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逆転姉妹


「なんてったってその札幌記念には、あのニーアアドラブルだって出走するんだから。難しいとは思うけどよ、お前がダイ子の秋華賞の仇を取ってくれたら嬉しいんだけどな」


 おい。おいおいおいおい。ちょっと待て。ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て。

 な、は? ニーア? アドラブル? あのニーアアドラブル? 妹があいつと戦う? はぁ?


 はぁ???


「なあ、ダイ子。お前だって、妹にニーアアドラブルを倒して貰えたら嬉しいだろ?」


 突然顔を上げて、妹を見ていた私に話し掛けて来る友蔵おじさん。


 いやいや、ぜんぜん? 妹があいつに勝つなんてまずありえないが、もしそうなっても全く嬉しくなんてないが。


 ニーアアドラブルは私が自分で倒すつもりだが。秋華賞の借りは自分で返さなきゃ意味ないし。


 というか、郷田先生は一体何を考えているんだ。何故ニーアアドラブルなんて別格の馬が出て来るレースに、私ではなく妹を出す。


 距離の問題か? 確かに秋華賞より長い距離でニーアアドラブルに勝てるかと聞かれれば、それは正直厳しいという判断は、悔しいがまあ分かる。


 だが、それでも妹より私が出た方が勝つ可能性は高いだろう。


 あるいはそのレースの開催日が直近で、安田記念の疲れの残る私の出走を見送ったという話なら、それも納得は出来る。ただ妹が放牧明けに出るってことは、多分札幌記念は9月以降のレースだろう。


 それなら流石に私の回復だって間に合うぞ。元気になった私がいるのに、どうしてわざわざ妹を出す。


 ニーアアドラブルは年下の小娘がまぐれ勝ちを狙えるような相手じゃない。

 テクノスホエールという本物と戦って来た私には分かる。秋華賞で私を差し切ったあいつはテクノスホエール級の、本物の怪物だ。


 三歳秋の、未熟な妹がどうこう出来る相手じゃない。三歳秋の、三歳秋か。


 今日の分のおやつはもうお終いだよと、友蔵おじさんが妹にブドウの入っていた空バケツを見せ、私たちの前を去っていく。


 その遠ざかっていく友蔵おじさんの背中を、おいもっとオヤツ寄越せよ、という視線でいつまでも見送る妹。


 それを眺めながら、はたと気づく。


 私がテクノスホエールと初めて出会ったのも、三歳の秋のことだったなと。

 そしてテクノスホエールは私より1歳年上なので、あの時のホエールは四歳だった。今の私やニーアアドラブルと同じ年だった。


 私にとってのテクノスホエールが、妹にとってのニーアアドラブルになると、もしかしてそういう話か?


 中々レースでやる気を出さない妹に対する荒療治として、郷田先生はニーアアドラブルという本物との対戦をセッティングしたと、そういうことか?


 あいつと妹が戦ったとして、あの悪夢みたいな差し脚を見せつけられて、妹の心がへし折れるのか、燃え上がるのかは分からないが。


 少なくともそういう荒療治が妹には必要だと、郷田先生はそう考えているということか。


「ネーサマ、ドウシタノ?」


 何も知らずに首を傾げる妹を見る。レースの意味も、勝利する価値も、多分未だに理解出来ていない妹。

 勝たなければ、自身の価値を勝利で証明しなければ、将来命すら危うくなる重賞未勝利の競走馬である妹。


 負けなきゃ駄目だ。


 私は思った。この妹は、1度ちゃんと負けなきゃ駄目だ。

 あのニーアアドラブルに挑むのならば、あの馬の強さを、怖さを、大きさを、美しさを、自分の命全てで体験しなければ駄目だ。


 妹はニーアアドラブルに全力で挑み、ちゃんと負けなければならない。


 だがさて、どうしたものかと、口の中に残るブドウの皮をモゴモゴしているのん気な妹を、私は見つめたのだった。



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「イヤ! ハシルのキライ! ツカレルもん。 レースキライ! ツマンナイもん。 ニンゲンのイウコトキクのムカツク。ヤダ!」


