2-22 本番直前
球技大会を翌日に控えた放課後、思ってもいない事態が起こった。
「一之瀬。今日なんだけど練習いい?」
なんと、いつもならチャイムと同時に真っ先に帰る赤坂が、俺の席へとやってきたのだ。
周囲にはまだ竹浪さん達が残っていて、啞然とした顔で固まっている。
「珍しいな。校庭で投球練習?」
「違うわよ」
周囲から向けられる視線を気にしながら、もう一歩俺に詰め寄る。
「投手が守備陣と動きすら合わせないで、本番やるなんてありえないでしょう? 中央公園、早く行くよ」
そう言って踵を返していった。
俺は思わず隣の竹浪さんと顔を見合わせる。
「あはは……よかったじゃん。一之瀬」
普段はテンションよくツッコミを入れてくるギャル。
しかし、さしもの彼女も引きつった笑いしかできない。それ程までに驚くべき展開だ。
「つーか、あいつ。散々練習拒否っといてなんだよ……」
守備陣と動きを合わせてこなかったことを何故か俺が怒られた。
まあ、周りに竹浪さん達がいたから強がっていたのもあるかもしれないけど。
「何なんだろうな……ったく」
そんなこんなでいつものメンバーに赤坂を加え、俺達は中央公園の芝生に集まった。
「須山君。もうちょいちゃんと捕れないの?」
外野の須山に赤坂が声を張り上げている。
「今日は調子悪くって! ほら、パワプ〇だと顔が紫みたいなテンションなんだって!」
「意味わがんね。とにかく、フライくらい捕ってもらわないと困るんだけど。駄目なら白鳥君に言ってスタメン変えてもらうよ?」
須山の冗談混じりの言い訳にも全く動じない。
腹痛に悩まされる俺をスパルタ式で指導していたのを彷彿とさせる。
赤坂は辛口で他の守備陣に指示を飛ばしていた。
それでも何故か、皆楽しそうに練習をしている。
「どうなってんだ……これ」
おかげで俺は完全に置いてけぼりだ。
俺は呆然としながらその様子を眺めていた。
「一之瀬君、本当に困ってる顔してるね」
そんな風に突っ立っていたら、白鳥に声を掛けられた。
さっきまで未経験者の数人に教えていたが、それも終わったのだろう。俺と同じように暇を持て余しているらしい。
「あいつ言い過ぎじゃないか?」
赤坂はまだ遠くで外野陣に何か教えている。須山を叱咤しているのがここまで響いてくる。
それを見ながら、流石の白鳥も苦笑いだ。
「すごくはっきり言うタイプって事?」
「そうそう。須山とか、あんなに言われてさ。キレるんじゃないかヒヤヒヤするよ」
須山がこんな事くらいで怒る訳が無い。短いながらも接して分かったけど、須山は馬鹿だけど、大らかさではクラス一だ。
それでも赤坂の剣幕を揶揄する為に、そんな冗談を白鳥にぶつける。
「でも、赤坂さん。教え方はすごく親切だし丁寧だよ。女子の人達には評判いい感じだし。だから、皆も楽しそうに練習をしてるんじゃないかな?」
「確かに」
白鳥の言う通り、須山も竹浪さんも諌矢も皆が笑顔で練習している。
練習前にあれだけ赤坂が反発したのに、意外過ぎる展開か。
「きっと、赤坂さんが来てくれたからね。みんな嬉しいんだよ。本当に良かった」
そう言って、心底ほっとしたような顔で微笑む。表情にはっきりと安堵が見て取れた。
「ぶっちゃけ赤坂が練習に来るのは諦めてたからな。正直戸惑ってる」
元々、赤坂は練習に出る気は微塵も無かった。だからこそ、彼女の住む鷹越まで足を運んでの練習を申し込んだ。
代わりに、今後一切放課後の練習には出なくても構わない。俺と赤坂はそういう約束もした。他のメンバーとの連携はぶっつけ本番のつもりだった。
それだけに、この放課後の練習に参加してくれたのは嬉しい誤算だ。
しかし、俺は何故彼女がこんな気を起こしたのか、本気で分からない。
「赤坂さんが練習に来た理由。僕は何となく分かるけどね」
「え?」
じっと黙していたら、白鳥がふと声を発する。
「鷹越ってすごく遠いんでしょう? そこまで来て練習に付き合ってくれたら、そりゃ自分もちゃんとしなきゃって思っちゃうよ」
「そうなのかなあ」
釈然としないまま、俺は白鳥にそんな曖昧な相槌を打っていた。
「一之瀬君、鷹越での練習はどうだった?」
ふと、今更思い出したように顔を上げる白鳥。何かと思えば土曜の話を聞きたいらしい。
「むしろ、そっちの方に興味があるから俺に話しかけてきたんだよな?」
「そりゃね」
今までで一番楽しそうな笑みを浮かべる白鳥。本当に無邪気な少年って感じの笑顔だ。
元々、このチームの練習は白鳥がずっと指導してきた。いわば監督みたいなポジション。
