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2-34 逆境

「おおお! 打った!」

 乾いた音を響かせて白球が空高く上がっていく。

 打球は外野陣を越えて落ち、相手チームから初ヒットを喜ぶ歓声が起こる。


「よりによって下手くそ須山のライトかよ!」

 ショートを守る斎藤が苦しげに叫ぶ。須山はあまり守備が上手くない。

 案の定処理に手間取り、ようやくボールが返ってきた頃にはランナーは三塁にまで達していた。


「一気に得点圏か。まずいな」

 しかもワンナウト。相手にとってこれ以上無い同点のチャンス。


 ――ここは、一球外そう。

 俺は事前に決めていたサインを送るが、赤坂は難しい顔をして首を振る。自分のコースを変えるつもりはないらしい。

 投球に入る赤坂。昼下がりの陽を浴びた身体が陽炎に揺らめく。

 そして、投げ放たれたのは低めのストレート。


「らああッ!」

 相手打者が咆哮しながらスイングする。低い弾道で弾かれるボール。


「赤坂!」

 投げきった体勢からとっさにグローブを翻し、キャッチしようとする赤坂。


「ああッ!」

 しかし、僅かに届かず。悪い事に、グローブに弾かれた打球は大きくバウンドしていく。

 外野を守る竹浪さんや白鳥がボールを拾いにいくのを遠く見ながら、


「っしゃあ、同点だ!」

 既に三塁ランナーはホームベースを踏み叩いていた――くそ。


 ――落ち着け、赤坂。

 俺はあからさまなボール球を要求する。絶対に相手が打たないであろう場所に投げ込ませ、落ち着かせる為だ。

 相手バッターから最も遠い、反対側の上にミットを構えようとするのだが、


「……!」

 赤坂は首を横に振る。


「ちっ、分かったよ」

 下手に衝突するのを恐れた俺は、赤坂の望む通りのコースにミットを構えるしかない。

 一塁に目をやりながら、赤坂が球を放る。

 しかし、このボールは制裁を欠いていた。

 ポーン。そんな間の抜けた鈍い音と共に呆気なく打ち返されたボール。

 必死に追うセンターを嘲笑うかのように、ボールは雑草だらけの外野にバウンドしていく。


「逆転!」

 ランナーが余裕をもって帰ってくるのを見送るしかない俺。

 やっぱり、このままじゃダメだ。


「……先生、ちょっといいですか?」

「一之瀬。ここでは主審と呼べ!」

 くわっと目を見開き、教え子である筈の俺を一喝する。

 野球部顧問の猿倉は、完全にスイッチが入っている状態だった。


「ええ……ああ、すみません。タイムお願いします……はあ」

 俺はうんざりしながら訂正。マウンドへ向かう。


「ごめん、一之瀬……得点許しちゃったの、私のせいだ」

 グローブで顔を隠しながら上目遣いを向けてくる赤坂。

 珍しく動揺しているようだった。

 今までの試合、彼女がここまで打たれる事は無かった。それも一つの原因かもしれない。


「相手も強いからな。仕方ないって」

「さっきのサイン、ちゃんと聞いておけば良かったのに、本当ごめん」

 どうやら、俺のサインを聞かなかった事に対して相当の罪悪感を抱いているようだ。

 赤坂が俺にここまで申し訳なさそうにするなんて、本当に珍しいな。


「あんま気にすんなよ」

 しかし、俺はなだめつつ、自身の左手に嵌められたミットを見て思う。

 長打を打たれた時から赤坂の球は何か違っていた。俺は、その微妙な変化をこの手で感じ取っていたのだ。

 球威もコントロールも僅かに落ちている。しかし、それを今、言う事は出来ず。


「くそ……俺も悪いんだよな、多分」

「え?」

「大丈夫?」

 赤坂が聞き返すのと同時に、白鳥が駆け寄ってきた。 

 心配そうに様子を見ていた他の内野陣も続々とマウンドに集まってくる。


「ねえ、白鳥君。これって、ちょっと不味い感じ?」

 サードの江崎さんが噛み締めるように呟く。

 スコアボードには丁度、点数係がチョークで『2』を書き直している所だった。


「でも、まだ一点差だよ。追加点は絶対に抑えよう」

 向こうの投手だって疲れは溜まっている筈だ。失点を最小限に抑えて、逆転に繋ぐしかない。