 巴牧場の放牧地で、妹の癇癪が響いた。


 妹が次走でニーアアドラブルと当たると知って数日。私は何度か妹に次のレースを本気で走れ、次の1回だけでいいから頑張ってみろと話してみた。


 だが、妹は頑なに私の言葉に首を縦に振らなかった。

 走るのは疲れるから嫌いだ、レースという行為自体が意味不明だ、そんな訳の分からないものの為に『頑張る』なんて出来ない。


 ヤダヤダヤダの一点張りで、てんで話にならなかった。


 普段の郷田厩舎の中でなら、妹のワガママなんて噛みつき一発で黙らせて、無理やり従わせてやるのだが、ここは巴牧場なのでそれも出来ない。


 私がそれをやろうとすると、母が仲裁に入って来てしまい、妹のことを助けてしまう。


 久しぶりに母と再会できた喜びもあるのだろう。母に守って貰えて、妹は日に日に我侭になっていっているように見える。もう3歳だろうに、妹は赤ちゃん返りでもしているかのようだった。


 こうしている今も、私の話をうっとおしく感じたのだろう。叫んだ後母の方へ妹は駆けて行ってしまった。



 仕方なくその妹を追いかけながらため息を吐く。

 本当に困った妹である。言って聞かせることも、力で従わせることも出来ないとなると、本当にどうしたものか。


 鞭で走らないなら、アメか? ニンジンをぶら下げればあいつも走るか?

 妹が欲しがりそうなアメとは何があるか考えながら妹の下へ行くと、妹はご機嫌斜めに私のことを睨んできた。


「ワカンナイコトばっかイウ、ネエサマキライ! コッチコナイデ!」


 木陰で休む母の影に隠れながら、そんなことをのたまう妹。何だか本当に赤ちゃん返りしてきているようだった。

 母もヤレヤレといった様子で、若干面倒臭そうに私達姉妹を見ている。


「分かった。ならこれで最後だ。この話を聞いてもお前がレースを頑張らないというなら、もういい。お前にアレコレ言うのはやめにする」


 一旦妹を落ち着かせるために声を掛ける。『これで最後』という私の言葉に反応したのか、妹が母の影から出て来た。


「お前の次走、札幌記念。お前がもしニーアアドラブルに勝って1着になったなら、お前を私の姉にしてやる」


「……んえ?」


 私の言った言葉の意味が分からないとでも言うように、妹はポカンと口を開けた。


「聞こえなかったか。次のレースに勝ったら、お前が私の姉になり、私はお前の妹になってやると言ったんだ」


「? ……?? ……!!!?? ……???」


 私に言われた言葉の意味を理解するために、妹が百面相することしばし。


「エット、エットソレハ、ネエサマがワタシのイモウトにナル、ってコト?」


「そう言っているだろう」


「ワタシがアネ、ってコト?」


「そうなるな」


「……ネエサマ、シラナイノ? アネはイモウトよりエライんダヨ?」


 それをお前に教えたのは私だ。


「ホントニ? ズルしない? イモウトにナッタトタン、ヤッパヤメルってゲコクジョウシナイ?」


 下剋上なんて言葉どこで覚えたんだこいつ。


「しないよ。お前が次のレースでニーアアドラブルに勝って1着になれば、お前はその日から私の姉だ。お前からもう一度姉と妹を交換しようと言い出さない限り、その先ずっとそのままでもいい」


