美しき馬よ、さらば
安田記念のゴール板を走り抜けた次の瞬間、私の意識はブラックアウトした。
1秒にも満たない短い失神。しかし、意識を手放したその一瞬で私の身体は完全にバランスを崩し、意識が戻った時はまさに地面に向かい転倒している最中だった。
転倒しながら、その途中で意識を取り戻した私が最初に見たのは、宙を舞う東條の姿だった。
私がこけたせいで鞍から空中に放り出された東條は、見事な放物線を描きながら、私の視界の遥か彼方へとカっ飛んで行った。
続いて目に入ったのは白い太陽、青い空、観客席と上がる悲鳴。私の横腹が地面に衝突する衝撃を受け止めると同時、後ろから蹄の轟音が近付いてきた。
『危ねえ!』という騎手の誰かの怒号が聞こえ、同時、私を避けるようにして馬の群れが倒れた私の真横を通り過ぎていく。
他の馬に踏まれたら死ぬなと思いながら、起き上がることすら出来ず、ただ後続の馬達が私の横を駆け抜けていくのを待った。
美しい弧を描きながら、空の彼方へ飛んで行ってしまった東條は死んだだろうか。
地面に激突して死んだか、馬に踏まれて死んだか。倒れたまま酸欠でぼーっとする頭で相棒の安否を案じていると、
「バイン! 大丈夫かバイン!」
なんと、まだ生きていた東條が私に駆け寄って来た。
駆け寄って来た東條には足があった。良かった。幽霊ではないようだ。
東條の手がそっと私に触れる。温もりと、確かな手の重さを感じた。なるほど、ちゃんとまだ生きているようだ。
あんなに天高く空を飛んで、どうやら東條は死ななかったようである。
倒れたままろくに動けない私を見て、東條は泣きそうな顔で何度も私の名を呼んだ。
命を懸けて一緒に走ってくれた相棒の為に、せめて頭を持ち上げて私も無事だと伝えてやりたかったが、いかんせんそれをするだけの余力が今の私にはなかった。
仕方なく、東條の手に思いっきり鼻息を吹きかけてやる。
すまんな東條。本当はお前の胸に、私のおでこをグリグリして感謝を伝えてやりたいのだが、もうヘトヘトで今それをするのはちょっと無理なんだ。
だから鼻息だけで我慢してくれ。お前なら、私のこの鼻息に込めた気持ちだって、きっと察してくれるだろう。
急に鼻息を吹きかけられた東條は、驚いたように鼻息を掛けられた自分の手と私の顔を交互に見て、安心したように笑った。
うん、どうやら通じてくれたらしい。私はとりあえず死んでいないし、倒れはしたが多分怪我とかもしていない。
東條も見た限り怪我をしている様子はない。お互いに悪運が強いもので、どうやら私達は無傷で今日のレースを走り終えたようである。
私も東條も、全身汗と泥にまみれてグチャグチャに汚れた酷い有様だが、なんにせよ無事だ。
相棒の無事にほっと胸を撫でおろしていると、大きな黒い影が私と東條を覆った。雲が太陽を隠した訳ではない。何か大きな生き物が日差しをその巨体で遮ったのだ。
倒れたまま目だけを動かし、その影の主を確認すると、それは案の上テクノスホエールだった。
テクノスホエールはその大きな4本脚で地面に立ち、その背に天童を乗せていた。
その顔は太陽で逆光になって分からなかった。
いつかのように倒れた私を心配して駆け寄ってくれたのか、それともレースで勝利した私のことを睨んでいるのか、それすらもわからない。
だがレースの結果を、間違いなくテクノスホエールは理解しているはずだった。
自身が走り抜いたレースの勝敗を、彼女ほどの競争馬が違えるはずもない。
テクノスホエールに見つめられる私と東條は、泥まみれで汗まみれだ。
全身汚れ切った満身創痍の姿で地面に伏している。その姿を、負けたはずのテクノスホエールが見下ろしている。
彼女に勝ったはずの私が、彼女の前で弱弱しい姿を晒したままでいるのが嫌で、私は数度深呼吸して息を整えてから、気合を入れて首を持ち上げた。
さっきまで上がらなかった首が、テクノスホエールに見られていると思うと、上げることが出来た。
「……天童さん」
ずっと私に寄り添っていた東條が、たった今降した騎手の名を呟く。私は首を持ち上げたことで角度が変わり、天童の顔が見れた。
東條の呟きに天童が何か答えようと口を開きかけたその時、テクノスホエールの巨体が急に傾いた。
「……うおっ!?」
天童が驚いたようにうめき声を上げ、鞍から飛び降りる。
わずかなもたつきすらない、華麗で素早い飛び降りだった。
芸術点では宙を舞った東條には敵わないが、安全に馬から飛び降りるという点では、天童の飛び降りは実に見事なものだった。
急に姿勢を崩したテクノスホエールに、まさかこいつも私のように倒れるのかと私は驚いたが、彼女は倒れたりはしなかった。
天童が鞍から降りるのを確認すると、テクノスホエールはごろんと芝の上に寝転がり、かと思うとそのままスクっと『座った』。
尻を地面着け、後ろ足を前に投げ出し、前足も『前へならえ』をするように突き出し、まるでテディベアのような格好で、テクノスホエールは横たわる私の前に座った。
嘘だろ、なんだそれ。どうやった。今どうやって座った?
