第12Rの意味
東京にある上品な個室の料亭。
バインの新馬戦の後に訪れたその店の暖簾を、郷田と笑平は再び二人でくぐった。
郷田が東京へ出向く用事があった日と、笑平の仕事の休みが丁度重なった為、バインの次走の相談も兼ねて一緒に食事をしようという話になったのである。
郷田にとって、この店はバインの2歳GⅠ挑戦を承諾させられた、複雑な思い出のある場所だ。
だが今になって振り返ってみれば、この店で笑平とバインのGⅠ挑戦の話をしたあの日こそが、勝利を目指す『バインバインボイン陣営』の旗揚げ日だったようにも思える。
「郷田先生と膝を突き合わせてお話しするんも、これで何度目になるやろなあ」
バインの戦いを見守り、鍛え、共に勝利を目指した日々。郷田がそれを振り返るような心境になったのを感じ取ったのだろうか。
笑平は開口一番、昔を懐かしむような声を発した。
「さあ、何度目になるでしょうかね。私にとっては、新馬戦の後にこの店でした話し合いが、一番印象深いものになっていますが」
おしぼりやら馬主記章やらを並べて、バインの2歳シーズンのスケジュールを一度に決めてしまったあの話し合いである。
「やりましたなあ、そんなこと。懐かしいわ。あの日このテーブルに並べた4つのレースから、あいつの戦いは始まったんやなあ」
言いながら、笑平はスーツに付けていた馬主記章をおもむろに外し、それに視線を落としながらしゃべり出した。
「新馬戦を勝ったあの日から安田記念まで、走りに走った11レース。ここまで来ると、なんや感慨深くも感じるわ」
「そうですね。そして次はいよいよです。次のレース、バインにとっては約1年越しのリベンジになります」
郷田の声に、笑平が馬主記章から視線を上げた。
「天皇賞秋。秋華賞と同じ2000mの距離で、いよいよニーアアドラブルに去年の借りを返す時が迫ってきました」
郷田にとっては、自身にとって最強の馬であるテクノスグールの生き写しの娘への挑戦だ。
ニーアアドラブル陣営は、すでに今年の天皇賞秋への出走を表明している。
去年負けた2000mの舞台で、バインはようやくニーアアドラブルにリベンジの挑戦状を叩きつけることが出来る。
バインも、郷田も、そして目の前の馬主も1年待ちわびた、再戦の時が迫っていた。
「熱いなあ。郷田先生、騎手だった頃とおんなじ目しとる。勝ちに飢えた、俺が大好きやった郷田ジョッキーのギラギラした目ぇや」
嬉しそうにそう嘯きながら。笑平は馬主記章をテーブルに置いた。
「郷田先生、一つ俺から相談なんやけどな」
「……なんでしょう?」
今まで何度も郷田にとって予想外の提案をしてきた馬主の言葉。郷田は思わず、警戒心から居ずまいを正した。
「実はな、バインを今年一杯で引退させるって話、撤回しようかと思っとる」
顔から笑顔を消して放たれた馬主の言葉。その言葉に、郷田の眉がピクリと動いた。笑平が気にせず言葉を続ける。
「正確に言うと、五歳以降もあいつを走らせるか、あるいは今年一杯と言わずもっと早くに引退させようか、今俺は迷っとる」
「それは、またどうして急にそんな話に」
馬主のその言葉に、郷田はむしろ戸惑った。
バインは強い。そして四歳秋を迎えた今現在においても、その力の衰えは始まっていない。
『こいつなら来年のレースでも勝ってくれるはずなのに』。多くの引退を決められた馬に抱く未練を、最近の郷田はバインに対し抱いている。
だから、バインを来年以降も走らせるという馬主の言葉は、郷田にとって飛びつきたいような話だ。
しかし一方で、少なくとも今年一杯、4歳の年末までは走れると思っていたバインの引退を、更に早めることも考えていると今笑平は口にした。
引退撤回か、それとも引退を更に早めるのか。どちらがこの男の本意だと、郷田は疑うような視線を笑平に向けた。
笑平は、迷うように自分の顎を撫でてから、話し始めた。
