の球を投げてしまった。
落ち着いて。白鳥はそう言いたげに何度も手を下に振っている。
しかし、どう考えても俺のスタミナはとっくに限界を超えているんだ。
「フォアボール!」
「ラッキー♪」
審判が両手を掲げ、落ち着いた動きで女子の先輩は一塁に向かっていく。ワンナウト一二塁。長打で同点、あるいは逆転という大ピンチだ。
「いいですか?」
終わらない敵の攻撃。たまらず白鳥がタイムを掛けてマウンドに向かってくる。
「打たれたね」
「どうする?」
白鳥に続くように集まってきた内野陣。その中にはファーストに代わって入った諌矢もいた。
諌矢がくれたリードを、俺は台無しにしてしまった。
「ごめん。まさかここまでやられるとは思わなかった」
俺は当事者なのに話の輪に入れない。何よりも、俺一人で何点も相手に取られてしまったその事実が辛い。罪悪感で知らず萎縮してしまう。
「いや、一之瀬君は大分スタミナも落ちてるみたいだからね。仕方ないって」
白鳥は俺を労ってくれるけど、それでも心は晴れない。
三、四回は赤坂に負けず劣らずの全力投球をしたつもりだった。しかし、まさかたったこれだけで消耗してしまうなんて。
「――私はもう大丈夫だけど」
と、そんな重い空気に、赤坂の凛とした声音が差し込まれる。グローブを嵌めたまま腕を組み、劣勢に臆している気配は微塵も無い。
「肩も大分回復してきたし。一之瀬が駄目そうなら、投げてもいいよ?」
「うそでしょ。赤坂さん回復力ありすぎだろ」
諌矢はおどける風に笑うけど、本気で投げ続けた投手の肩がこんな短期間で回復する訳がない。
野球部でなかったこいつでもそれくらい分かっている筈だ。
「赤坂……」
俺は彼女に強い口調で交代を迫った。それがこいつにとっては、屈辱だったのかもしれない。
退くに退けなくなった俺の肩代わりをして、ついでに汚名返上しようとか考えていそうだ。
「あんたはどうなの?」
「へ?」
そんな風に勘繰っていたら、赤坂がぽつりと呟く。
「私は代わっても良いけど、あんたはどうしたいの?」
それは思ってもいない言葉だった。早く代われとか強い口調で責められると思っていたのに。
「あんたが決めて。私は従う」
そう言って、赤坂は真剣な顔を俺に向ける。
いつも赤坂は自分で決めた方針でアドバイスしてきた。俺もそれに従い、結果的に助けられてきた気がする。
でも、この場で赤坂は俺自身の選択を待っているのだ。
「お前、本気で言ってるのか?」
「だからさあ。私は大丈夫だっつってんじゃん。あんたが投げるか投げられないか、あとはそれだけだって話」
じっと見る赤坂の瞳は誰よりも真っすぐ。赤褐色の虹彩の中で、太陽が燃えている。
確かに、俺はここで赤坂に任せてしまった方がいいのかもしれない。
「俺は――――」
遠い記憶が脳裏によぎる。
幼い日のうだるような夏。ある大会で俺は投手を務めていた。
そして、自分の意思で投げ続けた結果、逆転負けをする。友達だと思っていたチームメイトに責められ、口下手だった俺は上手く言い返す事も出来なかった。
中学に上がった時、もう野球をしようとは思わなかった。
今だから。本当に今になって思うけど、彼らは決して俺を嫌いで酷い事を言ってきた訳じゃない。
子供の感情は高校生に比べたらずっと直情的で、一時のテンションで思いもしない辛辣な事を言うものだ。
でも、思い出す度にやっぱり痛い。現に、今も心の隅に残った小骨みたいにチクリと刺さってくる。
あの時も同じように誰かに助けを求めていたら、違う結果になっていたのかもしれない。
今はきっとあの時の再現だ。
赤坂にマウンドを譲るという選択は多分、偽物のサイコロ。でも、偽物でも振ればきっと、今まで俺を縛り続けてきた『見れなかったもしも』を、見る事が出来る。
そんな風に、振り直すチャンスは今だと、一之瀬夏生が後悔してきた過去から解き放たれるのは今だけだと、幼かった自分が暗闇からしきりに急き立ててくる。
「それに――」
不意に、赤坂の消え入りそうな一言がすっと入り込んでくる。遠い彼方の記憶から呼び覚まされる。
目の前の赤坂は俺を見て、続ける。
「それに、一之瀬は一生懸命投げたよ」
熱くかき混ぜられていた感情が波打ったように静まり返っていく。
とろんと揺れる真夏の太陽みたいな赤坂の瞳。その中には驚いた顔の俺がいた。
「ねえ、一之瀬。私が何で野球にマジになってるか分かる?」
不意にそんな事を言う赤坂に、皆が注目する。
「私はあんたを助けたい。一之瀬はこの球技大会の為にいろいろやってくれたじゃない? だから、私も協力しようって決めたの」
「お前……」
何も言い返せない。心強い事を言われてしまった。
多分、球技大会前に赤坂が孤立しかけてクラスの雰囲気がおかしな方法に行ったり、西崎関連のごたごたとか、そういう事を全部ひっくるめて彼女は言っているのだろう。
でも、はっきりと皆の前では言わない。
この中で唯一、諌矢だけはその辺の事情も把握してるだろうけど、他の皆は知らないまま。
怪訝そうな顔を見合わせるだけだ。
「それだけよ。後は何も無い」
「今更そんな事……言うなよな」
俺は拳を握り締め、ようやく言い返した。
いくらなんでも、この状況でズル過ぎるって。
そんな言葉を掛けられたら、いつも逃げたい俺は余計に赤坂を頼りたくなるじゃないか。
