2-35 出来る事をやろう
「さっきはああ言ってたけど。不安でしょ?」
守備変更の申請を終えた白鳥がマウンドまでやってきて話しかけてきた。
「そりゃな。まだアウト一つだし、三塁にいるんだぜ?」
そんな事をかわしながら、互いのグローブとミットを取り替える。
元々、白鳥が使っていたミットは彼の手にしっくりと馴染んでいる、俺にはそう見えた。
この交代劇の間、三塁で待ちぼうけを喰らっていた相手の三年生は退屈そうだ。あまりに長いタイムだったせいか、三塁前に陣を張る仲間と雑談に耽っている。
こっちは初めての登板で大ピンチだってのに気楽なものだ。
「大丈夫。取られたら僕が打って取り返すから。落ち着いてまずはアウト一つ!」
白鳥はぽんと肩を叩いてホームベースに向かっていく。
「頼もしいな……」
あんなに小柄なのに声も大きいし、何よりもはっきりと聞き取りやすい。
ざっと、足元の砂を靴で抉る。
さっきまで皆で集まっていたのに、俺一人だと何だか物寂しいマウンド。
投手としてこの場所に立つのは何年ぶりだろうか。本当に微かな記憶だけ残っている。
でも、それは嫌な古傷みたいにいつまでも心の片隅に残り続けていた。
あの時とは違う。俺は勝ちたいという自分の意思を皆に伝えた。その上でここに立っているんだ。
「プレイ!」
数球の投球練習の後、試合が再開される。
白鳥がミットを構え、俺はそれに合わせて頷き返した。
初球は外角低めのストレート。
――よし、行こうか。
足先まで力を込め、球を握る。
あの日の、まだ野球小僧だった頃に嗅いだ土臭さが鼻腔をくすぐった。
まるで、あの頃に戻ってしまったような、そんな不思議な感覚と共に振りかぶった。
「ストライク!」
「いいよ!」
白鳥から球を受け取る。
俺はあいつのミットを目掛けてボールを放るだけだ。
もう一度サインを見る。今度のコースは内角ギリギリ。
「攻めすぎだろ……当たるぞ」
俺のコントロールを買ってくれているんだろうか。知らず指先にも力が籠る。
いつもの、いつも通りのサイドスロー。重心を傾け、腕を地面と水平にして投げる。
「ああッ!」
小さな悲鳴と歓声。
相手打者はギリギリでバットを当てていた。
打たれた球は鈍い音を響かせて頭上を越えていく。
「っしゃ!」
相手の声と、転がった金属バットの音が耳朶にこびりつく。
「くそ、間に合わないか……!?」
四番に備え、深く守っていた外野手が必死に前に出てくる。
センターを守るのはいつか斎藤が言っていた、確か名字は吉川。守備が上手く、俺と同じ野球経験者らしい。
吉川は落下点を既に確信しているのか恐るべき勢いで駆け出す。普段の物静かで大人しいイメージとは一線を画す動き。
「……!」
そのままスライディングの要領で足から滑り込む。グローブを嵌めた左手は腰に添えるだけ。しかし、ボールはまるで最初からそこに飛び込む予定だったかのように、こげ茶のグローブに収まった。
「アウト!」
「おおお――すげええっ!」
テレビでしか見られないようなスーパープレイに相手チームからもどよめきが起こる。
「吉川、バックホーム!」
すぐ傍で守っていた齋藤が叫び、それに合わせて素晴らしい返球が飛んでくる。
思わず身をかがめ、顔を上げた時には、ホームの白鳥が飛び込んで来たランナーをアウトにした所だった。
「ダブルプレーだあああッ!」
あわや長打になりかけたフライを打ち取り、更にホームで得点も防ぎきってのツーアウト。
呆気なく終わった敵の攻撃に、俺は呆然とマウンドに立ち尽くしたまま。
「何だよこれ。皆やるじゃん……」
その後も試合は淡々と進んでいく。
吉川や赤坂のナイスな守備に、俺は四回裏も守りきった。
そして、希望を繋いだまま、いよいよ最終回の攻撃に入る。
「一之瀬君。いい感じだったよ」
「そうかな?」
ベンチに下がろうとした所で白鳥が俺に声を掛けてくる。
「コントロールも良いし、サイドスローって投法も赤坂さんの速球とは別物じゃない? それが向こうのリズムを崩してるのかも」
確かに赤坂は三振をガンガン取っていくスタイルだったが、俺の場合は打たせてとるような試合運びだ。
そうさせているのは多分、相手打者の思惑を読めるキャッチャー白鳥のおかげだ。
更には……
「吉川、お前マジすげーよ!」
ベンチ横では須山や斎藤が吉川を褒めちぎっていた。普段はあまり表情を顔に出さない吉川も嬉しそうにはにかみ顔。
俺が打たれてもここまで無失点でいられたのは彼のおかげでもあった。
「これじゃあ俺の立場がないよ……はぁ」
「あはは。気にしなくていいってば」
白鳥は慰めてくれるけど、違うんだよなあ。
ピッチャー交代時。俺は赤坂の真似をして場を和ませようとした。しかし、結果的には滑ってしまったのだ。
また黒歴史が増えてしまった瞬間だった。