 その為には、赤坂にはもう少し踏ん張ってもらわないと……


「あのさ。正直に言って欲しいんだけど……赤坂さん、肩やばいでしょ?」

 不意について出た一言は、白鳥からだった。


「……」

 一瞬だけ白鳥が俺に目をくれる。

 苦笑したような、困ったような、そんな顔。

 そこで初めて、白鳥がさっき俺の言えなかった言葉を代弁してくれたのだと理解した。

 直接ボールをミットで受けた訳では無いが白鳥はキャッチャーだ。投手の球の変化くらい、すぐ近くで見ていれば分かるのかもしれない。


「そろそろ交代した方がいいと思うんだ」

 案の定、投手交代を提案する。静寂に包まれるマウンド。


「白鳥君。それはキャッチャー経験者としての意見?」

 しかし、赤坂は唇を真一文字にしたまま白鳥を見返していた。今にも詰め寄りそうな険しい面持ち。


「だってさ。もう三試合目だよ。いくら球技大会でも投げ過ぎだって」

 赤坂よりも小柄な身体ながら、それでも白鳥は前に出る。その眼には怒りでも焦りでもない、不動の意思が宿っている。


「赤坂さんの投げ方、完全に野球部のオーバースローだし。素人の球じゃないよ。あんな速球ずっと投げてたら肩に来るから」

 二人とも互いの視線を合わせたまま立ち尽くす。これから決闘でも始まりそうな空気だ。

 白鳥の言う事は尤もだ。即席の俺と違って彼の方がキャッチャーとしての経験は長い。その実績が、発言に有無を言わさぬ正当性をもたらしている。

 さしもの赤坂も反論する余地を失っていた。

 でも、ここでいがみ合っていてもしょうがない。


「赤坂。白鳥が言ってる事、ソフトやってたお前なら分かるだろ?」

 俺はなるべく静かに語り掛けて赤坂を諭す。


「でも……私。まだ大丈夫……だし」

「はあ……」

 ため息が漏れてしまう。

 限界の赤坂が引き下がれないでいるのも、俺には何となく分かる。 

 いつも自分のスタイルを貫き通してきた赤坂は、この球技大会でも本気で勝ちたいのだろう。

 ウサギを狩る獅子の如く、どんな些細な出来事でも全力を尽くすのが赤坂環季という少女だ。

 実際にそうやって敵も作ってきたんだろうけど、少なくとも俺には真似ができない生き方。

 赤坂はクラスが優勝する為、それこそ身体を削ってでも全力を出している。いつも逃げるか、場を取り持つ為に相手に合わせてきた俺とは大違いだ。

 だとしても、だ。


「赤坂。お前って本当強情だよな」

「え? 何」

 じっと見つめる赤坂は未だ頑なさを崩さないでいた。

 ぱっちりした瞳を向け、寄せられた眉根は薄く赤茶がかっている。血色の乗った唇はぎゅっと引き締められて。

 そうだ、この顔だ。

 彼女はいつも本心から誰かを助けようとするために、全てをよりよくする為に心が働いて行動しているんだと俺は信じている。

 でも、赤坂の持っている『良さ』が、今はどうしようもなく悪い方向へと空回りしてしまっている。

 それが分かっているからこそ、何とかしないといけない。


「赤坂……」

 さっきは赤坂に強く言えなかった。でも、白鳥みたいに、今は自分の気持ちをはっきり言うべき時だ。

 何よりも、彼女がこんな場所で苦しんでいるのを見たくなかった。

 俺は小さく息を吸う。肺に空気を送り込みながら、同時に己の中の勇気も膨らませていく。


「そういうとこ、治さねばまいね!」

 そのまま、勢い任せに叫んだのは赤坂の口癖。

 いつも彼女が感情を高ぶらせた時の方言混じりの一言を真似したつもりだった。


「「は?」」


 しかし、周囲の空気は微妙なものだった。


「え……何」

 白鳥に肩入れし過ぎて赤坂が逆に拗ねてしまわないよう……なおかつ、この緊迫した空気を少しでも緩めようと必死に放った一言。

 赤坂は半ギレしたように眉を寄せ、白鳥に至っては脳が言語として理解していないか、柔和な笑みを貼り付かせたまま、表情がフリーズしている。

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 これじゃ余計に恥ずかしい。どうしよう。


「いや、ここでこの台詞は王道かな……と思って。赤坂が良く使う口癖じゃないか」

