安田記念 ~死闘~
ゲートに入ると、ひりついた空気が私の肌を刺した。
暑さが馬達から余裕を奪い、高温多湿による不快指数の高さが、ゲートの中の馬と騎手達の精神を小さく苛み続けている。
パカパカと貧乏ゆすりをするように、二つ隣の14番ゲートからは蹄が地面を叩く音が聞こえ続けていた。
何と無し、その蹄の音の方に視線を向けると、14番の馬より先に、隣のテクノスホエールの顔が目に入る。
パドックの時も、返し馬の時も、そして今も、テクノスホエールに動揺した様子はない。
苛立ちも暑さによる消耗も感じさせず、彼女は平静そのものの態度でまだ閉じたゲートを見つめていた。
彼女に倣い、私は正面のゲートに向き直った。
そのタイミングで東條が私の首を押し、スタートの姿勢を取らせる。
パカパカという、14番ゲートからの蹄が鳴りやんだ。隣のゲートのテクノスホエールの頭が下がり、その顔が見えなくなった。
『行け!』
瞬間、東條からスタートの合図が飛んだ。ゲートはまだ開いていない。ゲートはまだ閉じたままにも関わらず、走り出せと言う騎手からの指示。
初めてのことではない。桜花賞の時と同じだ。東條を信じ、私は閉じたままの扉に向かって一歩踏み込む。同時、ゲートが開き、レースがスタートした。
会心のスタート。他の馬より一呼吸早い、ある意味フライング気味のスタート。
私の一歩目が誰より早くコースの芝を踏む。私だけが他の馬より一歩先んじる。
そう思った矢先、私の真横に大きな黒い影現れた。私に張り付くように、私の左側の視界を塗りつぶすように、高く黒い壁が私の真横に聳え立つ。
テクノスホエールだった。16番の私の隣、15番の枠から出走した彼女もまた、私と同じくフライング気味の『会心のスタート』を決めていた。
隣だ。真横。スタート直後から隣に彼女がいる。テクノスホエールの巨体が私の身体の左側面に張り付いている。
前走の時と同じく、真横を走るテクノスホエールから発せられる圧は強烈だった。
パドックを歩いている時はそんなもの微塵も感じないのに、レース中の彼女に近寄られると、迫力で押し潰されそうになる。
自分より大きな生き物に立ち向かわなければならないという重圧で、身体が竦みそうになる。
だが、知っている。これはもう前回体験した。テクノスホエールのいるレースで逃げるということは、この圧力の中でゴールまで戦い続けるということだ。
立ち向かうつもりで前へ踏み込む。進む方向は彼女のいる横ではなく前だ。
私は今日、この最初の直線で必ずハナを獲り、そのままゴールまでハナを譲らずに勝利する。最初から最後まで先頭を走り勝利する。
テクノスホエールに、完全勝利をしてみせる。
湿り気のある芝が私の蹄を吸い込み、その芝を後ろへ蹴散らすようにして前へ出た。
問題ない。芝は湿ってはいるが濡れてはいない。これなら滑って転倒する心配はない。ただひたすら前へ走ることだけを考えればいい。
1歩、2歩、3歩。テクノスホエールの真横に張り付くようにしながら、スタートからひたすら直進する。
横並びだ。私とホエールは今全くの横並びで走っている。速い。相も変わらずテクノスホエールは速い。前走と比べてもどこにも衰えなど見当たらない。
テクノスホエールは力強く稍重の芝を蹴り上げ、豪快なスピードで後続を突き放し、その無尽蔵のスタミナは消耗する素振りすら見せてくれない。
だが私は知っている。この馬にとってはそれが普通だと言うことを。この速度に、パワーに、スタミナに、ついていけないような弱者は、そもそも彼女に挑む資格すら得られないということを。
そして、私は前走でそれについていけた。勝てこそしなかったがついてはいけた。なら恐れることなど何もない。今日の私に戸惑いはない。
私が知っている通りの、最強の馬に自分の全てを出し尽くして挑むだけだ。
真横を走るテクノスホエールの顔を、今日初めて睨んだ。睨まれたことに気づいたのか、テクノスホエールが視線を返してくる。
その目は嬉しそうだった。どうやら彼女は私のことを覚えてくれているらしい。私と一緒に今日また走れることを、テクノスホエールは喜んでいるようだった。
その喜びが、最後には自分が勝つという絶対の自信を下地にした、傲慢な強者の笑みであることは、きっと私の勘違いではない。
その視線を振り切ってやろうと、一層強く地面を蹴る。すると、テクノスホエールは私から離れ、コースの内へと寄って行った。
