2-36 諦めない
「やったな、夏生」
息の上がった身体を落ち着けていた所で、涼やかな声が肩に抜ける。
そこで初めて、一塁脇に立っていた諌矢に気づいた。
「なんだよ、見に来てたのか。相変わらず胡散臭い顔だな」
「はは」
俺がそう言うと、諌矢は困ったように笑う。
「元々は俺も出る試合だったし。それに、あいつが見に行きたいって言うんだよ」
諌矢が長身をくいと傾けた向こうには予備のベンチに座り、試合を眺めている西崎の姿があった。脱いだ運動靴の上に紺ソックスが折りたたまれ、更にその上にでっかい湿布が貼られた白い素足が乗っかっている。
「なあなあ。俺も出ていい?」
その西崎と目配せした後で、諌矢がわざとらしくはしゃぐ。暑苦しいったら無い。
「駄目って言っても出るんだろ。出たがり野郎」
「あ、わかる? 白鳥に聞いてみたら代打で出ても良いってさ」
諌矢からは、先ほどの保健室での憔悴した様子は消え失せている。
西崎とは、一応の話はつけてきたという事か。
「でもさ。まさか夏生がピッチャーやってるとは思わなかったよ。しかも何気に無失点だし」
「お前が野球経験者だって皆に広めるから、俺も投げなきゃって思ったんだよ」
俺は何故か恥ずかしくなって顔を背ける。
「いいじゃん。これで少しは皆の目にも止まるだろ」
そう言って、諌矢は普段の教室での俺を揶揄するような事を言う。
「空気キャラへの皮肉か? それ」
「いんや。今日の夏生を見てたら、こういう風も良いかなって。それだけだな」
「はあ?」
イマイチ良く分からない。諌矢は腰に手を当て、ふっとすまし顔で笑うだけ。
何か憑き物が取れたように身体も軽そうだ。
「まあ、任せとけって。次に打席入ったらぜってー打つから。夏生は引き続き俺を引き立ててくれ」
「分かった。ベンチからデッドボール当ててやる。男子一同からは大歓声だろうな」
「あはー!」
いつもの軽口に、自然と言い返していた。
諌矢の乾いた笑い声が心地いいせいか、俺まで一緒になって口許が緩んで来たじゃないか。
緊張感と羞恥心が紐でも解いたみたいにするする消えていく。
しかし、まだ安心できない。次のバッターは八番。ここまで三振続きの須山なのだから。
「おおおおおっ!なんでだあああ」
空ぶったバットをホームベースに叩きつけ、打席の須山が叫んでいる。
ここまで三振続きの須山。須山の次は同じくノーヒットの江崎さんだ。アウトカウントは既に一つ。ここで何としても塁に出ておきたい。
でも、あの須山が打てる気がまるでしないんだよなあ。
「ストライク、ツー!」
「おいっ! 全試合三振とかマジねーからな!」
応援席には試合に出れない現役野球部員をはじめとするリア充男子もいて、しきりに檄を飛ばしていた。皆明るい表情。
だが、俺は笑えていない。
今日一日、須山の打席を全て間近で見てきたからこそ、言えてしまう。あいつは打てない。
諦めたら試合終了だとは言うけれど、それでも絶望的なくらいに須山は打てないのだという現実を思い知らされてきたのだ。
「ここまでか……」
相手投手が頷き、モーションに入る。その三球目。
しかし、その瞬間、予想だにしない事が起こった。
あれは――!
見た瞬間確信した。
放たれたボールはあらぬ方向へと吸い寄せられるように向かっていき、
「ってえええええッ!」
須山のケツに思いきり当たったのだ。まさかのデッドボール。
「「マジか!」」
味方と相手が同時に立ち上がり驚愕する。
視線の先、須山は尻を震わせて悶絶していた。かなり痛そう。
主審の猿倉が鷹揚に両手を掲げてプレイの中断を宣言する。
須山は真顔のまま立ち尽くし、視線の先の三年投手は青ざめていた。
まさか、乱闘か?