「意味わがんね」

 何とかこの流れを覆そうとするものの赤坂はしらけ顔。

 その隣の江崎さんなんかは、割と本気で引いていて表情が怖い。いつもの人懐っこさが完全に消え失せている。


「まあ、俺も悪かったって事。球遅くなってんの、分かってて何も言わなかったし」 

 いつも俺ははっきり自分の意思を相手に伝えられなかった。赤坂の消耗に気づいていた筈なのに、何も主張しなかった俺に全ての問題はある。

 だから――今度は。


「俺が投げる」

「一之瀬、あんたっ」

 何を言っているか分からない。困った顔で赤坂が声のトーンを上げる。


「俺だって投手だ。ここから先、一点もあげるつもりはない」

「うわー熱血だね。一之瀬君」

 そこまで黙って聞いていた江崎さんが、間延びした口調で俺をからかう。

 しかし、不思議と悪い気はしない。さっきの俺の激寒発言をチャラにしてくれるのはありがたい。胸にじんわりと熱いものがこみ上げる。


「ねえねえ。いいんじゃない?」

 気を良くしたのか江崎さんはくしゃっと笑顔を作り、はしゃぎ気味に一同を見渡した。


「こういう熱血展開って、私はアリだと思うんだぁ! ねえ、皆。このまま一之瀬君が肩壊れるまで投げさせてみようよ!」

 あれ? 江崎さん、俺を何だと思ってる?

 女子の本性を垣間見たようだ。サイコパス的な怖さがあるよ。

 こみ上げた何かが黒い闇になって俺の心臓を蝕む。これは黒歴史が出来た瞬間特有の心のざらつきだ。どうしよう。


「あー」

 不意に割ってくる間延びした声は、斎藤が発した物だ。

 物怖じしながら窺うと、斎藤は人好きのする顔で白い歯を見せて笑う。


「ほら、一之瀬ってピッチャーだったんだろ? なら、この中で一番任せられそうなのはこいつくらいだよなー」

「確かにっ」

 江崎さんがそれに呼応する。

 どうやら、斎藤のおかげで微妙になっていた空気がいい方向に持ち直してくれたようだ。


「分かった。じゃあ、一之瀬君は僕とバッテリーを組もう」

 他に名乗りを上げる者は現れない。一部始終を目視ながら見ていた白鳥が決を下した。


「じゃあ交代の事伝えてくる。赤坂さん。後は僕たちに任せてよ」

 選手交代を告げるべく、白鳥は本塁前の主審猿倉へと向かおうとした。

 しかし――


「待って、白鳥君」

 赤坂が白鳥を呼び止める。


「あの、私にショートをさせてほしい……ちゃんと守れるから」

「え……」

 球威が衰えても尚、闘志燃えるその言葉に誰もが息を呑んだ。


「でも、赤坂さん。体力は?」

「コントロール乱れて動揺しただけだし。どこかの誰かみたいに足を痛くした訳でも無い。さっきは取り乱したけど、もう大丈夫」

「どこかの誰か……?」

 白鳥はさっぱりわからない顔をしているけど、俺には何となく心当たりがあった。

 ここぞとばかりにテニスで足首を痛めた西崎への皮肉を利かすのは、悪口を言われた腹いせだろうか。

 ついでに、屋上扉を蹴って足を痛くしていたのも俺だ。もしかしたら、二人まとめてディスってるのかもしれない。

 流石赤坂。隙を見せた途端に俺を負かそうとしてくる。


「もし、こいつがボカスカ打たれたら……それこそ私達の勝ちは無くなる。そうなりそうな時は、お願い白鳥君。また私に投げさせて」

 赤坂は更に畳みかけるように続ける。半ば懇願するような目だ。


「そもそも、この男にマウンドをまかせっきりなんて癪だし」

「誰がだよ」

 たまらずツッコミを入れる。

 こちらを見た赤坂が少しだけ笑みを浮かべ、場に弛緩した空気が流れた。


「分かった。でも、本当に無理はしないでね?」

「うん。本当にヤバかったらちゃんと言うから」

 強がりではないと悟ったのだろうか。そこで初めて白鳥は優しい笑みを浮かべる。


「そう言う事。任せたよ、一之瀬」

 表情を柔らかくさせながら、赤坂はグローブで俺の肩を叩く。ぽすんと優しく当てられたグローブには土の匂いが混じっていた。

 俺はそのまま、セカンドへと駆けていく赤坂の背中を見送った。


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