スタートからずっと真横に張り付いていた圧力が、私の側から離れていく。
私の鞍上の東條からは、まだ内に寄るような指示はない。
東京競馬場の直線は長い。内に寄ってポジションを獲るのはもっと後でも問題ない。私は直進を継続する。内に向かって斜めに進むテクノスホエールと、ひたすら真っすぐ進む私。
自ずと私の方が速く前に進み、テクノスホエールが内に寄り終える頃には、4分の1馬身ほど私の方が前に出ていた。
私が先頭に立った。ハナを獲った。
そこでようやく東條から内へ寄るよう指示が出る。先頭をテクノスホエールに取り返されぬよう速度を上げながら、コースの内へと寄っていく。
テクノスホエールの隣の位置まで寄り切った。一瞬クビ差まで差を詰められたが、すぐにその差を4分の1馬身差に戻す。現在スタートから400mを通過。3番手以下との差は4~5馬身ほど。もうじき最初の直線が終わる。
問題ない。ここまでは万事作戦通り。私は予定通りハナを獲り、レースの先頭を走っている。
テクノスホエールのペースでも、その騎手の天童のコントロールでもなく、私のスピードでレースは進んでいる。
そう思った瞬間、私の脳内に今日初めてテクノスホエールではなく、天童善児という男の存在が過ぎった瞬間、視線に気づいた。
おそらくは、スタート直後からずっと私に向けられていた、静かな視線に気づいた。
確認するまでもなくもう分かる。視線の発生源はテクノスホエールの背中の上、騎手の天童だった。
私の四分の一馬身後ろを走るテクノスホエール、その背に乗った天童は、後ろからじっと私を見つめていた。
今日の私がどこまで走れるのかを、正確に見抜こうとするその視線。私の全身を、状態を、余さず観察しようとするその眼光。
どこまで走れるかと問われれば、死ぬまで走るし死んでも勝つと、そう天童を睨み返してやる。
不躾な視線を送って来た奴に挑発を返したつもりだった。しかし、私の睨みが天童にはどう伝わったのだろうか。
天童の目が、据わった。
目尻を吊り上げて怒るのではなく、馬鹿にして笑うのでもなく、警戒して視線が鋭くなった訳でもない。
スッと、目蓋から力を抜くように、その目が据わった。そしてゴーグルの奥でその瞳がギラリと光り、その光が私を射抜いた次の瞬間。
「「ハァッ!」」
天童と東條が、ほぼ同時に気勢を発した。
東條と天童は手綱を短く持ち替え、私達に加速を促す。二人の騎手が馬を追い、更なるスピードを要求してくる。
考えるより先に身体が反応し、私は加速した。隣のテクノスホエールも当然のように加速する。
知らない。この加速、こんな序盤でのこんな加速は前走ではなかった。
天童、天童だ。天童が仕掛けて来た。こんな序盤で仕掛けて来た。それに東條が反応し、私が遅れるのを防いでくれた。
テクノスホエールが加速する。私も負けじと加速する。
怖い。このスピードは怖い。完走を考えるなら、絶対にこんなレース前半で出していい速度ではない。
だが、そんなイカレた速度でテクノスホエールが走る以上、私もそれに付き合わない訳にはいかない。
先頭は譲らない。私はテクノスホエールを後ろへ突き放すことはあっても、前を譲ることだけは絶対にしてはならない。
テクノスホエールについていく為に走るんじゃない。テクノスホエールに私の後ろを走らせる為に走り続ける。
ハイペースを維持したまま、ようやく最初の直線が終わった。第3コーナーに差しかかる。
そこで突然、テクノスホエールの速度が上がった。
違う! と、私はハミを噛みしめ速度を上げた。
テクノスホエールが加速したのではない。コーナーだからだ。私とテクノスホエールの差は横に並んでの四分の一馬身差。
そして枠番16番の私より15番のテクノスホエールは、私よりコースの内側を走っている。
だからその分、コーナーではテクノスホエールが有利になる。コースの内を走るホエールは、外を走る私より短い距離を走るだけでコーナーを曲がり切れる。
テクノスホエールから先頭を守る為には、コースの外を走る分だけ私は余計に加速する必要がある。
当たり前すぎる己の不利を悟り、半ばやけくそで加速する。それでも外側を走る不利を埋め切れず、4分の1馬身差がクビ差まで迫られる。