しかも、白鳥はキャッチャー経験者でもある。赤坂の腕の程が気になるのだろう。
「速かったよ、あいつ。経験者なだけあるよ」
俺は赤坂の球を捕って感じた事をそのまま白鳥に伝えた。
未経験者も多いチームだが、それなりに様になってきている。
何とか基本的な投げる捕るが出来る状態で本番に臨むことになりそうだ。
「じゃあ、もう赤坂さんとのバッテリーは完璧なんじゃない?」
茶化すような口調の白鳥。俺としてはあまり掘り返して欲しくは無かった。
「なんだよ、それ。白鳥まで竹浪さんから何か吹き込まれた?」
俺と赤坂が付き合ってるだの、俺が赤坂に告白して玉砕しただの、様々な噂が飛び交っている。面白がって吹聴するのはやめて欲しい。
「正直、僕も赤坂さんの球は速いと思ってたからさ。一之瀬君がちゃんと捕れるなら安心だよ」
でも、白鳥はからかっている訳ではなく、俺を労っているつもりらしい。
こうもはっきりと言われるとくすぐったくなってくる。
俺は顔を逸らし、まだ練習中の赤坂達を遠くに眺めた。
「つーかさ。何で、ここの球技大会って野球なんだろ」
「え?」
「だってさ。球技大会と言っても大体の高校はソフトボールじゃないか?」
照れ隠しに唐突に変えた話題。
「ああ……」
ぽかんとしていた白鳥がようやく頷く。
「冬青高校って大昔には甲子園に出場した事もあるんだって。一之瀬君は知らない?」
「マジか。初耳だ」
そもそも、この高校の野球部の強さすら知らなかった。思ってもいなかった母校の輝かしい戦績に俺は驚く。
「それでね。その栄光にあやかって、球技大会でも野球が設けられるようになったみたい」
滔々と語る白鳥。
その中で、俺はこの小柄な男子が野球の事になると目を輝かせながら話す事に気づいた。野球は辞めたとは言うものの、母校が甲子園出場経験校だという事実は気分を高揚させるらしい。
「まあ、球技大会は軟式ボールだけどね。あんまり関係ない話しちゃったね」
俺がじっと聞いていたのに気づいた白鳥は照れ臭そうに頬を掻く。
「流石に硬式を一般生徒にさせるのは無理だからなあ」
何も気にする事は無い。俺は努めて穏やかに答えた。
すると、白鳥はそれもそうだねと言って笑う。
中学の頃、野球好きな奴が持っていた硬式ボールを投げ合った事はあるけど、軟式とは全く違う。まず、グローブ越しでも本当に手のひらに痺れる程の痛さだった。
慣れ親しんだ軟式から硬式に変わって、対応できるとは俺には到底思えない。それこそ、根っからの野球好きで、小さな頃からずっと続けてきたような経験者じゃないと難しい。
と、そこで新たな疑問が俺の中で沸いて出る。
「あれ? じゃあ何で、白鳥は野球部に入らなかったんだ?」
何となく違和感はあったけれど、今更過ぎる質問かもしれない。
この一週間。練習で一通り白鳥の動きを見てきたから分かる。
こいつは相当に腕が立つ。投げる打つだけでなく、打球に飛びつく野手の動きも見事だった。
俺みたいな小学校で齧った程度のレベルとは段違い。そんな根っからの野球少年が何故、高校で野球を続けなかったのか。
「まさか、坊主が嫌だったとか……」
「そんな事無いって。中学までやってきて、今更坊主が嫌だとかは無いよ」
俺の邪推を一蹴する白鳥。
「僕って、ずっとキャッチャーやってたからさ。結構野球にうるさくって。それで、中学でも先輩にガンガン意見を言うから……」
「ヘボピッチャーの先輩に逆恨みされて嫌になっちゃった感じ?」
想像のまま補足してみると、当たりだったみたいだ。白鳥は俯きながら頷く。
「僕としては勝ちたくて意見したつもりでもさ。先輩からしたら腹が立つ事だったんだろうね。そういう出来事がしょっちゅうあって、生意気だって疎まれたんだ」
顔を上げた白鳥は、肩をくたっとさせて、気の抜けた声で笑う。
普段真面目な白鳥らしくないお茶らけた仕草。相当苦い経験だったのかもしれない。
だから、俺は彼の苦い記憶に極力触れないように言葉を選ぶ。
「投手は目立ちたがりで、癖が強い奴が多いからな」
中にはチームメイトにあれこれ言われるとヘソを曲げるような奴までいる。俺も昔、チームメイトで似たようなのを見て来たから分かる。
しかも、白鳥の場合だとバッテリーを組む相手は先輩なのだ。
中学時代の野球部での白鳥。周りのチームメイトが皆上級生で、彼ら相手に物を言わなくてはならない。
そんな姿を想像するだけで胃が痛くなる。俺には絶対無理だ。
「でもさ。キャッチャーってそういう事情も分かった上で、それでも折り合いつけるのが仕事だから……結局、上手く説得できなかった僕が悪いんだよ」