俯いた先、マウンドの土は集まった内野陣に囲まれ暗い影を作っている。
「赤坂……」
俺が交代する前の赤坂は確かに疲弊していた。その気の緩んだ一瞬を攻められ逆転を許したのだ。
でも、今の彼女はどうだ。覚悟と決意と絶対にこの状況を覆してやるという意地がその身体に宿っている。
託したい。
赤坂環季ならば、俺ができない事だって難なく成し遂げられる。そういう覇気が身体中から火山みたいに吹き出ている。
彼女が持ち掛けた言葉に素直に頷けばそれで終わりだ。
窮地を救い、ここまで十分やったじゃないか。俺の球技大会の役目はもう終わったんだ。
心の中で俺自身が言う。この場を終わらせようと今も急かしてくる。
記憶の底の嫌な記憶ばかりが、走馬灯のようによみがえって何度も急かしてくる。
「俺は――」
赤坂の目は、こちらをじっと見たまま。俺が自分から決断を下すのをひたすらに待ってくれている。
そうだな、俺は。
その深紅の双眸に吸い込まれそうになりながら、ぐっと拳を握り締めた。
「俺は――投げたい。投げきって勝ちたい」
心の中で叫んでいたのとは、まるで違う言葉がついて出た。
「一之瀬……」
驚きに染まった赤坂の顔。
「こういう時くらい、俺はやれる事をやりたい」
教室で孤独の道を選んでも、他人にどう思われようとも、それでも赤坂は決して弛まない。
自分という信念を貫いて、まっすぐに歩いている。例えそれが良くない結果をもたらそうが、赤坂は自分の信念を曲げる事無く歩いて来たんだ。
それは、いつも逃げてきた俺とは別物の人生だと思った。赤坂と俺は共に十五年と少しの時間を等しく過ごしてきたのに、全然違う。
「ありがとう」
彼女の瞳の中に向かって言い続ける。その虹彩に映る自身の影に語り掛けるように。
ずっと傍らに用意していた弱っちい選択肢は、今や跡形もなく消え失せていた。
「は?」
呆気にとられる赤坂。まあ、感情を書きなぐった言葉をそのまま口から出しただけじゃ伝わらないよな。赤坂はエスパーじゃないんだ。俺の過去も、後悔もはっきりとは知らない。
それでも、俺は赤坂が持っていて、俺が持っていない物を求めたくなった。
同じ十五年生きても、積み重ねてきた物には圧倒的な差がある。
それは重荷なのかもしれない。俺みたいに逃げたやつには背負えない物なのかも。
でも、俺には無い物を持っている赤坂がひたすらに羨ましかったんだ。
「赤坂みたいな『自分』を貫く生き方は、俺みたいなヤツからしたら、すごく輝いて見えるんだ。だから、俺もたまには最後まで頑張ってみたい」
現に、彼女が教室内で西崎と対立する羽目になっても、支持する女子生徒がいるのは、その圧倒的な差の賜物だ。
今はまだ追いつけない、かもしれない。それでも……
俺と赤坂、それに白鳥達。にらみ合ったまま固まったマウンドに、涼やかな風が通り抜けた。
「――分かった」
砂塵舞うマウンドで、赤坂はそう言って笑った。
その柔らかな表情に、肩先で揺れる彼女の赤い髪先。それを見ているだけなのに、たったそれだけでバクバク言っていた心臓は落ち着いていく。
さっきまで崩れそうだった足腰が、おとぎ話の魔法にでもかかったみたいに、たちまち力を取り戻す。
「じゃあ、このゲーム。あんたがシメて」
「任せろ」
俺が言い返すと、赤坂は一足早く踵を返し、ショートに戻っていく。
「持ちこたえられたのは夏生のおかげなんだろ? ここで打たれても、文句ねえって! な?」
諌矢もいつものふざけた調子で肩をくたっと崩す。そして、白い歯を見せて白鳥や江崎さん達と頷き合った。
「流れは向こうにある。でも、最後まで分からない。このまま行こう」
そして、俺を囲んでいたクラスメイト――いや、今のチームメイト達も、元居た守備位置へと戻っていく。
三々五々に散っていく皆を見ながら、俺は一人マウンドに残った。
一人のマウンド。俺はこれからあのバッターと勝負をする。
今までは逃げて来たけど、今度は真っ向から挑むんだ。
「ナツ!」
不意に、背中から声を掛けられ、思わず振り返った。
その先には、グローブを腰に当ててこちらを見る赤坂がいた。
「勝つわよ、この試合」
そう言って力強く二本の足で立っている。赤い髪を靡かせ、背中から太陽を浴びる彼女はひたすらに頼もしい。
ああ……やっぱ、こいつはヒロインというより女主人公だな。
首を軽く頷かせ、俺は前に向き直った。
いつの間にか力んでいた物もいい感じに抜けていた。
「ナツ、か」
マウンドを靴先で蹴って慣らしていたら、自然とそんな呟きが漏れる。
小さな頃から周りの大人達に呼ばれ俺の中で自然と受け入れてきたあだ名。でも、大嫌いだったあだ名。
同級生に呼ばれていたのは随分と久しいし、今この場で赤坂に呼ばれるのも酷くむず痒い。
でも……
「まあ、悪い気はしないな」
それなのに、一人マウンドで笑顔を隠せない自分がいた。
心という場所が人間の身体のどこにあるのか、俺は分からない。心臓かもしれないし、脳のどこかに同じ機能を持つ場所があるのかもしれない。
赤坂が呼んだ『ナツ』って言葉は、まさにその居所の分からない身体のどこかに優しく入り込んできて、心をぽかぽかさせてくれる。
一人きりで立つマウンドだけど、不思議と恐れは無くなっていた。
「やるか」
靴先で二度、土を踏みしめる。それが試合再開の合図になった。