妹に贈る言葉
夏の終わり、私は放牧を終え郷田厩舎へと帰って来た。
帰って来た私は、自分の馬房に入る前、隣の妹の馬房を覗き込んだ。
あるいはもう、妹はニーアアドラブルとのレースを終えているかもしれないと思ったからである。
まさかニーアアドラブルが妹に負けるとは思っていないが、億が一、兆が一の可能性がない訳でもない。
妹がどんな態度で私に接してくるか、柄にもなく少し緊張して妹に話しかけた。
「おい、妹。勝ったか?」
「…………ウルサイ」
返って来たのは、聞いたことがないほど暗く、棘のある妹の声だった。
拗ねる様に馬房の隅に立っていた妹は、私を一瞥だけし、すぐにそっぽを向いた。
おお、すごい。あの能天気娘の目が淀んでいる。
あの、何を言ってもレースに本気にならなかった妹が、ちゃんと負け犬の顔になっている。
負けたんだなと、それだけで察することが出来た。ニーアアドラブルの、本物の競走馬の強さを妹が体験してきたのだと、分かった。
妹が、生まれて初めて負けたのだと、分かった。
負けた妹にどんな言葉をかけるべきか少し迷ったが、テクノスホエールに完敗した時の自分を思い出し、何も声を掛けずに私は自分の馬房に入った。
私を馬房に案内し終えた小野が立ち去る。房の中に静けさが帰ってくる。聞こえるのは馬達の鼻息と、踏まれて潰れる寝藁の音だけ。
この静かさの中で、妹は今何を思っているのか。
私がニーアアドラブルに初めて負けた時は、ただただ悔しくて、負けた事実から目を背けようとしていたように思う。
もうちょっとで勝てたのにとか、ゴールがあと1m手前にあればだとか、そんな意味のない言い訳ばかりを頭の中に並べていた。
そうやって、言い訳をいくつもいくつも重ねることで、本当だったら自分は勝っていたんだと思い込もうとし、自分の負けをなかったことにしようとしていた。
負けた悔しさを怒りに変えて発散すれば、それが消えると思っていた。あるいは、次のレースで勝つことで、その負けを埋めてしまおうとしていた。
次のレースで勝てば、負けた屈辱を勝利の喜びで覆い隠せば、負けた事実が消えてなくなると思い込もうとしていた。
敗北を恥とし、それをどうにかして隠そう、忘れよう、なかったことにしようとしていた。
今振り返ってみれば、自分の無様さとみっともなさに笑いも湧いてこない。
思えばあの時の私は、まだ勝負というものを分かっていなかった。負けるということが何なのかを、分かっていなかった。
テクノスホエールに言い訳しようのない敗北を突きつけられて、その後なんとかテクノスホエールに勝てて、そこまでしてようやく受け入れられるようになった。
負けとは、背負うものだ。負けた後にどれだけ勝っても、どんなに強くなっても、負けた事実は決してなくならない。
強い馬達と競い合い、死力を尽くし、勝利を掴んだ。その栄光が私の中で永遠に輝き続ける様に。
全力で挑み、それでも届かず、相手の強さにひれ伏した。その敗北の痛みは、苦しみは、悲しみは、私に刻まれ決して消えることなく、永遠に残り続ける。
どちらもこの先ずっと私と共に在るもの。私という存在が消えるその時まで残り続ける、私の一部となったもの。
勝ちも、負けも、そのどちらともが、私にとって不可欠な、私を構成する私自身なのだ。
実は負けてもいいのだと、今の私には分かる。自分が本気で挑んだ結果であるならば、自分の全てを懸けても敵わぬほど強い相手と競ったならば、その負けは恥ではなく誇りにしていいものだ。
その負けは、痛みと共に自分の一部になって、自分を作ってくれるものだから。
勝負とは、負けを押し付け合う戦いではない。
勝利という栄光をその脚で掴むか、敗北という傷をその身に背負うか。そのどちらを己の一部にするかを賭けた闘争だ。
どちらの結果を手にしたとしても、それは誇るべき己の一部になる。
それでも勝つことに意味があるのは、それが戦いの先で手にするものだから。