苦しい。この内外のハンデは苦しい。向こうは速度を維持するだけでいいのに、こちらはスピードを上げなければ先頭を守れない。私だけがテクノスホエールよりも余計に体力を削られるのに、それでも差は縮められてしまう。
消耗戦だった。これは間違いなく消耗戦だ。私は今、敵に消耗戦を仕掛けられている。
私の体力を削り切り、ゴールより前に私を潰してしまおうと天童は企んでいる。
私が仕掛けるはずだった消耗戦を、逆に私が仕掛けられている。そして今、敵はただ普通にコーナーを曲がるだけで、私のスタミナと脚を一方的に削ることが出来る。
第3コーナーを曲がり切る。レースの折り返しを過ぎ、残り800mを切った。レースの半分を走り終えた。まだ、半分残っている。
これだけのペースで、これだけ走って、まだもう半分残っている。
挫けるな、ゴールの遠さを考えるなと、自分で自分を鼓舞する。まだ全然だ。まだ私は自分の全てを出し尽くしていない。
ゴールが遠いならば喜ぼう。自分の全てを出し切るならば、そちらの方が都合がいい。
この苦しみの先にしか勝利がないのなら、どこまでも苦しみながら走り抜く以外、私の進む道はない。
第4コーナーに差しかかる。クソったれ、またコーナーだ。テクノスホエールとの差が更に縮められる。
もっとだ、もっと加速しろ。テクノスホエールは、ヴィクトリアマイルで私より外枠から出走して勝利した。枠番の抽選は負けていい理由になどならない。
ホエールの接近に食らいつく。走る場所のせいで負けるなどゴメンだ。脚を前へ、首を低く、肺が潰れそうなのを無視して前へ。
まだ、抜かされていない。クビ差がアタマ差に縮められた。だがまだ私が先頭だ。まだ、私の方が頭一個分、テクノスホエールより前だ。
頭一個分、前に出たまま、どうにか第4コーナーを曲がり終える。最終直線に飛び出す。
残り525m。東京の長い長い最終直線。その先にゴールが、ゴール、ゴールが、目が霞んで、見えない。
息が、苦しい。が、脚は止められない。
心臓は動いている。脚は動いている。息も止まっていない。ならまだ走れる。まだ私は出し尽くしていない。
コーナーで加速していた分、直線に出た途端私の身体は前に飛び出した。テクノスホエールとの差が開く。
アタマ差まで縮められた差が、クビ差に戻り、4分の1馬身差まで広がる。
元に戻った。地獄のコーナーを走り切り、コーナーに入る前の状態に戻した。いける。このままいける。このままこの速度でテクノスホエールとの差を更に広げる。
テクノスホエールのスピードには合わせない。コーナーで無理して加速した分だけ、今は私の走る速度の方が速い。ならこの速度は維持だ。
前走のように、テクノスホエールに合わせて脚を緩め、出し切らずに負けるような失敗は繰り返さない。
このスピードで走り抜ければ、私の身体が、肺が、心臓が、ゴールまで止まりさえしなければ、私は今先頭で、テクノスホエールは後ろにいるのだから、私が勝つ。
私が勝つ。私が勝つ。私が勝つ。
開け、もっと差よ開け。コーナーで詰められた差は戻した。ならもっとここで差を開かせたい。
勝つ為には、きっと4分の1馬身では足りない。テクノスホエールが、私の憧れた相手が、この程度で終わるはずがない。
もっとこの馬を引き離さなければ、私はこの馬にきっとまた届かない。届かないのに、開かない。
差が、差が開かない。私の速度が落ちたのか、私に合わせてテクノスホエールがスピードを上げたのか、直線に入って4分の1馬身まで広がった差が、しかしそこから広がらない。
ぴたりと私の横に張り付くように、巨大な影が私の横から離れてくれない。対応されている。私の全速力がテクノスホエールに対応されている。私の方が追い詰められている。
苦しい。息が苦しい。心臓が苦しい。視界がさっきから点滅している。潰される。私の方が潰される。スタミナの消費が明らかにヴィクトリアマイルの時よりも大きい。
考えるな。ゴールなどもう考えるな。走り切ることなど考えるな。ただ自分の中にあるものを、残らず使い尽くすことだけを考えて進め。
千切れそうな脚の回転数を上げる。ろくに膨らまなくなった肺に空気を無理矢理送り込む。気管を傷つけながら息を吐く。
首は上げない。死んでも上げない。速く走る為の姿勢を、勝つ為の姿勢は崩さない。
残り400mを切った。坂、坂だ。東京競馬場の最後の坂に差しかかる。