テクノスホエールのあまりに馬からかけ離れたその座り姿に私が茫然としていると、テクノスホエールはポン、と私の頭の上に自分の右前足を乗せた。
意図が分からなかった。なんだろう、この前足は。
言うまでもないが、前足を相手の頭の上に置くなんて感情表現は私達馬にはない。
人間なら子供を褒める時や元気づける時にそういうことをするだろうが、テクノスホエールは多分そういう意図で私の頭に前脚を置いたわけではない。
訳も分からず、戸惑ったまま彼女の顔を見つめてみれば、その顔はいつも通り穏やかな顔だった。
優しそうな表情の、いつもの綺麗なテクノスホエールだ。
ただその瞳の奥からは、高い所からこちらを見下ろすような傲慢な色が消えていた。
代わりに、その目の中には寂しさがあった。私の顔と姿を全部覚えておこうとするような必死さが、その目の中に見て取れた。
なるほど、彼女が私の頭に前脚を置いたのは、蹄で私に触れた感触を記憶したかったからなのだと分かって、なんて馬らしくない理由で行動する馬だろうかと、彼女のことがおかしくなった。
首を振り、頭に置かれた彼女の前脚を振り払う。彼女は抵抗もせず、前脚をどけてくれた。
ああ、と思う。私にも分かった。彼女の瞳を通し、分かった。多分、今日が最後なのだ。
私とテクノスホエールが会うのは、きっと今日が最後。私たちは今日この競馬場で別れたら、その先出会うことはもう二度とない。
私たちはこれから先、お互い死ぬまで再会することはない。
理屈のない勘だったが、それでもきっとそれは間違いのない予感なのだと分かった。
だから彼女は私と別れる前に、私のことをなるべくたくさん覚えておこうと、私の側へ来てくれたのだ。
だったら、私はこんな風に横たわってなんていられない。
彼女に見せる最後の姿。彼女に勝った馬が彼女に見せる最後の姿が、こんな地面にゴロ寝した姿だなんて、そんなのは私の沽券に関わる。
ふらつきながら、立ち上がる姿勢を取る。東條はそれを止めようとしたが、構わず力を振り絞って立ち上がる。
ああ、母のお腹から出てきた日に立ち上がった時のようだと思いながら、震える脚で私は立ち上がった。
立ち上がった瞬間、吸ったことがないほど清涼な空気が、肺一杯に流れ込んだ気がした。
私が立ち上がった瞬間、競馬場全体から安堵するような歓喜の喝采が上がった。
喝采を浴びる。私の無事と、私の勝利と、今日のレースの全てを称える喝采を、久しぶりに全身で浴びる。
おかしな座った姿勢のままのテクノスホエールが、立ち上がった私を見上げていた。
この時私は生まれて初めて、自分より大きなテクノスホエールを見下ろした。生まれて初めて、テクノスホエールに見上げられた。
テクノスホエールは、目を細めるようにしてしばし私を見上げた後、コテン、横に倒れて座った姿勢を崩すと、そこから勢いよく立ち上がった。
眼前に、突然巨大な壁が聳えた様に錯覚する。でもその壁は、大きくて美しいことを私は知っている。その女性は、強くて優しいことを私は知っている。
お互いに立ったまま、お互いにしばし見つめ合った後、私は彼女の首に自分の首を重ね、その身体を毛づくろいした。
彼女はただ大人しく、私のグルーミングを受けてくれた。そして、彼女もまた私を毛づくろいしてくる。
ほんの短い時間、私たちは抱擁し合うようにお互いの毛並みを整え合った。
「……満足したか?」
私たちの様子を黙って見守っていた天童が、グルーミングが一区切りついたタイミングでテクノスホエールに声を掛ける。
声を掛けられたテクノスホエールは、その声に頷くように私から離れていった。そして係員の誘導に従い、地下馬道へと去っていく。
別れの瞬間はあっさりとしたものだった。
1勝2敗。最後に勝って、私は彼女と別れる。
2勝1敗。勝ち越したまま、彼女は私の前から去っていく。
去っていく彼女の姿を、彼女に刻まれた2度の敗北を、彼女に勝った今日の日を、私は一生忘れない。
そして彼女もまた、私とのたった3度の邂逅を、きっとずっと覚えていてくれる。
テクノスホエールを見送る私の横で、天童が東條に手を差し出していた。東條は一瞬驚いた表情を見せてから、それを握り返し、握手を交わした。
掲示板を見上げる。東京競馬場の掲示板の一番上には、私が着けるゼッケンと同じ16の番号が、煌々と王冠のように輝いていたのだった。
強敵と認めた相手にだけレース後握手を求める天童騎手です。
続きは明日も昼12時に投稿です。
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