諦めたような顔を俺に向ける白鳥。何か自分を責めているような、そんな後ろめたさが言葉の端に感じられた。
ほんの短い付き合いだけど、普段の白鳥は本当に温厚で振る舞いとか言動も大人だ。皆をよく気遣っているのが分かる。
だが、上級生相手に関係悪化する程の意見をする辺り、野球に対しては絶対に譲れない信念を持っているようだ。普段の穏やかな性格からは想像もできないが。
「ま、俺も似たようなもんだけどなあ。野球やって良かったって思える記憶より、辛かった嫌な記憶ばっかだし」
俺はどこか落ち込み気味の白鳥を元気づけようと声を掛ける。
「一之瀬君?」
「でもさ。白鳥はそれで良かったのか? 本当は野球したかったんじゃないの?」
白鳥は未経験者も多くいるクラスのチームで、本当に粘り強く指導してくれた。
その甲斐もあってか、今の雰囲気は大分良くなった。協力するようになった赤坂や今も必死に練習に精を出す皆を見ていると猶更そう思えるのだ。
だからこそ、チームの要となるであろう、彼の本心を聞きたくなった。
「さあね。どうなんだろうね……自分でもよく分かんないや」
しかし、白鳥はいつもの柔和な顔立ちを浮かべたまま、はっきりとは答えない。
彼にもまた、俺の腹の悩みみたいに簡単には言えない込み入った事情があるんだろうか。
それなら――
「じゃあさ、この大会だけは勝とう」
「え?」
「これがただの学校の行事だとしても、俺達にはこの大会が全て。そうだろ?」
驚いたように丸い瞳を向ける小柄な野球少年。
「俺は最初、野球なんてやりたくなかった。でも、こうやって練習してたらさ。やっぱ楽しいって思っちゃったんだ」
確かめるように白鳥の鳶色の瞳をじっと見つめ返す。その中に映りこんだ千切れた夕雲がばらばらと魚群みたいに動いていく。
「白鳥だって勝ちたいんだろ? そうじゃなきゃ、最初から野球なんて選ばない」
「意外と鋭いんだね、一之瀬君。全然見た目と違う」
冷めたような声で笑う白鳥。しかし、グローブを掴む手には力が込められている。
俺はそれを見逃さない。
「すぐ授業休むし。もっと、怠けたい人だと思ってたよ」
「マジかよ」
拍子抜けした声が出た。これって多分、江崎さんだけでなく白鳥にも変人とか問題児扱いされてたって事だよな。
「そういう白鳥は、めっちゃ腹黒そうだよな」
「キャッチャーずっとやってた人間が腹黒くない訳ないよ」
高校になってから知り合っただけなのに、昔からの馴染みたいに、にやりと笑い合う俺達。
「アキラ! ちょっといいか~?」
そこに、丁度向こうで練習していた一人が声を掛けてくる。
白鳥と仲の良い斎藤だった。
「江崎さんがさあ! もっかい見て欲しいとこあんだって!」
「分かった。すぐ行くよ!」
白鳥は俺に目配せして、斎藤達の方へと歩き出す。
「白鳥、優勝しよう。俺は本気だかんな」
その背中に声を掛けた。
白鳥は振り返ったまま、少しだけ頬を緩ませる。
「そうだね。僕だって――」
そして、何か言いかけた所で薄く笑みを作って首を振って走っていった。
照れくさいのかな。走り去っていく小柄な背中を見ながら思った。
俺達は決して、好きで野球をやらない今に辿り着いた訳じゃない。
幼かった頃の俺は好きだから野球を始めた訳で、それはきっと白鳥だって同じだ。
今はこんな俺だけど、昔は白球を追い続ける未来しか見えていなかった。高校でも甲子園を目指し、プロ野球選手にだってなれると本気で信じていた時期もある。
でも、世間っていうのはそういう単純すぎる子供の幻想を一心に受け止めてくれる程優しくない。だから、成長するにつれて徐々にその現実の厳しさが分かってきて、皆どこかで折り合いをつけて妥協するんだ。
あるいは諦めて挫折してそれでも、それぞれが新たな道を見つけて決めて前に進んでいくのかもしれない。
「須山! 何やってんの!? 捕ってよ!」
遠くではまだ赤坂が須山に愛のある指導をしていた。いつの間にか君付けだった須山を呼び捨てにしていて、それを見ていた他の女子達もはしゃいでいる。
「誰か助けてくれよ! 赤坂ちゃんがこんなにスパルタなんて聞いてねえ!」
須山の悲鳴はこっちまで聞こえてきて精神をかきむしられる。
これ、本当に指導か?
高野連なら問題になりそうだけど、ここはただの球技大会だから、まあいいか。
「はあ……」
小さく息を漏らしながら、騒々しい芝生から視線を夕空に逃がす。
たかが球技大会。皆そう言うんだろう。
「――でも、やるからにはやっぱ勝ちたいなあ」