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GⅠ安田記念出走前 ~決戦の最終ラウンド~


 6月第1日曜日。東京競馬場第11レース、安田記念当日。


 郷田は安田記念のパドックを回る出走馬達の中で、自身が管理するバインには目もくれず、一心にテクノスホエールを見つめていた。


 今日のバインのコンディションを、調教師である郷田は寸分の狂いもなく把握している。

 わざわざパドックの様子を確認するまでもなく、バインが郷田の理想ほぼそのままの状態で仕上がっていることを、郷田は誰よりも理解していた。


 故に郷田が今注目しているのは、テクノスホエールただ一頭だった。

 ゼッケン15番。大外枠を引いた1番人気、テクノスホエールは一見するといつもと変わらぬ様子で、悠然とパドックを歩いている。


 イレ込んでいる様子も、疲労している様子もない。その姿はいつも通り堂々としており、その美しい漆黒の毛並みは、今日も太陽を強く照り返していた。


 発表されたテクノスホエールの馬体重は、前走マイナス4キロ。ヴィクトリアマイルの時より体重は減っている。その馬体に、郷田は腕組みをしたままじっと目を凝らした。


 マイルCSやヴィクトリアマイルにおいて、テクノスホエールはほとんど完璧な仕上がりだった。それと比べ、今日のテクノスホエールの仕上がりはどうか。


 まず、尻に筋肉が付き過ぎているように見えた。つまりは、体全体の肉付きのバランスが崩れている。丁寧で十分な身体作りが出来ていない証拠だった。

 加えて、前走よりも明らかに脂肪量が増えている。前走より体重が減っているにも関わらず、前走よりも太ってしまっている。


 おそらくは、レース後中々体重が戻らないことに焦り、調教師が筋肉ではなく体重を増やす為だけのエサを与えたのだ。


 それは馬を強くする為ではなく、痩せた馬の見栄えを良くするための食事。勝つ為に筋肉を付けるのではなく、肉体の消耗を脂肪で誤魔化す為の調整。


 脂肪を付けること自体は馬の健康の為にも無意味ではない。しかし、それは勝負に徹する調整ではない。


 日和ったなと、郷田は高橋調教師の心情を分析した。


 GⅠ10勝という、前人未到の大記録に挑む最中であるテクノスホエール。その動向は今や日本中の競馬関係者が注目するものとなり、その期待はテクノスホエールが勝てば勝つほど大きくなっていっている。


 現時点でGⅠ7勝。実力は文句なしでナンバー1と言われている馬だ。しかしそんな馬の調整を失敗し、調教師のヘマによってGⅠ10勝の大記録が夢と消えればどうなるか。


 世間の手の平は簡単にひっくり返る。テクノスホエールという名馬を育てた名声は地に落ち、歴史的偉業を失敗させた戦犯として、高橋調教師の名は槍玉に上げられることになるだろう。


 そのプレッシャーが、おそらく高橋調教師を狂わせた。勝つ為の調整ではなく、馬の見栄えを良くするための調整をさせた。

 がりがりに痩せた馬を出走させて、馬を管理する調教師のせいで負けたと言われることを恐れた。


 郷田は高橋が立たされている境遇に同情しつつも、内心の笑みを抑えることが出来なかった。


 体重が戻らなかったとしても、あばらが浮き出ていても、どれだけ見栄えが悪くても、それら見た目が勝ち負けに直結することはない。


 勝負に徹し、勝つ為の筋肉を1グラムでも多くテクノスホエールの身体に戻す。万全は無理でも、焦らず丁寧に出来る限りの調整をして、馬を少しでもベストコンディションに近付ける。そういう調整をされたほうが、郷田にとって怖かった。