ああ、まだこの坂が残っていたのだと気付いた瞬間、自分の脚がガクンと重くなるのを感じた。
ま、ずい。ここでこの坂はまずい。ヴィクトリアマイルの時もこの坂はきつかった。
普段ならなんてことない、高低差たった2mのなだらかな坂。だが、この消耗戦の真っただ中では、そのわずかな傾斜が私の脚と心を折りに来る。
もはや自分が速度を上げているのか、維持しているのか、それとも落としてしまっているのか、それすら分からなくなりながら走り続ける。
止まるな、止まるな、走れ、走れ、走れ。テクノスホエールの蹄の音はまだ私の横にある。テクノスホエールはまだ速度を緩めず私についてきている。
だから走り続ける以外の選択肢はない。選択肢はない、のに、重い。
脚が、自分の脚が重い。背中が重い。背中に乗る東條の存在までもが、その体重が鉛のように重く感じる。
初めて東條を背に乗せ走った時、その軽さに驚いた。馬に重さを感じさせない、軽いとすら思わせる東條の騎乗技術に、私は感動すら覚えた。
だが今は、それすらも重い。今も東條は少しでも私の負担が軽くなるよう、必死に騎乗してくれている。私をゴールまで運ぼうと、懸命に私と共に戦ってくれている。
だが、そんな東條の存在までもが、今は重い。それほどに私に余裕がない。騎手が、馬具が、自分の身体が、自分の全てを支える脚が、その全てが重い。
重くて重くて、もう走れない。もう動けない。動けない、けれど、まだ心臓は動いているから、止まる訳にはいかない。今日出し切ると決めたから、心臓より先に、走りを止めてはいけない。
坂、坂を登り切る。ようやく登り切る。
差は、テクノスホエールとの差は、縮められた。クビ差、クビ差だ。クビ差だけ私が前。でももうほとんど真横に、テクノスホエールがいる。
このままでは抜かされてしまうから、もっと速く走らなければいけないのに、脚も、身体も、何もかも重たくて、身体が上手く動かない。
坂が終わって、残り200m。平らな地面があるだけなのに、もう坂ではないのに、身体が、脚が、ずっと重い。
首、首が上がる。姿勢が崩れる。もう走れない。もう走れなくなる。息が、息が吸えない。
嗚呼と、せめて隣のテクノスホエールが私と同じように限界であってくれと、いつものような余裕の顔ではなくなっていてくれと、そう願って横を見た。
横を、見てしまった。
テクノスホエールは、テクノスホエールの顔は、余裕の欠片もない必死の形相だった。
彼女は汗をまき散らし、息も絶え絶えになりながら、それでもなお全力で走っていた。ゴールを睨むその目は血走っていた。
美しく優しい馬など、そこにはいなかった。
私の知る最強の馬が、私が憧れた理想の馬が、美も余裕も全てをかなぐり捨てて、ただ勝つ為に己の全てを振り絞り全力で駆けていた。
勝利は誰にも譲らないと、ここは自分の縄張りだと、自分の玉座は自分だけのものだと、己の存在全てを賭して、彼女は戦っていた。
その姿の、なんて美しい。私が今まで出会ったどんな馬よりも、美しい馬がそこにいた。
「―――チッ!」
その時、風の音に紛れて、天童の舌打ちが聞こえた。
知っている。その舌打ちを私は知っている。その舌打ちの後にお前が何をするか私は知っている。
それをさせない為に私はこんなに頑張ったのに、まだそれが出来るなんて話が違う。
ヒュン、という、天童が天高く鞭を振り上げる音が、風鳴りを割いて私の耳に確かに届いた。
よせ、やめろ。やめてくれ。もう、私は限界なんだ。これ以上出せるものなんてないんだ。
ここでそれをやられたら、私はもう彼女に勝てない。ここで追い抜かれたら、もう彼女を抜き返す力なんて私にはない。
だが無情にも、天童の鞭の音が風鳴りに消える。風を劈き、鞭に応え、テクノスホエールが大地を踏みしめる。
波に乗る様に加速して、海を割る様にテクノスホエールは前へ飛び出した。
わずかに残っていたクビ差を一瞬で埋め、そのまま逆にクビ差を付けて私の前へ。
巨鯨が海面から飛び出すように、彼女は先頭へと躍り出た。今日のレースで初めて、残り200mを切って、テクノスホエールが先頭を獲った。
私はついに、ハナを譲ってしまった。逃げて差す、彼女だけが出来るという驚異の走り。
ヴィクトリアマイルと安田記念、2戦分の疲労をもってしても、私は彼女からその走りを奪うことが出来なかった。
疲弊して尚、彼女は絶対的な最強の女王だった。
