22. 女王の追及
俺を連れ出した西崎は、校舎の反対側まで進んだところで、ようやく足を止めた。
廊下の突き当りの白い壁。右手側の窓は開け放たれ、部活の掛け声が聞こえてくる。
何気なく反対側の教室を覗いてみるが、残っている生徒は一人もいなかった。
トン、と威嚇するように上履きを踏み鳴らす西崎。
「一之瀬にちょっと言っときたいんだけどさあ」
「何だよ」
俺を見据える西崎は、気忙し気にウェーブがかった髪に指を通す。
西崎は容姿だけなら学年でも屈指だと思う。きつそうな眼差しは、一部の男子の間では隠れた人気を集めているらしい。
そんな彼女が俺を呼びつけ、何の要件があるというのだろうか。
対峙したまま、俺は考察を巡らす。
美祈さんが言っていた。意中の相手とは別に、わざと関係ない男子にちょっかいを掛けて気を引く女子もいるらしい。仲良くしているのを好きな相手に見せつける事で、嫉妬心やら注意を引きつけるとかなんとか。
西崎が諌矢に構っていたのも、そういう高度な戦術だったのかも――そんな訳あるか。
だって、目の前のギャルは、明らかに不機嫌そうに眉根を寄せているのだから。
「何キョドってんの? 別に告白とかじゃないんだけど」
やっぱりな。一瞬でも可愛いなとか思った俺が馬鹿だった。
「はっきり言っておくけど。風晴にちょっかい出したり、学食に連れてくのやめてくんない?」
「俺がちょっかい出してるって?」
思わず耳を疑うような一言が飛んでくる。
「風晴も優しいから、一之瀬に合わせてるんだろうけど。あたしら迷惑なんだよね」
西崎は腰に手を当てて重心を傾ける。ハチミツ色のブロンドは夕陽を浴びて艶めいていた。
「迷惑? 西崎が、だろ?」
いきなりの物言いだ。
その傍若無人っぷりについ、本音を漏らしてしまう。
「は? 一之瀬みたいな不良と一緒にいると、風晴の印象が悪くなるの。本当やめて」
しかし、西崎は俺の小言など聞こえていないのか、それとも相当頭に来ているのか、一方的。
「ちょっと待てよ。俺のどこが不良だよ?」
言い方がカチンと来たので、俺も思わず感情的に言い返す。
そもそも、俺から見たら西崎の方こそ不良だ。スカート短いし髪染めてるし、化粧だってギャルそのものだ。
「は!? 授業しょっちゅうサボってんじゃん。昼休みも勝手に抜け出してさ。そういうの少しは自覚したら?」
途端、西崎が声を荒げる。夕陽を蓄え飴色に染まった瞳の奥には、明らかな苛立ちが見えた。
「皆見てるし。赤坂さんと一緒に外出てんでしょ?」
どうやら、西崎の中だと、俺と赤坂は意気投合して学校を抜け出すくらい仲良しらしい。
諌矢まで取られるとか本気で警戒しているんだろうか。
でも、ちょっと待ってほしい。このギャルは前提からして、とんでもない勘違いをしている。
「いや……別に俺、赤坂と付き合ってないから」
「は? どう考えてもおかしいし。赤坂さんも合わせてんのか知らないけど、いつもあたしらが行くと席離れてくし、マジ感じ悪いんだけど」
しかも、赤坂にまで八つ当たりし始める。赤坂は西崎達が同席する事で、昼食を摂りづらい状況になっているだけ。勝手に退席するのは西崎への対抗意識でやっている訳ではない。
しかし今、激昂状態の西崎に赤坂の言う『逆ランチメイト症候群』の悩みを話しても通じる筈が無い。
「あのさ、西崎。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……」
だから、俺はできるだけ言葉を選んで説明しようとするのだが――
「う……ぐうっ!」
瞬間、身体の奥底で終末のラッパが響き渡る。
ぎゅるると高らかに鳴動する非情の音。これまで西崎から散々浴びせられた辛辣な言葉の棘。それら男子として耐えがたい精神ダメージが一瞬で忘却の果てに消え去る、そんな苦痛。
つまりはお腹が痛い。
いや、敢えて言うならウン〇がしたい! 最悪過ぎるタイミング!
「何でだよ、こんな時に……っ」
「ちょ、聞いてんの? 一之瀬に言ってんだけど」
西崎は眉間を寄せながらこちらを威嚇する。一方の俺は腹痛に対処するので精一杯。
ただでさえめんどくさい状況なのに、何でこんな時に限って発動するんだよ……この腹め!
