2-10 屋上のはぐれ猫
昼休み。俺は久しぶりに旧校舎に足を運んでいた。
古びた教室を横切りながら屋上に続く階段に至るまで、すれ違う生徒は一人もいなかった。
「いるかなあ」
埃だらけの階段を上りながら一人呟く。
俺が扉の鍵を壊して以来、赤坂は天気のいい日の昼は屋上で過ごしているらしい。
教室で姿が見えなかったのでもしやと思ったが、校外にパンを食いに出ていたら空振りに終わってしまう。そうなったら放課後に捕まえて話をするしかないだろう。
頼む。いてくれよ。そんな事を思いながら古い扉を押す。
屋上に足を踏み出して見上げた先は快晴。低い辺りを飛行機の白い腹が通り過ぎていく。
風に混じって響いてくるジェットの轟音を感じつつ、周囲を見渡した。
「ここよ」
見つけられないでいたら、先に赤坂の方から声が掛かる。
振り向いた先は、俺が出てきた扉の上の塔屋。赤坂はその欄干に腰かけて昼食を摂っていた。
「高い所が好きとか、ますます猫っぽいな」
そんな事をぼやきながら梯子を上った。
塔屋の上から見る視界は高すぎて、立っているだけで足がすくむ。
高所恐怖症気味の俺は許可も取らずに、赤坂の隣に腰かけるが、特に文句を言ってくる事は無い。
「ちょっといいか? すぐ終わるから」
「何よ?」
弁当箱を膝に置いたままの赤坂。見た感じ、おかずもご飯も殆ど平らげている。
「ランチタイムが充実しているようで何よりだ」
「言い方うざいよ? ていうか、何でこんなとこに来たの?」
赤坂は日光を浴びて赤褐色になった瞳を俺に向ける。その奥には少しだけ警戒心が見え隠れしている。
「別に、赤坂と一緒に昼飯を食べたいとかじゃない。今日の昼はウィダー〇〇ゼリーで終わりだからな」
「ばぁか」
そこで初めて、赤坂は穏やかな物腰になる。白い歯を見せた笑顔にほっとしつつ、俺は本題に入る。
「放課後の練習、出ないの?」
「なに、それが目的?」
赤坂は残り少ない弁当に箸を付けたまま、動きを止めた。
嫌な話題なのは分かっている。でも、俺もここまで来て退くわけにはいかない。
「別に毎日出てくれって言ってる訳じゃないよ。部活で来れない人もいるし、帰宅部の連中だっていつも顔を出してる訳じゃない。でも、流石に一日も出ないのはまずいって思うんだ」
「だって、球技大会だよ? そんなに気張らなくても良くない?」
「慣れてない奴もいるんだ。そいつらと一緒に守備練習して動きを確認するだけでいいから。だめか?」
「だって、私。野球余裕だし」
拗ねた子供みたいに俯きながら、赤坂が言った。日光に透けた赤髪がはらりと頬に垂れ込む。
「それに、あんまり人と深く関わりたくないっていうか……」
赤坂はそう言って焦れたような眼を向けてくる。それが本音か。
「何だよ、人見知り?」
「違うわよ。知り合い同士なら空気読み合えるけど、一線超えて仲良くなると、面倒になる事ってない? そういうのがめんどくさいんだよね」
「仲良くなった後?」
俺はそんなに友達がいないからその辺の事情が分からない。問いかけると赤坂が頷いた。
「うん。後はお互い些細な事とか勘違いで、どんどん気まずくなっていくとか、そんな感じ」
赤坂は若干、表情を軟化させ、口元を緩ませる。ここで自嘲されても、反応に困る。
「表面上は上手くやってるつもりでも、ふとした時に嫌なとこ見えたりするでしょ? そうなったら、うわこいつムカつくとか思っちゃうし。特に私の性格だと」
だから、クラスの皆と変に親交を深めるのが嫌だって事なんだろうか。
「言いたい事は分かる。でも、流石に練習全部に出ないのはもっとまずい事にならない?」
野球はチームで行う競技だ。ある程度、皆と動きを合わせておかないと、本番で上手く連携できない。だから、何とか赤坂は練習に参加してほしい。それを伝えるのだが……
「ごめん。もうちょっと落ち着かせて。必ず本番では足引っ張らないようにするから」
赤坂は俺から視線を外して苦い顔をする。
「そんなに嫌か。昔はリア充だったんだろ? 友達一杯だったんだろ?」
そもそも、赤坂がこうも相手を避けようとする理由を俺は深く知らない。
中三の終わりにクラスで孤立したと自分で言っていたが、その時の経験がそれ程トラウマになっているのだろうか。
このクラスには赤坂と同じ中学だった渡瀬さんもいる。しかし、その渡瀬さんは途中で他の中学に転校してしまったのでその時までの赤坂しか知らない。
「私が何でもうまく柔軟にできるなんて、あんた本当に思ってる?」
赤坂の頑なさは変わらなかった。