今は皆それぞれが思い思いに応援観戦しているが、あの場でドン引きした江崎さんの顔が脳裏から離れない。これから先、この出来事を思い出す度について回るトラウマになりそうだ。
「そろそろ行ってくる」
「頑張ってね」
逃げるようにベンチを出ると、丁度三振で打ち取られた竹浪さんが打席から下がってくる。
「一之瀬って野球部経験者なんでしょ? 何とかしてよ~」
しかし、野球経験者とはいえ俺は元々打撃が得意じゃない。
「俺はプレッシャーに弱いんだってば。あんまり期待されてもなあ」
「そんな事言わない! さっきの剣幕はどうした!?」
「さっきって……?」
ばん、と音を立てて平手で背中を叩かれた。
「大丈夫。一之瀬なら打てる、いってこいッ!」
そう言って、もう一度ばちんと叩かれる。痛い痛い。
背中をさすりながらようやく顔を上げる。
「さっきは、あんがとね」
もう一度目が合った先、竹浪さんは、どこか温かい表情。
「え?」
「瑛璃奈の事」
思わず聞き返すと、それだけ言って戻っていく。
「ああ。さっきってそう言う事か」
保健室でのやり取りを言っているのだろう。もしかしたら、そのお返しに弱気になっていた俺を元気づけようとしてくれたのか。
「最終回かぁー」
俺はしばらく放心状態で見ていたけど、顔を振ってもう一度歩き出す。
打席に立ち、正面遥か先まで見通す。
外野の草っぱらの遥か先、校外と隔てたネットの先には田んぼが広がっていて、その上の群青をトンビがゆったりと周回している。
あいついっつも飛んでんな。
諌矢と廊下の窓から見上げる度にいるヤツだ。この期に及んでそんな暢気な事を考えた。
そう思わせるほどの、何とも長閑な地方都市郊外の風景なのだ。
「プレイ!」
五回表。差は一点。俺がここで出ないと、次は全試合三球三振の須山だ。ますます望みは潰える。
古びた銀色のバットの先で砂を擦る。
その向こうに見える相手投手が腕を上げた。
「ストラーイク!」
速球が俺の振ったバット、数センチ先を掠める。
昼下がりも終わりに近い。傾き始めた太陽の輪郭を睨みながら、深呼吸。
せめて赤坂の為にも、ここは打って出たいけど……
「ナイスボール!」
相手キャッチャーが返球したところで、俺に一瞥くれる。
三者凡退ばっかりの俺達の最後の攻撃もあってか、その眼にはどこかしら余裕があった。
「一年は可愛いなあ。本気出してさ」
「え……あ、はい」
俺に話しかけてきたようだ。
まさか、いきなり振られるとは思わなかったのでキョドり気味に返してしまう。
「こんな大会でも本気になれるなんて、羨ましいよ」
キャッチャーは鼻で笑いながら正面に直る。
「何だよ、それ」
向こうからしたらこの試合なんて、大学受験前のレクリエーションみたいなもんなんだろうか。
――皆、あれだけ練習を頑張ったのに。本気で勝とうとしているのに。
俺達一年がどんなに本気を出しても所詮は球技大会と一蹴される。その現状に腹が立つ。
「やってやる」
汗ばんだ手をジャージに擦り付け、ぎゅっとバットを握り締める。
相手は一回からここまで、ずっと同じ投手だ。カーブの時は恐ろしく速度が落ちる。
その落下点に当たりをつけて、俺は待つ。
しかし、カーブ狙いの俺を嘲笑うかのように、二球目は外角低めのストレート。危うく出かけたバットを思い切り堪えて抑えた。
「ボール!」
相手投手の顎先からは汗の雫が落ち、乾いた土を濡らしていく。
キャッチャーはああいうが、相手のエースは間違いなく本気で投げている。向こうのチームにもそういう奴はいるのだ。
向こうも苦しそうだけど、俺も同じだ。
まだ六月だというのに気温はかなりある。一日動き回ったせいか、グラウンドの土を踏みしめる靴底もじんじんと火照っていた。
「ボール、ツー!」
もう一球、ぐっと手を出したくなるのをこらえきった。
コントロールは前に見た打席の時より明らかに悪くなっている。打てない球じゃ無い筈。
「……くッ!」
今度は低めいっぱいで飛び込んできたストレート。それを渾身の力で叩きつける。
ぐに、と鈍い軟球を弾く音。明後日の方向に飛んでいく打球。
「ファール!」
主審の猿倉が喉奥から絞り出すように声を張る。
俺は今し方、振りきったバットを見つめ直す。
――当たった。当たったぞ!
確かに速いけど、やっぱりコントロールは乱れてきてる。
審判を務める猿倉が懐からボールを取り出し、相手投手に放った。
次は何だ、カーブか、ストレートか。
「一之瀬、よく見てー!」
緊張感で押し潰れそうな俺を余所に、ベンチは和気あいあいとしていた。竹浪さんが声を迸らせている。
すっと息を吸い、スタンスを取る。
――外側に逃げていく変化球!
「はあああッ!」
迫りくる白球を渾身の力で叩きつける。
「よし!」
打ち返したバットの鈍い衝撃。俺は一気に駆け出す。
聞こえていた歓声が暑さで一瞬遠のく。交互に繰り出す足が重い、力が抜けそうだ。
砂塵の果てに見える一塁ベース。俺は思いきり駆け抜けた。