挑んで、競って、たった一頭の勝者だけが掴めるものが勝利であるから。
他のどの馬が手にしたものよりも誇れる誉れであるからこそ、勝利は誰にも譲ってはならない。
負けて傷を負う馬達の為にも、勝者は勝利に妥協してはならないのだ。
そうでなければ、関わった者全ての矜持を踏みにじり、傷と栄光その両方に泥を塗ることになってしまう。
だから勝ちに向かい続けることを、戦う者は放棄してはならない。戦いを終えるその日まで、修羅の道を半端で走り終えることは許されない。
ニーアアドラブル。去年私を倒した栗毛の馬。私より優れた脚を持つ、誰より速い本物の天才。
きっと、去年よりもっと速く強くなっている、別格にして本物の競走馬。
彼女に負けた事実を、今の私は誇れる。
去年の秋華賞、あの日の彼女は強かった。彼女の走りは素晴らしかった。見惚れる程に、そう、ゴール板を駆け抜けていく彼女の姿に、私は悔しさを抱えながら見惚れたのだ。
だからこそ、思う。勝ちたいと。あの強く、速く、美しい彼女に勝ちたいと。
負けっぱなしでいられるものかと。
あの女が強ければ強いほど、勝つのが難しければ難しいほど、勝たずにいられるものかと思う。
あの女に勝利して手にする栄光は、あいつがまだ未熟だった頃に手にした桜花賞の栄冠よりも、秋華賞で負った傷よりも、遥かに眩いものだと思うから。
それを目指さないという選択肢は私の中にない。テクノスホエールに勝った今、私が向かう先は一つしかない。
「……ネーサマ」
隣の馬房から、壁越しに妹が話しかけて来た。
「どうした妹、急に話しかけてきて」
首を伸ばして妹の房を覗こうかとも思ったが、やめて壁越しに会話を続けることにする。
「ネエサマは、アイツにカッタことアルノ?」
「あいつって?」
「アノ、カオにキズがアルヤツ」
ニーアアドラブルのことか。
「あるよ、1度だけ。あいつとは2回走った。1回目は私が勝って、2回目は私が負けた」
「ウソ」
「嘘じゃない。私は私の走ったレースに嘘なんて吐かない」
言い切ると、壁の向こうで妹が身じろぎするのを感じた。
「……ネーサマは、またアイツとハシルノ?」
「もちろん」
「カテナイノニ?」
「勝つさ。負けっぱなしは癪だから、次戦う時は私が勝つ」
言いながら、妹の房側の壁に身体を添わせた。
多分妹も、壁の向こう側で同じようにしている気がした。
「お前も、負けて悔しいなら勝つしかないよ。あの女を見返したいなら、走って勝って、認めさせるしかないんだから」
「……ミカエス、なんて、ムリダヨ」
壁の向こうの妹の声は、どんどんか細くなっていった。
「ダッテアイツ、ワタシノコト、ミモシナカッタ」
ま、そりゃそうだろうな。
「それでも、悔しいなら勝つしかないさ。走って走って、勝って勝って、そうやって初めて見て貰える。そうやって初めて何かを掴める。お前とあの馬が出会った場所は、そういう所なんだよ」
なんだか私の今の話し方、少し母に似ていたなと思いつつ、妹の反応を待つ。
「ハシリツヅケタラ、カチツヅケタラ、ワタシもアイツにカテルヨウニナル?」
「さあね。それはやってみないと分からない。結局はお前次第さ。どうでもいいなら諦めればいい。お前にとってどうでも良くないことなら、やるしかないだろう」
「……………………。ワカッタ」
少しの沈黙の後、妹の返事が聞こえて来た。
そして、妹が房の壁から離れるのを感じる。
何か声を掛けようかと思った。今の妹に、どんな言葉を掛けるのがいいだろうかと考えた。
『頑張れ』か、『お前ならいつかきっと勝てる』か。どんな言葉がいいか。
少し考えて、言葉にはせず、一つの言葉を妹に送ることにした。
『ようこそ』
ただその一言を、壁の向こうの妹に向かい、私は心の中で送ったのだった。
先を進む者から後ろに続く者へ
続きは明日の昼12時更新です。
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