動かない時はテコでも動かないのが赤坂か。
「まあ、俺だって初対面は良くても、それ以降気まずくなる事はあったよ」
これ以上粘ってもどうにもならない。そう思った俺はとりあえず話題を変える事にした。
「今の高校だって同じさ。炊事遠足で一緒の班だっただけで、須山達ともあれから何もないし。それに、須山には俺が知らない友達が一杯いるし、会話の途中でそういう知らない奴が入ってきたらきまずいよ」
だから、自然と教室では須山や工藤舞人といった男子とはべったり関わる感じでも無い。
挨拶とか休み時間に少し話すだけだ。
須山は性格も良く向こうからグイグイ来る。会話していて気が楽だ。
しかし、リア充の交友関係は思いの外に広い。須山や諌矢と話していると、普段関わらない連中も話の輪に入ってくる事が多々ある。
そうなると、俺は話題に参加できない。完全に地蔵と化す。
そういったくだりを赤坂に話す。
「まあ、分かるけどさ」
赤坂は困ったような、苛立ったような何とも言えない苦々しい顔をする。
「あーあ。何で個人競技少ないのんだろ。うちの高校の球技大会」
足をパタパタさせて空を見上げる赤坂。
冗談めかした風に強がっているけど、相当にストレスを感じているのは傍目で分かった。
普段は俺をディスってくるのに、今ここでは自分の感情を優先させて愚痴っている。
「クラスもすっごいめんどい事になってるし。余計に出づらいんだよね」
「知ってたの?」
俺が問うと、赤坂はこくんと頷く。
「江崎さん達からちょっと聞いてる」
そう言って薄く笑う。どこか他人事だ。
西崎グループと赤坂はまだ面と向かって言い合う程の関係の悪化には至っていない。
だけど、このままお互いに意地の張り合いをされても困る。それを見過ごしておけない。
「これ以上酷くなる前に適当に皆に合わせときなよ」
「私としては、何で野球に出ない西崎さんがいちゃもんつけてくるのかって事なんだよね。チームメイトならともかく……西崎さん別に関係なくない?」
本題はそこか。つまり、赤坂も赤坂で西崎が気に入らないという事なんだろう。
「それは……」
「え?」
言いかけて口ごもる俺。その様子を怪訝そうに見ながら、赤坂が首を傾げている。
赤坂は気づいていないけど、西崎が機嫌を悪くしている原因は諌矢だ。
赤坂が諌矢と何かあると思っていて、共に野球に出場するのが気に入らないんだろう。
勿論、二人の間にはフラグなんて立っていない。
寧ろ、諌矢は赤坂を苦手に思っているくらいだ。それでも、西崎は赤坂を目の敵にしているのは間違いない。
「ていうか、一之瀬。西崎さんも説得するつもり?」
ふと、赤坂が俺を見て悪戯っぽく笑う。全てお見通しらしい。
「別に私の事なんて気にしなくていいからね? 一之瀬が面倒な目に遭ったらその方が大変だし……そういうのはもう慣れっこだし。変な事したくないんだよね」
何か、とても不穏な事を赤坂が口走ったような気がした。
しかし、赤坂はそれ以上何も言わず、手早く弁当箱に蓋をする。
「さあ、この件はもうおしまい」
赤坂が立ち上がり、俺も続く。昼休みの終わりも近くなってきた。
「じゃあ、これだけは約束してくれ。西崎達にまた何か言われても、赤坂がやり返すとかはナシだからな?」
「え?」
思っていた以上に真剣なトーンで切り出していたのかもしれない。
俺の声を聴いた赤坂がきょとんとした顔でこちらを見ている。
「クラスの裏で陰口合戦なんて嫌過ぎる」
今はまだ何とかできる。しかし、全面戦争になれば、俺ではどうにもできない。
だから、念を押すように赤坂に忠告する。
「私が西崎さんに対抗するって?」
梯子を下りた所で、赤坂は不敵な顔を向ける。
「争いは同じレベルの者同士でしか起きないし。西崎さんが何言おうと、私は余裕だけど」
気丈に言ってのける赤坂。俺はバカみたいに口を開けてしまっていた。
「そうかい。じゃあ、俺も何とかするから。赤坂も気が向いたら練習来いよ」
「考えとく」
そして、俺は一足先に校内に戻った。
自意識過剰の癖に唯我独尊。赤坂の強気は一体どこから湧いてくるんだろうか。
呆れて物も言えない。しかし、俺が出来ない事をやってのけるメンタルは羨ましいと思った。
赤坂は西崎が対抗しても退くつもりはないらしい。ただし、手は出さない。
事態は好転もしないが、赤坂を信じて一つずつ解決していくしかないと思う。
「今日の放課後の練習は気が重いな」
暗い階段を降りながら、俺はますます気分が沈んでいくのを感じた。