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2. 腹痛は、静かな授業に襲い来る。

 翌日は朝から腹もメンタルも、とにかく厄日なんじゃないかってくらいに最悪だった。

 まず、朝一番に昨日の女子に振られた。廊下で目を合わせて何とも気まずいなあと思っていたら、向こうから話しかけてきたのだ。

 やはり、あれは一時のテンションだった、本気にしないでくれ、本当にすまないと思っている。

 そんな感じの事を矢継ぎ早に言われ、有耶無耶になっていた返事をこちらから言う前に無効にされた。



 もっとも、肝心の俺は猛烈な腹痛に襲われていて、移り気な女の戯言なんて上の空だったが。



 一時限目の現国の授業中、俺の脳裏を支配する感情はただ一つ。ウン〇がしたい!

 ただ、それだけの感情が、俺の脳内CPU占有率を100%に達せしめる。


「この羅生門の最後は『下人の行方は誰も知らない』で締めくくられる訳なんだけど――さて」

 老齢の現文教師はそう言って眼鏡をずらしながら教室を一瞥した。


「作者は何でこんな終わり方にしたんだろうねえ?」

 知るか、芥川龍之介に聞け。素人の高校生が文豪の思考回路なんて分かる訳ないだろ。

 心の中で咆哮しながら黒板上の時計を仰ぐ。

 授業終了まで残り八分。耐えきれ、俺の腹。

 それにしても、この現代文の授業はいつも静かだ。進まない時間への苛立ちが腹痛に拍車をかけてきて、控えめに言って()()()

 流石に五分は経ったと思って時計を見る。

 しかし、経過した時間は二分。CMだとアフリカでは一分に六十秒が流れていると言っているが、ここでは三百秒くらい流れてそうだ。


「くそが……」

 そんな不満のせいか、変な声が漏れた。後ろの女子が怪訝な目を向けている気配がする。

 違うよ江崎さん。今のは独り言なんだ。

 前に話しかけられたかと思って振り返ったら、江崎さんは単に隣の友人と会話していただけだった。

 それ以来、彼女は事あるごとに俺に変な物でも見るような視線を向けてくる。

 こちらとしても気まずいので、休み時間も後ろの席は徹底的に見ないようにしている。

 そんな入学当初の記憶で時間を潰していたら、ぎゅるると腹が鳴る。

 俺は冷や汗をかきながら、その場で地団駄を踏んだ。

 こうなったら次の時間は保健室に行って職員トイレを借りるしかない。

 授業時間の、それも職員室周辺ならば、生徒に出くわす事も無い。

 普段なら生徒は使用禁止だけど、保健室利用中のやむを得ない腹痛での使用ならば話は別だ。安全かつ、合法的に用が足せる。


「じゃあ、今日はこれで終わりだけど……」

 しょうも無い事を考えながら悶絶していた所で、チャイムが鳴る。

 待ちに待った鐘の音。俺は椅子を鳴らして立ち上がった。


「――はいはい。ちょっと待ってね、一之瀬君」

 そして、老教師に全ての行動を止められた。


「え、何?」

 中腰で硬直する俺に、背後の江崎さんが思いきりドン引きしている。

 本当に石になりたい。


「はい、座って……じゃ皆、来週の定期テストの範囲を言うからね」

 顔が真っ赤になるのを感じながら席に着くと、あろうことか一時限目はアディショナルタイムに突入した。


 ――ちゃんと時間内に全部終わらせる範囲で進行してくれ、くそったれ。


 でも、ク〇が漏れそうなのはどう考えても俺の方だ。

 廊下からは他クラスの生徒達の喧騒。しかし、我が一年三組は告げられるテスト範囲のメモに躍起になっている。

 それにしても、入学してまだ一ヶ月そこらなのに、どうして皆、ここまで勉学に励む事が出来るのか。

 定期テストに親兄弟でも人質にされているのかな? 


「はい。じゃあ今日はここまでね」

 そして、老教師がガラパゴスゾウガメのようにゆったりした足取りで教室のドアを開ける。

 一方の俺は教室後ろのドアを思いきり蹴り開けた。


「い、一之瀬。どうした? そんなに急いで……」

 啞然とする最後尾の男子は数少ない話相手だが、限界突破目前なので平常心を保てない。

 自然、声にも怒気が帯びる。

「あ!? 何?」

「い、いや……何でも無い!」

 参考書を開き、首を振る彼を尻目に、俺は全速力で駆け出した。




 つづら折りの階段。

 その内側の手すりを掴み、遠心力に逆らいながら最短コースでコーナリングを攻める。

 最後の踊り場から一跳びで着地した様は我ながらバトル漫画の一コマだったと思う。

 真っ先に、保健室に入って常駐している養護教諭に事情を話す。


「多分、お腹から来る風邪です。そのせいで下痢が辛いので来ました。この時間、何回かトイレに行けば治ると思います」

 医者でもないのに的確に自己を診断している。

 自己評価が低い事に定評がある俺だけど、自身の胃腸に関してだけは絶対の自信を持っているのだ。


「あらぁ~。それは大変。いつでもトイレに行っていいから、この時間は休みましょうか。胃腸薬もあるから、ダメそうなら飲んでいってね」

 妙齢の養護教諭はそんな俺の説明に対し、何の疑問を持たず信じてくれた。

 俺は保健室のすぐそばの職員トイレ。その個室に飛び込んで用を足す。


「はぁ……職員トイレは今日も平和だなあ」

 授業が始まったせいか、廊下からは人の気配すらしない。

 穏やかな春の午前を全身で感じつつ、水栓レバーをゆっくり捻ってトイレを後にする。

 そうやって保健室に戻ると、誰もいなくなっていた。先程の教諭は用事で出かけてしまったようだ。

 時計を見ると、二時限目が始まって既に十数分が過ぎようとしている。

 このままサボろうか、教室に戻ろうか迷いながら、俺は立ち尽くす。


「失礼しまーす」

 すると、気だるげな声と共に保健室の引き戸が開き、入ってきた女子と目が合う。

 現れたのはまさかの赤坂環季だった。


「は? 一之瀬君、何でいるの?」

 生徒なら誰でも利用できる保健室にいるだけなのに、この一言である。

 いくら何でも酷すぎない?


「いやー、腹から来る風邪にかかったみたいでさー。あはは」

 逃げ出したくなる衝動に耐えつつ、俺はなるべく笑顔で答える。


「なに、壁に向かって話してんの?」

 しかし、赤坂は俺の説明など聞く事も無く、背後に回りこんでいた。スピード特化らしい。


「ところで、赤坂さんはどうしたの? 俺と同じ風邪?」

「違うけど」

 ベッドスペースまで進んだ所でひらりと振り返る赤坂。

 その表情は険しい。いつも女子と親しげに話している時とは別物。はっきり言って怖い。


「サボリに決まってるでしょ。今日の数学はとっくに予習済みだし」

 ぴしゃりと閉められたカーテン。薄布一枚が強烈な風圧となって俺の顔面をなじった。


「ああ、そうかい」

 小声で悪態づきながら、俺も自分のベッドに入る。

 カーテン一枚を隔てて向こう側には同い年の女の子。保健室二人きり。

 これが、あの子だったらなあ。再び思い浮かぶ、昨日の告白シーン。


「ああああああああああああああああ――」

「一之瀬君。静かにして」

 ベッドで悶絶していたらカーテン越しに赤坂が言い放つ。


 ――チクショウ。

 黙りこくって横になっていたら、そのまま微睡まどろみに沈んでいった。


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