だからなんだ。それがどうした。
それは彼女の強さの理由であって、私が諦めていい理由にはならないだろうが。
ハミを噛む。地面を蹴る。首を低く、東條の手綱と拳に合わせて前へ、前へ。
彼女を見た。彼女の走りを見た。彼女の全力を見た。彼女だって限界だった。それでも彼女は加速した。ならば私もそれに倣え。彼女に勝とうという私が、彼女より先に諦めてどうする。
『…………バイン』
視界がどんどん狭まる。酸欠で点滅していた景色がいよいよ白く塗りつぶされていく。
走っても走っても彼女には追いつけない。走っても走っても彼女のことは追い抜けない。
右目の視界は、もう真っ白になって何も見えなかった。でも左目に黒い影が見える。あの影がきっとテクノスホエールだ。
私が追う私の目標だ。彼女より前に出たい。彼女に勝ちたい。その為に私は全てを賭けなければならない。
私では、私の全てを出し尽くさなければ彼女の横に並べない。
『……バイン』
息が出来ない。もう、吸うことも吐くことも出来ない。関係ないと脚を動かす。もう脚の止め方が分からない。それでいい。死んでも脚が動き続ければ、死んだ後でもこの脚が彼女を追い抜くことが出来たなら、それはもう私の勝ちだ。
もう見えない。ゴールが見えない。彼女が見えない。でもきっと、彼女はまだ走っている。彼女はきっとまだ美しいまま、ゴールを目指し走っている。
なら、私も勝たなくちゃいけない。負けたくないからじゃない。勝ちたいから。彼女にただただ勝ちたいから、私の脚は止まらない。
『バイン!』
「受け取ってくれええええええええええええ!!!!!!!!!」
東條の咆哮が、私の耳を劈いた。
同時、天高く振り上げられた東條の鞭が、私の身体を強打する。
その鞭の衝撃に共に、私の中に何かが注がれるのを感じた。
モヤに覆われていた視界が晴れる。脚に込める力が増す。私の鼻先が、テクノスホエールの鼻先に並ぶ。
東條の鞭に打たれた私は、弾むボールのような勢いで、テクノスホエールの真隣りに飛び出した。
自分に何が起きたのか分からなかった。何が起こったのかは分からなかったが、それでも、何が起きているのかだけは明白だった。
テクノスホエールが私を見た。私もテクノスホエールを見た。視線が交差し、ゴールまではもう、50mもない。
天童の顔が歪むのが見えた。歯を食いしばりながら、天童が再び天高く鞭を振り上げる。
私の背で東條が、全く同時に鞭を振り上げていた。
彼女の瞳に宿る炎と、その瞳に映った私の炎が重なった。
私の瞳に宿る炎と、私の瞳に映った彼女の炎が重なった。
私とテクノスホエールが、同時にハミを強く噛み直す。加速に備え、息継ぎをするように首を同時に上げる。私達が首を下げるのに合わせ、二人の騎手は同時に鞭を振り下ろした。
私、私は、ただガムシャラに地面を蹴った。足を前に伸ばした。頭を前に突き出した。もう私に、これ以上加速する力など残っていなかった。
けれど、軽さがあった。軽さどころか、重さがなかった。背中に東條の体重を感じない。まるで東條が私の体の中に入ってしまったように、その重さだけを感じない。
だから、重さがなくなった分、私の脚は前に出た。注がれた力が、私を前に押し出した。
テクノスホエールは、テクノスホエールは鞭に打たれ、しかし伸びなかった。彼女の脚に、もうそんな力は残っていなかった。
けれどそれでも尚、彼女はゴールに向かって最後の瞬間まで走り続けた。一切の緩みなく、最後まで彼女らしく走り抜いた。
最後の最後の最後まで、己の全てを振り絞ることをやめず、戦うことをやめず、勝利に向かうことをやめなかった。
その彼女の身体を、私の身体が追い抜いていく。1ミリずつ、1cmずつ、重い扉をこじ開ける様にして、少しずつ少しずつ私の鼻先が、彼女の鼻先の更に先へと進んでいく。
ゆっくり進み続けた私の鼻先が、ほんの数cmだけ彼女より先にゴール板を越えるのを、私は確かに見届けた。
ああ、嗚呼、嗚呼々々、勝った。勝ったぞ。
彼女の、テクノスホエールの顔を見る。彼女の顔を見ようとした。貴女の顔が見たかった。
しかし、そこで世界は暗転し、ゴールと同時、私は力尽きて、ぶっ倒れたのだった。
ハナ差で1着!
続きは明日の昼12時更新です。
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