 ブルブルと、妹が震える出す。


「どう? 次のレース、勝ちたくなってきた?」


「ヤル! カツヨ! ワタシカツ! カッテ、ネエサマのネエサマにナルモン!」


「お前たち、一体何を馬鹿な話をしている」


 妹がようやくやる気らしきものを見せたところで、見かねた様に母が口を挟んできた。


「悪いけどお母さんはちょっと黙ってて。今、妹と大事な話をしているところだから」


「お前ねえ……」


 母が呆れたように溜息を吐いた。


「自分の立ち位置というものは、守らなければいけないものだよ。自分で自分を誰かの下に置くような真似、軽々しくするもんじゃない」


「それは心配しなくて大丈夫。妹があいつに勝つのは無理だから」


「ムリジャナイモン! カツモン!」


 はっきり言い切った私に妹が言い返し、母が私に疑わし気な目を向けて来る。


「随分な自信だね。その馬はそんなに強い馬なのかい?」


「強いよ、あいつは。私が知るニーアアドラブルって馬は、」


 はて、競馬に興味を持たない母に、あの馬の凄さをどう伝えたものかと考える。


 末脚のノビがえげつないとか、歩幅が大きいとか、私にレースで勝ったとか、そういう説明では母には伝わらない気がした。


 あいつと私が最後に会ったのは秋華賞の時だ。妹の次走の開催日がいつかは知らないが、それが秋ならそれから1年近くが過ぎていることになる。


 あの日から1年で更に成長したあいつの姿を、私は想像した。


「あいつは、お母さんに負けない位凄い馬だよ」


「…………ほう」


 母の目がスッと細くなった。


「ウソバッカ! ソンナウマ、イルワケナイジャン!」


 妹が噛みつくような言い方で私の言葉に反応する。


 いるんだよなあ、そんな馬。テクノスホエールとかニーアアドラブルとか、世の中には凄い馬というのが、いるところにはいるものなのだ。


「ヤクソクダカラネ。モウ、ヤクソク、シタカラネ! ツギのレースにカッタラ、ワタシがネエサマダカラネ!」


 そして妹が念押しをしてくる。


「心配しなくていい。私はお母さんのお腹から産まれてきてから、誰かとの約束を破ったことは一度もない」


「ワタシ、ホントにカツカラね。ワタシのアシ、ハヤインダカラ」


 その意気だと頷いて、妹の方こそ条件を間違えるなよと念を押した。

 次走札幌記念で、ニーアアドラブルに勝ち、1着になること。これが妹が私の姉になる条件だ。


「ニーアアドラブルは顔に大きな傷がある栗毛の馬。覚えておきなさい」


「ワカッタ!」


 すると、突然妹は走り出そうとした。どこへ行くつもりかと問えば、妹はくるりと振り返り、


「レースのレンシュウ! ワタシ、カツカラ。カッテ、ワタシはネエサマになるんだ!」


 そう言って、妹はダーっと放牧地の彼方へ駆けていった。

 おお、良い走りだ。重賞に挑戦するにふさわしい、力強い走りだった。


「お前たち姉妹は、本当に仲が良いね」


 妹がいなくなり、木陰での昼寝を再開しようとした母が、そんなことを呟く。


「ねえ、お母さん」


「なんだい?」


「私、実はあの子を酷い目に遭わせようとしているんだ。あの子の心がぐしゃぐしゃになるようなことを、私はあの子にさせようとしているの」


 私のしていることを間違っていると思うかと、私は母に問うた。

 別にお前たちの好きにすればいいと、母はいつもの調子で答えてくれた。


「どんな場所で生きていても、どんなに幸せに暮らしていても、生きている限り、悲しみというものは必ず襲ってくるものだ」


「うん」


「その悲しみを乗り越えたり、受け入れたりする為には、強さというものが必要になる。誰かに何かを押し付ける強引さのことではない。何があっても自分の脚で立ち続ける為の、強かさとでも呼ぶべき強さだ」


 木陰の中で、微睡むように母が目を閉じる。


「あの子にその強さが足りていないというのは、私も同感だよ。それで将来苦労するのはあの子の勝手だろうに、お前は面倒見が良い子だね」


 私の娘たちは仲が良いと、母は独り言のように呟いた。

 母と同じ木陰の下から、妹が走り去っていった方向を、私はじっと見つめたのだった。



 そうして、妹と一緒に過ごす夏の放牧は賑やかに過ぎていった。

 私より早めに放牧に出された妹は、私より早くまだ夏の内に放牧を終え、郷田厩舎へと帰されていった。


 それからは母と水入らずで過ごしつつ、生まれ故郷の水と牧草で体重を戻し、春の激戦の疲労が完全に抜けた後、私もまた郷田厩舎に戻ることとなった。


 体調は万全。ゆったり過ごせてメンタルも良好。秋に向けて万事抜かりなし。

 理想的に放牧期間を過ごせたなと思いつつ、私は郷田厩舎に帰ったのだった。



姉は妹になってしまうのか。仲良し姉妹の明日はどっちだ。次回へ続く。

明日も12時更新です。



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