0. プロローグ
挿絵はAI生成しました。
あくまでもイメージなのでキャラの造形やシチュエーションが微妙に矛盾している場合がございます。
「最初見た時から気になってました。付き合ってくれませんか?」
開口一番にそう言われた俺は、返答に困って空を見上げた。
一杯に散らばった千切れ雲が、ゆっくり右手へと流れていく。
校舎裏、一組の男女。相対して俯いたまま、目を合わせる事もまともに出来ない。
遠くからは昼休みの喧騒が聞こえてくるが、ここは沈黙と緊張で一杯だ。
――どうして、こうなった。
俺、一之瀬夏生は春に入学したばかりの高校一年生だ。
消極的な性格だし、成績だって最悪。昔は野球をやっていたけど、運動神経は大したものじゃない。モテる要素がまるで無い。
「あ、俺……」
「はいっ!」
互いに言葉を詰まらせて見つめ合う。
朝、下駄箱の中に可愛らしいメモ用紙が忍ぶように添えられていた。
それには場所、時間と『お聞きしたい事があります』という心躍る一文が、可愛らしい字で記されていたのだ。
彼女は俺と同じクラスだが、記憶の中では会話をしたのは恐ろしく些細な事で一度きり。
席は離れていて、下の名前も知らない間柄だ。つまり、これってやっぱり悪戯じゃないの⁉
「ダメ……ですか?」
赤い学年色のリボンタイを指先で遊ばせながら、こちらを見つめる女子生徒。
その潤んだ瞳、焦れったい仕草に、俺の方まで恥ずかしくなってくる。
「えっと」
注意深く辺りを見渡すが、彼女以外の人影は見当たらない。
放置されたプランターからは雑草がぼうぼうと生え出し、転がったジョウロには泥が堆積している。
そんな人気の無い場所なのだから、誰か隠れていたら気配の一つでもするはず。
「俺は――」
多分、大丈夫。悪戯ではないと信じたい!
意を決し返答しようとするのだが、
「う――」
突如、襲いかかってきたのは鈍痛と圧迫感。そして、腹の底から突き上げる耐えようの無い苦痛。
たまらず頽れる俺の身体。
「ぐっ……ぐぐっ。こんな時に!」
地を睨み、拳を握り締めた。浮き出た怨嗟の表情を悟られまいと躍起になる。
「どうしたんですか!? 一之瀬君?」
驚いた様子で女子生徒も屈みこんだ。耳にかかるのは、俺を気遣う吐息混じりの声。
しかし、彼女の優しさに『大丈夫だよ』と笑顔で返す事ができない。
脳裏を支配するのは、今も襲い来る腹部への切迫感だけ。
「ごめん……今は本当に、ごめんッ!」
気が付けば、背を向けて一目散に駆け出していた。
情けなく前屈みになって逃げる俺の背中を、彼女は一体どんな顔で見ているのだろうか。
しかし、そんな事を気にする余裕は、既に残されていなかった。
「何で、こんな時に……何でだよ――ッ!」
俺を襲ったのはとてつもない腹痛だった。
とどのつまり、ウン〇をしたくなったのだ。
ウ〇コ――その衝動は、脳裏に存在する様々な選択肢を一切合切塗り潰してしまう。
俺の人生の重要な局面で、この忌まわしき現象は幾度となく襲いかかり、今回もまた彼女を作るチャンスを奪い去っていった。
せっかく、人生初の彼女を作る絶好の好機だったのに!