「あああああっ、クソ! ……いってええええよおおお!」
しかし、痛みが時間差で来るときの間だっただけみたいだ。
悶絶に耐えながら、須山が顔をくしゃくしゃにさせて一塁に向かっていった。声はともかく、顔もうるさすぎる。
「須山、痛かったら冷却スプレーあるみたいだけど」
「……いてえ」
俺が声を掛けても殆ど反応は無い。
いつもは黙っていても会話に乱入してくるのに、それほどに余裕が無いようだ。あと怖い。
やっぱクマっぽい。それも、冬眠明けのすごい気が立ってる時のヒグマだ。
俺は須山に一塁を明け渡し、二塁へと進む。
「何とか繋がったか」
しかし、そう思ったのも束の間、
「もうっ。絶対無理だってえ」
その次の江崎さんは空振り三振に終わってしまった。
ベンチに戻っていく江崎さんの肩は力無くだらんとなっていたけど、一生懸命空振りする姿が可愛いから癒される。
「ごめんな。女子相手にも本気出し過ぎなんだよ、あいつ」
二塁の守りにつく上級生が俺にそんな言葉を掛けてくる。先ほどのキャッチャーのように、彼もまたあくまでも遊びでやっているんだろう。
でも、女子相手に手加減したくなる気持ちはわかる。何なく小動物っぽい可愛さがある江崎さんが打席に立ったら、俺だってフォアボールしちゃう自信がある。
でも、これでツーアウトだ。いよいよ追い詰められたか。
『九番、センター。吉川君』
ランナーは俺と須山、それぞれ一二塁。
しかし今打席に入った吉川も、俺や須山と同じようにここまでノーヒットだ。
「よく見て打てよー」
斎藤達が手をメガホンみたいにして声援する。吉川は何も言わず、静かな微笑で返した。
本当無口キャラだなあ、吉川君。
「プレイ!」
相手ピッチャーが投球。
その球速は明らかに遅く、カーブだと遠目でも分かった。
「――おおおおおッ!」
瞬間、吉川が思いきり打球を引っ張った。
一塁線に沿うように、打球が地面すれすれをかっとんでいく。
「いいぞ! 吉川!」
その間に、俺と須山はそれぞれ二塁、三塁に進塁――三塁! マジかよ!
「どうしよ……この展開」
もしかしたら、俺がこの最終回の土壇場で、同点のホームを踏むかもしれないのだ。
その可能性に心臓が震え始める。
しかも、次の打順は一番の赤坂。
「一之瀬。走塁ヘマしないでよ~!」
赤坂は俺を牽制するようにそんな声を飛ばして打席に入る。
牽制球はマウンドの投手が投げるものでは無いんだろうか。
そんな赤坂に、俺は右手を軽く翳して応えておく。しかし、今の一言で緊張が落ち着いたのに気づく。
「環季ちゃん、頑張ってええ!」
ベンチでは応援に来た女子達が黄色い歓声を飛ばしていた。赤坂はこくりと彼女達に頷き返し、そこでまた歓声が一際大きくなる。
何だコレ、めっちゃ頼りがいあるヒロイン感出てる。
土を踏み鳴らし、バットを振り子のように回し、スタンスを取る構えは完全に勝負に挑むプレイヤーの顔。
その赤坂目掛け、投じられる一球目。
「ファール!」
まっすぐ狙いだったのか、躊躇なく打った。
バックネットをガシャンと響かせるボールに応援していた連中が悲鳴を上げた。
しかし、それには目もくれず、赤坂は前方だけを見据えていた。完全に打つ気満々の顔だ。
そして、二球目。
ゴン。乾いた音をさせて白球が飛ぶ。
その瞬間、俺はベースを蹴って走り出した。
走りながら見た打球はグラウンドの果てへと転がっていく。外野が追いつく様子は無い。いいぞ、そのまま遠くにいっちまえ。
「行けるぞ! 一之瀬!」
応援の声に押され、肺が灼けきる思いでホームベースを踏みしめた。
「やった、同点だよ、一之瀬君ッ!」
ホームベース前にいた白鳥が俺に抱き着いてくる。小柄な体がブルンブルンと俺の肩を掴んで宙を舞い、俺もそのまま倒れ込んでしまう。
一対一、同点。赤坂が許した失点は俺がホームベースを叩く事で振り出しにしてやった。
歓喜に沸くホームベース前で、その騒ぎを上書きするような大音量が沸き起こる。
「何だ?」
見ると、外野の中継が失敗し、セカンドがあたふたしているではないか。
「いいぞー! まわれまわれー!」
斎藤や応援に来ていた野球部員が声を上げている。
しかし、即座に相手ピッチャーがカバー。刺すような勢いで返球を寄越す。
猛牛のように突進してくる須山がボールをキャッチした相手捕手と交錯する。ホームベース前に立ち込める土煙。
やがて、その砂塵が晴れ渡り、
「セ、セーフ!」
そこには、三年生キャッチャーを吹っ飛ばし、ホームベースに手を伸ばしてうつぶせになっている須山の姿。
ぶっとい指先はしっかりとホームをタッチしていて、
「ぎゃ、逆転だああああ!」
一瞬の静けさの後に、歓声が沸き起こる。
巨体に吹っ飛ばされた相手キャッチャーが尻餅ついて正気を失ったような顔をしている。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。悪い」
彼の腕を取りながら、もう一度一塁を見る。
「マジ凄い、本当赤坂ちゃん神ってるよ!」
間近で聞く竹浪さんや江崎さん達。その嬌声は、いつまでも俺の鼓膜に残り続けた。