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『本物』に『成った』馬


「…………成った」


 誰が呟いたのだろうか。

 出走馬主席で聞こえたその『成った』という小さな呟きが、騒然とする競馬場内の中でなお、陣内恋太郎の耳に届いた。


 逃げ馬2頭が激しく先頭を争う死闘となった安田記念。そしてその前2頭を猛追していた後続の馬達。


 その白熱したレースの最終直線で、観客席のボルテージはピークを迎え、しかしゴールとほぼ同時にバインバインボインが倒れたことで、競馬場は歓声ではなくどよめきが支配した。


 倒れたバインを踏み潰す勢いで後続の馬達がゴールした時、大事故を予感した観客席からは悲鳴が上がった。


 動揺と悲鳴が混じった喧騒で、騒然となった場内。


 結局、倒れた馬が立ち上がるまでそのどよめきは続き、しかし今日の勝ち馬が力強く立ち上がった瞬間、場内は大きな大きな歓声で包まれた。


 その歓声の中で陣内は、ただただ出走馬主席の椅子に深く座り、茫然としていた。


 自分の馬が負けたことも、今年のマイルスプリントGⅠを全て獲るという目標が潰えたことも、不思議と悔しくなかった。


 ただただ倒れた馬が立ち上がってくれたことにほっとし、ほっとしている自分が不思議だった。


 自分はあの馬のことが嫌いだったはずなのに。あんな馬はレースの世界からいなくなって欲しいとすら思っていたのに。


 ふと見れば、膝に置いた自分の右手が震えていることに気づいた。その右手を左手で触れようとしたその時、


 ポン、と、右の二の腕を背後から叩かれた。


 驚いて振り向くと、そこにあったのは笑顔。

 満面の笑みを浮かべた大泉笑平が、ニコニコと恵比寿顔になって陣内のことを見ていた。


「陣内さん、やーっと笑ってくれましたね」


 言いながら、笑平が陣内の顔を指さす。

 言われて自分の顔の頬に右手を当ててみれば、確かに自分の口は笑っていた。


 いつからだと、陣内は驚いた。レースを見ている時か、ゴールの瞬間か、あるいはあの馬が無事に立ち上がってくれた時か。


 いつからかは分からない。いつからかは分からないが、いつの間にか陣内は笑っていた。

 馬を見て、競馬を見て、知らぬ間に、自然に、笑っていた。


「……ハハ」


 不意に、陣内の口から笑い声が漏れる。


 何やら恥ずかしくて陣内は思わず手で口元を覆ったが、そこで立ち上がった姿勢のまま石像のように動けなくなってしまったバインの姿が目に入り、また急におかしさが込み上げてくる。


 俯いて必死に笑いをかみ殺していると、陣内の隣の席に笑平がいつの間にか座っていた。


「人を笑わせるのが俺の仕事、生業なんですわ」


 腹から込み上げてくる謎のおかしさに一区切りついた頃、おもむろに笑平がしゃべり出した。


「つまらなそうな顔している人を見ると、どうにかして笑わせたくなるんです。初めてご挨拶した時、陣内さんの暗い顔が印象に残りました。それで何か、よせばいいのに俺の中の何かに火が着いてもうて、どうにかしてあなたを笑わせてやろうと思ったんです」


 笑平は、陣内の方を見ず戦い終えたバインをじっと見つめながら言葉を続けた。


「ところが陣内さんは手ごわかった。俺が何度話しかけてもちっとも笑ってくれへん。これはもう俺一人でどんなに頑張っても無理や思うて、それで手を変えることにしました。俺やなくて俺のオモロイ馬なら、陣内さんのツボにもはまるんやないかと」