「俺があいつの引退の期限を決めたのは、負け続けることにあいつが耐えられるのは、1年が限界やろうと見立てたからや。せやけど、あいつは見事テクノスホエールに勝った。せやから、あいつはもう大丈夫になった」
言いながら、笑平は手元の酒を口に運んだ。
「この先何度負けても、誰に勝っても、バインという馬の根幹が揺らぐことはもうないやろう。そう信じられる『本物』が生まれる瞬間を、俺は見たかった。そしてそれをバインは叶えてくれた。あいつに懸けた俺の夢は、今年の安田記念で叶った。バインは、『本物』に成った」
笑平の声には、いつの間にか喜びと安堵が混じっていた。
ずっと見守り続けた存在の成長を喜ぶ柔らかな笑み。バインという馬のことを、その実力と将来を心から信用している声。
「せやから俺は今、ただ単純にバインの次走を楽しみにしとる。純粋に一人の競馬ファンとして、今年の秋はバインとニーアという本物同士のぶつかり合いが拝めると、心底ワクワクしとる。そしてその先も、あいつらが見せてくれるレースを何度でも見たいと思っとる」
でもなあ、と、そこまで話した上で、笑平はグラスを置いた。
「一方で、柄にもなくバインのことを心配に思っとる自分もいるんや。実は安田記念の後、巴に泣きつかれた。巴牧場にダイ子を返してくれと、これ以上走らせたらあいつが死んじまうと、そう泣きつかれた。あいつにしてみりゃ愛娘も同然の馬や。それを心配する気持ちは、俺にも分かるんやけどな」
そして、その泣いて縋る友蔵の気持ちに共感出来たが故に、笑平はその時気付いてしまったのだ。
バインという一頭の競走馬が成長し、笑平が納得する一角の存在になるまでを見守った。その結果、いつしか笑平の中にも、バインに対する親心のようなものが湧いてしまっていることに。
バインという馬は立派になった。もうあの馬はこの先何があっても大丈夫だと信じる気持ちが、笑平には強くある。ファンとして、その活躍をもっともっと見続けたいという思いがある。
一方で、その身体の無事を心配する気持ちも湧いてしまった。この先、あの勝つ為に頑張りすぎてしまう馬を、何度も何度も走らせ続けたら。
すでにレースで2度も倒れている馬だ。その時一歩間違えれば、騎手や他の馬の命を巻き込んで死んでいたかもしれない馬だ。
競馬という娯楽をより楽しむ為に、面白いものを見たいという自分の欲の為に、一つの命を犠牲にする。理解した上で馬主になったつもりだった。
しかし、その一つの命への愛着が強まってしまったが為に、そしてその馬に敬意を抱いてしまったが為に、その命を守らなければという思いが自分の中に生まれてしまった。
笑平はいつになく言い辛そうに、罪を告白するようにそう話した。
「我ながら、自分の身勝手さに嫌気がさす話なんやけどな。だが俺はもう、あのバインという馬のことを好き勝手出来そうもないんや。自分の見たいものの為に、あいつの命を振り回すことが出来なくなった。あいつはもう、俺なんぞがそんな身勝手をしていい相手ではないと、そう思ってしまった」
だから相談なのだと、笑平は言った。バインの引退時期を早めるべきか、伸ばすべきか。今のバインを最も近くで見ている郷田の意見を聞きたいと、笑平は言った。
「……バインという馬を尊敬する気持ちは、もちろん私にもあります」
しばし逡巡するような間を開けてから、郷田は口を開いた。
「しかしだからこそ、バインの引退を早めるという話には同意しかねます。少なくとも、次走である天皇賞だけは絶対に走らせたい。バインに敬意を抱いているからこそ、あいつを負けたまま故郷に帰す訳にはいきません」
強く、断定する口調で郷田は言った。