だが、あそこに留まっていたら漏らしていたかもしれないのも、また事実。
万に一つ悪戯だったとしても、笑われる程度で済むが、ウン〇を漏らしていたら話は別だ。
『そういや昔、学校でウン〇漏らした奴いるよな? 誰だっけ』
『『一之瀬夏生!(ドッ)』』
同窓会や結婚式後の飲み会などで、意気投合、こんな笑いが巻き起こる。
入学早々、レジェンドを残すところだった。
リア充共の懐かしトークの肥やしにされてたまるか。そんな未来、それこそクソくらえだ。
俺はあり得たかもしれない最悪のIFを想像し、便座から立ち上がる。
「ああ~、すっきりしたッ!」
ジャーッ。
銀に輝く水洗レバーを捻ると、洗浄剤で染め上げられた青い水が勢いよく流れ出す。
俺の絶望、諦念、悔悟……悪しき物たち。それら全てが渦を巻いて吸い込まれていくのを見届けた所で、トイレを出た。
視界の先に広がるのは小綺麗なフローリングの廊下。
真新しい建材の香りに満ち溢れ、玄関から注ぐ真昼の陽光で、床面はキラキラと光沢を放っている。
実家のような安心感。しかし、ここは俺の家じゃないし、今は昼休みの真っただ中。
「トイレ。貸してくれて、ありがとうございました!」
玄関で靴を履きながら、奥の住人に、一応声だけ掛けておく。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
とろとろの甘い声と共に、リビングの入り口から姿を現したのは美しい大人の女性。
胸元までの亜麻色のミディアムヘア。
優しげな印象の垂れ気味の二重瞼はどこかあどけなく、俺より一回り年上だとは思えない。
「ナツったら、もうちょっとゆっくりしていけばいいのにー」
彼女の名前は北畠美祈。最近結婚したので名字は違うが、俺にとって歳の離れた従姉に当たる人だ。
「旦那いないし、いいでしょ? 昼ごはん作ったから食べて行かない?」
セーターの袖から指だけ出しながら俺を呼ぶ。自分の可愛さを知っている女性の仕草だ。
それにどきっとしつつも、俺は首を横に振る。
「いえ、いいです」
美人なお姉さんに親切にしてもらって、あまつさえトイレを借りときながらの返答。
我ながらクソみたいな従弟だと思う。でも、俺には絶対に応じられない理由があるのだ。
「すごく言いにくいんですけど……美祈さんの料理を食べると、必ずお腹壊すんですよね」
「ナツったら酷くない!?」
ゆるふわカールを揺らし、困惑する美祈さん。
だけど、これは事実だし、可愛らしい仕草をしたって無駄だ。
彼女はお湯を入れて三分のカップ麺すら満足に作れない。温めるだけのレトルトパウチですら、無駄にアレンジを加えて台無しにする。
そんな、狙ってやってるんじゃないかというレベルの料理音痴なのである。
彼女を作る絶好の機会を投げうってまで、用を済ませた。
しかし、ここで美祈さんの料理を食べれば、午後の授業で腹痛が再発するのは目に見えている。
「じゃあ、俺学校戻るんで」
「ああ、待ってよ――」
玄関のドアを押し開け、さっさと退散した。
『過敏性腸症候群』から来る腹痛に悩まされている俺は、度々学校を抜け出し、この家の世話になっていた。
過敏性腸症候群と言うのは、いきなりウン〇がしたくなって堪らなくなるという困った体質だ。
腸内環境、常在細菌やら色んな理由が議論されているが、明確な原因や治癒方法は未だ解明されていないらしい。
で、行き詰まった学者連中が下した結論がストレス。
彼ら曰く、この症状の原因の殆どはストレスにあるらしい。だから、ストレス無く生きる事が出来れば自然と治るのだという。
悲しい事に、それが現代医学の粋を知り尽くした者達が出した唯一の解決策なのだ。
ところがどっこい。この腹痛こそがストレスの根本的な原因なのだからどうしようもない。ストレスが先か、腹痛が先かという無限ループに陥ってしまう。
去年の暮れ。親戚同士の集まりで両親がこの俺の悩みを恥じらい無くぶちまけた。
それを聞いていた美祈さんの母、つまり俺の叔母さんがこう言ったという。
『それなら、娘の新居の近くに高校があるから、そこを受けたらいいんじゃない? 朝の登校前とか昼休みに抜け出してトイレ借りられるわよ』
即決だった。
本来の志望校よりもワンランク上の難関を無事突破した俺は、この春から新婚夫婦の愛の巣を緊急トイレ代わりに使っている。