 だが、それはされなかった。周囲からのプレッシャーに負けて、高橋調教師は勝つ為ではなく、負けた時に責任が自分に降りかからない為の調整を馬に施した。


 勝ち目が出てきたと、郷田は気合を入れるように組んだ右手で拳を作った。


 テクノスホエールは強い。その背に乗る天童善児もまた強い。多少調整に失敗したとはいえ、テクノスホエール達は依然として強い。

 あの馬は父馬に似て、底知れない力を秘めている馬だ。そして調教師に過ちがあったとしても、鞍上の天童は騎乗でそれをカバー出来るだけの技術を持っている。


 敵は強く、油断など出来るはずもない。もとより限りなく0に近い勝算しか望めぬ相手。


 しかしそれでも郷田の目論見通り、万全でない状態でこのレース場に出て来た以上は、バインにも勝ち目が見えて来たことに変わりはない。


 ほとんど0だった勝ち目が、ほんのわずか数%に増したただけの変化。しかしそれは確かに変化であり、そして競馬に絶対はない。


 わずかでも可能性が残されているならば、ゲートが開いた後何が起こるか分からないのもまた競馬だ。


 郷田はテクノスホエールの隣を歩く馬に視線を向けた。

 大外16番。前走からマイナス2キロ。最も外側の枠番から発走することとなった、自身が管理するバインのことを見つめた。


 奇跡を起こすなら、今日しかない。テクノスホエールという怪物に勝つならば、今日がバインにとって最後のチャンスになる。


 ただじっと、祈る様に、願うように、郷田はパドックが終わるまでの残りの時間、ずっとバインを見つめ続けたのだった。






 

 ヴィクトリアマイルでの負けから3週間、安田記念当日。

 郷田先生に言われた、私とテクノスホエールとの戦いの最終ラウンドに当たる決戦の日。


 私は、何だか自分が落ちついているのか緊張しているのかよく分からない、徹夜明けじみたふわふわしたテンションで今日の日を迎えていた。


 主に厩務員の小野のせいである。今日の日に向けて、肉体と共に追い込み研ぎ澄ませていた私の精神。


 それがレース本番間近に、小野にうっとおしい絡まれ方をされたせいで、なんというか毒気を抜かれてしまった。


 小野に心を膝カックンされたような気分なのだ。心の膝をカックンされて、がちがちに固めていた私の心が、へにゃっとなってしまった。


 それが良いことなのか悪いことなのかはよく分からない。ただ、今朝は久しぶりにご飯に味を感じ、おいしいと思った。厩舎を出る時は妹から『ガンバッテ』と珍しく声を掛けられた。


 その時、何だかとても久しぶりに妹の顔を見た気がした。

 いつも隣の房にいる妹が目に入らないほど、最近の自分の視野は狭くなっていたのだと、その時初めて気付いた。


 まあ、それを小野の奴のお陰とは思わないが。あの空気の読めない駄目な小僧は、私の気持ちなんて何も考えず、好き放題にくっちゃべっていただけに決まっている。


 今の私は、すでにパドックを終えて馬場に入場し、背中に東條を乗せている状態だ。

 レース前の準備運動を軽めに終わらせた私達は、まだ返し馬の最中である出走馬達を見守りながら、ゲートインの時間を待っている。


 今日は夏のように暑く、日差しも強かった。人間達の会話を盗み聞きしたところ、今日の気温は33度。午前中に降った雨の影響で湿度も高く、パドックでも多くの馬達が大量に発汗していた。


 自分の足元の芝をぐっと踏みしめてみる。草が水分を含み、いつもより柔らかくなっている気がした。馬場は稍重。

 芝が柔らかい分足を取られ、スピードが出にくくなり、前へ進むのにパワーが必要になる状態だった。


 マイルCSとヴィクトリアマイルは良馬場だったなと思い出しつつ、今日の標的であるテクノスホエールに私は視線を向けた。


 テクノスホエールはほとんど返し馬の準備運動をせず、私と同じように他の馬の準備が整うのを待っていた。

 ホエールはまるで何も考えていないかのように、ぼーっと空を見上げ、流れる雲を見つめている。


 見ているこっちの気が抜けるような、なんとものん気な姿である。

 あんなのんびりした馬が、私を2度も倒しているあのテクノスホエールだなんて、にわかには信じ難い話だ。


 だがマイルCSでも、ヴィクトリアマイルでも、思い返してみれば彼女は空を見上げていたように思う。あるいは雲を眺めるというのが、彼女なりのルーティーンであるのかもしれない。