「バインにとって12戦目となる次のレースは、バインにとって負けを取り返す最後のチャンスになるかもしれないレースです。バインの距離延長に不安がある以上、ニーアアドラブルには2000mで勝負を挑みたい。そして名牝の引退は早い。例えバインが引退しなくとも、ニーアアドラブルが来年以降も走ってくれる保証はどこにもない」
牡馬と違い、年1頭しか子供を産めない牝馬。
その牝馬が優れた名牝であればあるほど、その血を後世に残すため、1年でも早く引退させ、1頭でも多く子供を残させたいという人間の思いは強くなる。
ニーアアドラブルは、今や日本のみならず世界からも認められる名馬だ。
故にニーアが今年にでも引退するのではないかという憶測は、すでにプロの競馬関係者からネットの匿名掲示板まで、いたるところで当たり前に飛び交っている。
「秋華賞を最後にこのまま勝ち逃げされては、こちらとしても悔しさが残る。それにバインの奴は絶対に、ニーアアドラブルに負けたことを忘れていません。再戦の機会さえ与えないとなったら、怒ったあいつに私が蹴り飛ばされてしまう」
冗談めかして、だがどこまでも本気で郷田はしゃべった。
そして姿勢を正し、真正面から笑平の顔を見た。郷田のことを試す様な、一方で、郷田がどんな言葉を言うか楽しみにしているような、そんな顔をした男を見た。
「次走、天皇賞秋。その1戦だけは走らせてください。安田記念を終え、バインの肉体と精神は今、ピークに達しています。4歳春後半から秋までのまさに今が、バインというサラブレッドの全盛期なのだという感覚がある」
目の前の男に一切腹の内を隠さず、自分の思いの全てをぶつけるつもりで郷田は言葉を放つ。
「その全盛期を迎えているバインに、俺は俺の全てをぶつけたい。かつて騎手として磨いたもの、調教師として身に付けたもの、俺という、郷田太というホースマンが持つもの全てを注いで、ニーアアドラブルに挑みたい」
その郷田の言葉を、笑平は嬉しそうに、どこか眩しそうに聞いていた。
「騎手だった頃の俺が最強と信じた馬と瓜二つの娘。その強敵に、自分が調教師として出会った馬の中で最も強い、バインという馬で挑戦する。俺は今それしか考えていません。そしてその挑戦する気持ちは、東條君も、そしてバインも同じだと、俺はそう思っています」
郷田の瞳は光を放っていた。勝利への執着が、情熱が、渇望が、その瞳の奥で輝きを放っている。
「……夢の11Rの後も、負けを取り戻す12Rが残っている、か」
郷田の言葉を聞き終えた笑平が、ぽつりと呟いた。
「12R?」
「いや、郷田先生の話を聞いとったらふと、思いましてん。そういえば、バインの次のレースは12戦目やと。バインが本物に成った第11R安田記念は、俺にとってのメインレースやった。せやけどまだ、負けを取り戻すための最後の12Rが残っていたんやと、そう気付いたんですわ」
笑平の話を聞き、なるほどと郷田は思った。
競馬開催日の競馬場では、第1Rから第12Rまで、1日に12のレースが開催される。
そして、その日のメインレースとなる重賞やGⅠは、多くの場合第11Rに開催される。
メインレースが最後の12Rではなく、11Rで開催されるのは、レース後の交通渋滞を緩和させるためだ。
メインレースを最後に持ってきてしまうと、競馬を見終わった観客が一斉に帰路につき、交通の大渋滞を起こしてしまう。
しかしメインレースの後にもう1レース用意することで、メインレースを見終えて帰る客と、最終レースまで見てから帰る客とで、競馬場から出ていく観衆を分割することが出来るのである。
テクノスホエールにバインが勝った安田記念を、笑平は11Rと呼んだ。
つまり笑平は、メインレースを見終えたので、満足してそのまま帰ろうとしていたのだ。
そしてそれを郷田が今引き留めた。まだ第8R、秋華賞での負け分を取り返していないじゃないかと。
メインレースが最後から2番目の11Rとして開催される理由。それは交通渋滞を抑制するためだけではない。