「いつもいつも……本当何なんだよ、ふざけんな」
襲い来る腹痛の波に耐えながら、思いきり足を踏みしめ、俺は声に出していた。
腹痛に耐える心の叫び。ハッとして西崎の方を見る。
「は? 文句あんの?」
案の定、西崎は俺がキレたと勘違いしているのか、噴火寸前の形相。
一旦腹痛の波が落ち着いた所で、事情を説明しようとする。
しかし……
「ちがうんだっ……てっ!」
先程を遥かに凌駕する腹痛の第二波が容赦なく襲い掛かる。
「つーかさ。何そのしょぼい声」
呆れ半分、しらけ半分の西崎の表情。俺の奇行が彼女の怒りを若干軟化させたのか。
まだ言い方はキツいけど、これに乗じて何とか事を穏便に済ませたい。
「……うぐッ!」
ところがどっこい。腹奥を蠢く猛烈な圧迫感が俺を襲う。
「なに? 聞こえないんですけど」
「――だから、違うつってんだろ! 俺は赤坂と付き合ってないって言ってるんだ!」
今度ははっきり聞こえる声で説明しようとしたのだが、腹に力を込めると一緒に実も出そうなのが不安で腰を引き締めた。そうしたら、怒号みたいな声が喉から発せられたのだ。
何かもう、自分でも何を言っているのか分からないな、この状況。
恐る恐る顔を上げると、西崎は眼を見開いたまま。
と、同時に俺を苦しめていた腹痛の波も小康状態になる。真っ赤にしてこちらを睨みつけるギャルと目が合った。
「マジ無いから。何で一之瀬が逆ギレしてんの……有り得ないっしょ」
――いや、この便意こそ何なの。トイレの神様に問い詰めたい。
盛大に勘違いしている西崎。余計にややこしい事になっている。
「ちが、俺は……」
腹痛に耐えていただけなんだ。そう言おうとするのだが、
「赤坂さんも諌矢も。本当何なの……」
その言葉を遮る様に、西崎がしゃくりを上げた。
「赤坂に諌矢?」
「うちらの事を露骨に避けてくるし。マジ腹立つ」
感情的で投げやりな口調。西崎の声は震えていた。
「諌矢なんて前はいつも一緒だったのに、最近は付き合い悪いし……本当、訳わかんない」
「は? え?」
そこで気づかされた。逆光で見えなかったけど、西崎の目から何かが溢れ出ようとしている。
もしかして、泣かせちゃったのか?
西崎としては、学食でのやり取りが本当に面白くないんだろう。八つ当たり気味に赤坂の事まで言い出すくらいだし。
でも、泣く程か?
「本当――本当ッ、ムカつくんだけど……!」
必死に歯を食いしばりながら、西崎が憎悪に染まった顔を向けてくる。何故か小学校の頃、泣かせてしまった女子を見ている時のような、そんな罪悪感が生まれてしまう。
だとしても、西崎はどうしてこんなに感情的になっているのか。
これではまるで、西崎が何か別の原因で焦り、癇癪を起こしているようにしか見えない。
そもそも、俺が不良扱いされていたとして、諌矢の評判がそう簡単に下がるとは思えない。
諌矢は先生にはいい顔してるし、成績もいい。
コミュ力もチートレベルで教室はおろか学年でも相当の人気者だ。女子にだってモテるし、競争率もめっちゃ高そうだ。
と、そこまで考えた所で、俺はある考えに至った。
「西崎。お前もしかして、諌矢の事好きなのか?」
コキンという気の抜けた音が一つ。野球部がシートノックでも始めたらしい。
「はあっ!?」
遅れて西崎の声から殺気が消え、さっきよりも顔が赤く染まる。マジかよ、図星か。
「いや、だってそうじゃん。一緒に飯食ってる俺と赤坂に嫉妬してるって事だよね?」
「は? 意味わかんないんだけどっ! 頭おかしいんじゃないの!?」
と、言いかけた所で、西崎はハッとしたように涙が溜まった目元に指を伸ばす。
口調は荒いけど、明らかに取り乱している。
「西崎。とにかく泣くな。話を聞いてくれ。俺、別にキレてないから。あと不良でも無いし」
説明するなら今しかない。俺はつとめて冷静な声で語り掛けた。
「俺はさ、諌矢とは掃除のグループで一緒になったんだ。それで趣味が合う事が分かって、放課後もゲーセンとかよく行ってる。勿論、互いの合意でな」
酷いなあ、我ながら説明が下手すぎる。
何で、結婚式で二人の慣れ初めを語る友人のスピーチみたいになってるんだろう。
「――ぐ!」
瞬間、訪れたのは腹痛のウェーブ。俺は唸りながら、その波に必死に耐える。
「何言ってんの」
西崎はもう、ドン引きとかそういうのを越えて、状況から完全に置き去りにされていた。
「単に、俺は諌矢と一緒にいたら気楽で、向こうも多分それは同じ風に思ってて、それで……タイミングが合えばツルんでる。本当それだけ」
しかし、俺は止まらない。止められない。
西崎が単に俺が気に入らない理由で当たり散らしているのだとしたら。
諌矢に何の恋愛感情も持っていなかったら――この釈明はただの徒労だ。恥の上塗り、空回りでしかない。
「だからさ。西崎が諌矢の事を好きだとしても――俺は邪魔しない。安心して」
それでも、俺は説明を続ける。とにかく口を動かすんだ。それっぽい事を言って西崎を落ち着かせてこの場を切り抜けるしかない。
逃げる事と誤魔化す事は俺の得意分野な筈!
そう言い聞かせて口だけは全開で回す。勿論、ケツの栓の方にも注意しながら。
「何ならさ。俺は西崎を応援したっていいよっ!」
「えっ」
西崎は割とドン引きした顔でこちらを見つめているが、この際もう関係ない。
いかにブツを漏らさず、安全にこの場から逃げ出すかだけに全力を傾ける。
「だってさ、諌矢も西崎の事……多分、嫌いじゃないと思うし――ぐッ! 死ぬッ!」
瞬間、恐ろしい波がまたも押し寄せる。あーもう最悪だよ、これ!
限界は近い。俺の中の黙示録の獣が海から上がってきているのがはっきりと見える。
これ以上時間を掛けたら、自主退学級のレジェンドを残す事になりそうだ。
「分かったよな? つまり、そう言う事だから!」
呆気にとられる西崎を放置して一目散に逃げ出した。ノスタルジックさが半端ない校舎の風景が走馬灯のように流れていく。
最後は有耶無耶になったけど、クラスの女王にも怯まず対峙できていた気がする。
極限状態に追い込まれた時の人間の脳って、本当すごいな。