 レースを目前に控えたテクノスホエールの様子は、私の目には過去2戦の時とそう大きな変化はなく、調子も良さそうに見えた。


 少しだけ、ほんの少しだけ前走よりも体が小さく丸くなったように見える気もする。

 ただ、それが本当に彼女の肉体に変化があったからなのか、あるいは彼女に弱っていて欲しいという私の願望が見せている錯覚なのか、私には判別がつかなかった。


 悔しいことに一つだけ確かなことは、テクノスホエールはやっぱり今日も美しいということだ。

 暑さのせいでその全身は汗で湿り、ゼッケンの下からは乾いた汗が塩となって垂れてきている。黒い馬体がそこだけ塩で白く汚れてしまって見える。


 だが、それで彼女の美しさが損なわれるということはない。汗に濡れた彼女には妖艶さが加わり、視線が吸い寄せられるようなその美しさはむしろ際立って見えた。


 身体についた塩の汚れも、きっと走り出せば汗で流され、その欠けのない漆黒がレースの中で完璧を取り戻すことは想像に容易い。


 彼女はやはり、美しい姿のまま今日も現れた。


 問題はその肉体の内側に、前走の疲れがどれだけ残っているか。それ次第で今日のレースの結果は変わる。変わると信じて、私は3週間ずっと今日の日を待ち続けて来た。


 私の中に疲労はない。私の思い込みでなければ、私の肉体はヴィクトリアマイルを走った時とほぼ同じに戻っている。

 負けてから今日まで食べまくり、飲みまくり、走って休んで筋肉を戻し、備えてきた。


 考えてみれば、はなはだ私にだけ有利な話ではある。


 テクノスホエールは、きっとたった3週間でまた私と走ることになるなんて思っていなかったはずだ。馬である彼女は、自分のレーススケジュールなど知る由もなかった。


 だから彼女は準備をしていないはずだ。今日の戦いに向けての準備が不十分なまま、突然今日のレース本番を迎えたはずなのだ。


 私だけが有利な条件で彼女に挑むことが出来る。そして、こんな好条件下で彼女に挑むチャンスは、おそらく今後二度と巡ってくることはない。


 空を見上げた。彼女に倣って。


 空は、午前中雨を降らせた雲の残りなのか、分厚い千切れ雲が太陽の周りを漂っている。青い空と白い日差しの隙間を、黒い千切れ雲が流れていく。


 久しぶりに、青い空を見た気がした。故郷の日高の空を思い出した。


 死のうと、私は思った。今日死のう。


 ヴィクトリアマイルでは死んでも勝つと覚悟して走ったのに、結局生き残ってしまった。全てを出し尽くす前にレースが終わってしまった。


 だから、今日こそは。


 この千載一遇の好機に。この、彼女と私の間にある差が一番小さくなっているはずの今日に。私の憧れに最も近づけるはずの今日のレースに。


 今度こそ私の全てを出し尽くして勝とう。それが出来ない時は、出し切って死のう。


 ゲートインが始まる。奇数ナンバー、ゼッケン15のテクノスホエールが、私より先にゲートインしていく。

 テクノスホエールがいるのに、今日は珍しく牡馬達が大人しくゲートインしていった。


 16頭立ての16番ゼッケンを着けた私が、最後にゲートへ誘導される。


 私はゲートを進む足を途中で止めて、ぐるりと競馬場を見回した。


 観客席を見て、馬主席を見て、テレビカメラがあるであろう方向を見て、最後にもう一度空を見上げた。


 東條が、何も言わずに私の首を撫でた。


 歩き出し、決戦の最終ラウンド、安田記念のスタートゲートへ、私は入ったのだった。


次話にてレース開始です。次は明日昼12時投稿です。



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