メインレースが終わり、馬券が外れて熱くなっている観客に、ムキになって最後にもう一勝負して貰う為、最後の12Rは開催される。
1日のメインを飾る最も豪華な夢の第11R。そしてあの後に残る第12Rは、負けを取り戻すための戦いなのである。
「……分かりましたわ。巴には悪いが、俺もやっぱりバインがニーアに勝つところは見たい。どうやら俺も、それだけは我慢出来そうにない」
言って、笑平は自分で自分に呆れるように笑った。
「それで、バインを四歳で引退させる言う話は、正式に撤回した方がいいでっか?」
そして、意地悪く確認するように笑平は郷田に問うた。
「それを決めるのは、あくまで馬主である大泉オーナーであるべきです。ただ、撤回するにしても、それを言うのは天皇賞が終わってからにしてください」
バインの現役は4歳まで。2000mレースである天皇賞は、ニーアアドラブルに勝つ最後で最大のチャンス。
そういう背水の状況に自分を追い込みたいと、郷田は笑平に伝えた。
その言葉に、笑平は分かったと、満足したように頷いた。
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「……大泉オーナーは、もう馬は買わないんですか?」
そしてバインの話が一段落し、料亭の食事に舌鼓を打つことしばし。郷田は笑平に聞いてみた。
先ほどの会話の中で、どこか笑平がバインの引退と共に馬主を辞めてしまうような雰囲気を感じたからである。
しかし、郷田のその推察は外れたようで、笑平は悪戯っぽく『へっへっ』と笑った。
「実はもう、次の馬買うてますねん」
笑平のその言葉に郷田は驚いた。そのリアクションに満足したのか、笑平が言葉を続ける。
「これがまたオモロくなりそうな馬なんですわ。何と言うか、説明が難しいんやけども、バインより変な馬を見つけて、思わず衝動買いしてしまったんですわ」
馬を衝動買いしたのはバインに続けて2頭連続だと、笑平は言った。
『バインより変な馬』。変な馬主が言ったその不穏な言葉に、郷田はその馬に対する微かな興味と膨大な危惧を抱いた。
「……ちなみに、その馬の厩舎は?」
「それがまだ決まってないんですわ。郷田先生には悪いんですけれども、俺もまだまだ馬主として新人やさかい、色々経験してみたくて。次は郷田厩舎以外のところに、お願いしようとは思っているんですけどもね?」
郷田厩舎以外。その言葉に郷田はほっと胸を撫でおろした。
この男が連れて来る新たな珍馬に悩まされる日々は、ひとまず回避出来そうである。
同時、郷田は目の前の馬主が、もう新しい夢を見ているのだと知った。
バインという馬に大泉笑平という男は夢を懸け、その夢をバインは叶えた。
だからこの男はもう新しい夢を見ている。この馬主は新しい馬と一緒に、新しい夢を買ったのだ。
なんて現金な人だと、郷田は呆れる。一方で、競馬ファンとはそうでなくてはいけないとも思う。
「郷田先生の夢はなんでっか?」
馬の話をしていた笑平が、不意に郷田に話を振って来た。
「私の夢ですか?」
言われて、郷田は考える。
「……まずはバインをニーアアドラブルに勝たせること。それが俺がバインに懸ける夢です。そして、その夢が叶ったらその後は、」
「後は?」
考えるより先に、郷田の口は言葉を紡いでいた。
「いつかバインより、面白くて強い馬を育てること。いつかまた、あいつのような本物の強さを持った競争馬を育て上げること。それが俺の、調教師としての夢です」
その火種は、一体どの馬から貰ったものなのだろうか。
燃え尽き真っ白な灰しか残っていなかったはずの郷田の胸の中には、確かな炎が、情熱と夢の炎が再び灯り、煌々と燃え始めていたのだった。
明日も昼12時更新です
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