 言って、笑平は陣内に向き直り、悪戯が成功したようにニッと歯を見せて笑った。


「今日やっと、貴方に笑ってもらえました。俺の馬の勝ちですわ」


「……フッ」


 そうドヤ顔で言われ、陣内は思わず軽く笑った。それを見た笑平が『俺で笑った!』と大げさに騒ぐ。なんてやかましい人だろうかと、陣内はまたおかしくなった。


「あなたのプロ意識の高さには御見それしました。それを仕事ではなく私に向けるのはどうかとも思いますが。笑ってしまいましたから、面白かったのは認めます」


 言って、またすぐ笑い出しそうになる自分の気を落ち着ける為、陣内は一度大きく深呼吸をした。


「さきほど、『成った』とおっしゃいましたか?」


 そして、ゴールの時に聞こえた呟きについて質問する。きっとあの呟きの主はこの愉快な男なのだろうという、妙な確信があった。


「へ? 陣内さん、えらい地獄耳や」


「ええ、よく言われます。『成った』とはなんのことでしょう?」


 聞くと、笑平は大したことではないと笑った。


「俺の馬が今日のレースでようやく『本物』に成ってくれたと、俺が一番見たかったものを見せてくれたと、それで思わず声が出ただけですわ」


 ふむ、と陣内は一度頷いた。


「あなたの言う『本物』とは?」


「実力と実績と自信。この3つが揃っとることです。この3つが揃って揺るがなくなったら本物。つまり、あなたのテクノスホエールがそうや」


『実力』、『実績』、『自信』。その三つの言葉の意味を考えながら、陣内はかつて自分が所有していたGⅠ馬達を思い浮かべた。


 その中で、果たして本物と呼べる名馬はどれだけいただろうかと。


 おそらく、大泉笑平の言う『本物』に求められる基準はとても高い。特に『実力』と『自信』の部分が。

 ただGⅠタイトルをとったという実績だけでは、本物とは認められないのだろうということは、容易に想像できた。


 しばらく考えてから、陣内はもう一度競馬場のバインを見た。


「なるほど、それなら確かにあなたの愛馬も、間違いなく『本物』の名馬ですね」


 言ってやると、笑平は嬉しそうに呵々と笑った。


「あいつは実績だけは1人前だったんやけれども、今日ようやく3拍子揃いました。7回勝って、3回負けて、11度目の戦いでようやくです。いいもんが見れた。見たいもんが見れた。俺があいつに懸けた夢は、今日叶いました」


 嬉しそうな、誇るような、笑平の横顔。


 その顔を見て、今この男は馬主としての絶頂にいるのだと陣内は思った。


 テクノスグールの活躍を見守っていた時の自分と同じだと気付いて、陣内は自分の胸の中に風が吹き抜け、視界が広くなるのを感じた。


 バインに笑わされ、その活躍を心から喜ぶ馬主の姿を見て、自分が今まで見ていたものがどこかズレていたことに気付いた。


 自分はテクノスグールという一頭の馬に魅せられたあまり、その馬と似ている馬以外に魅力を感じなくなり、競馬の面白さや楽しさを見失っていたのではないか。


 自分が今まで『それしかない』と思っていた競馬の魅力は、あくまで競馬の一部分でしかなく、競馬にはもっとたくさんの面白さと魅力がある。


 テクノスグールと似ても似つかぬ嫌いな馬の活躍に、思わず笑ってしまったように。その馬と自分の馬のレースを、本当はとても楽しみにしていたように。 


 自分はいつの間にか、目の前に本当はいくつもあった素晴らしいものから目を背け、競馬というものを随分狭く見ていたのではないか。

 自分で自分の視野を狭くして、面白いもの、素晴らしいものを自分で見えなくして、つまらないと一人拗ねていたのではないか。


 陣内は自分の視界を覆っていたモヤが、鮮やかに晴れていくのを感じた。


 フッと、胸の奥から湧いてきたおかしさのままに、陣内はもう一度小さく笑った。


「あなたの勝ちのようです。大泉さん」


 言って、陣内は笑平に握手の為の手を差し出した。


 笑平はその手の意味が分からなかったのか一瞬ぽかんとしたが、すぐに察して両手でその手を掴んだ。


 満面の笑みで、陣内恋太郎と大泉笑平は握手した。


「あなたの馬の次のレースを楽しみにしています。また、面白いレースを見せてくれるのでしょう?」


 人間、笑ったら負けだ。笑えば笑わせてくれた相手のことが好きになる。

 だから今日は、陣内恋太郎の完敗だ。


 陣内の言葉に、愉快な男はもちろんだと、胸を張って見せたのだった。



明日も昼12時更新です。


陣内恋太郎:10年以上に渡り持ち馬がGⅠタイトルを獲得し続けているトンデモ馬主。その相馬眼は、人間嫌いと俗世嫌いをこじたせた彼独特の感性に因るもの。人間の常識が通用しない獣に彼は心惹かれ、魅入られた。そして、そんな特別な存在を見抜く眼力を、無自覚なまま持つに至った。


大泉笑平:初めて買った馬がGⅠを4勝もしている豪運馬主。主人公を見て変な馬だと感じ、面白そうなので買ってしまった男。主人公を変な奴だと彼が感じ取ったのは、彼が仕事を通して培った『人を見る目』による。出会ったあらゆる人間に興味と好奇心を持ち続け、その話を聞き、話を聞かせ、笑わせてきた。その中で磨いた『人を見る目』が何故か馬である主人公に反応し、購入に至った。メタ的に言うと、『前世が人間の馬』を発見する特殊な相馬眼の持ち主。




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