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新馬戦当日 ~戦いの始まり~


 ある土曜日の昼下がり。巴牧場の牧場長である巴友蔵は、牧場の事務所に置かれたテレビの前で東京競馬場で行われる2歳新馬戦の開始を待っていた。


 東京競馬場第5R芝1400m。そのレースに出走する18頭の2歳馬の中に、巴牧場の生産馬であるバインがいるのである。


「うちのダイ子は3番人気か。やっぱり馬主が芸能人でも、一番人気ってのは簡単に取れるもんじゃないんだな」


 テレビに映し出された新馬戦のオッズを手に持ったリモコンで指さしながら、友蔵はソファの隣に座る妻の友恵に話しかけた。


「そうねぇ。でも3番人気でも立派じゃないかしら。ダイ子ちゃんって、新馬戦で人気になる様な馬ではない気がするし」


 お茶をすすりながら友恵が答える。

 新馬戦に限った話でないが、両親の産駒の成績が馬券を買う際の判断材料として注目されることは多い。


 そしてダイ子ことバインは、決して良血馬と呼ばれるようなエリートの血統ではない。


「そうだな。ダイ子の父馬の産駒は重賞未勝利だものな」


 とぼけたことを言う夫に対し、それは母親のトモエロードだって同じでしょうと、友恵は心の中でツッコんだ。


 巴牧場生産馬で唯一のG1馬であり、夫が家宝のように大事にしているトモエロードではあるが、繁殖馬としての成績はあまり優秀ではない。


 トモエロードはバインより前に7頭の馬を産んでいるが、その中で重賞を勝った馬は1頭もいない。


 それどころかオープンでの勝利もなく、地方で活躍しているような馬もいない。


 未勝利のまま引退したり、デビュー直後に怪我で競争能力を失ったり、気性難が原因でデビューすら出来なかったりと、その成績は散々である。


 では父馬の方はどうかというと、やはりその産駒の成績は振るわない。


 父馬自体は競走馬時代マイル戦で活躍し、G1の勝鞍もある馬だったが、その子供たちの方は重賞どころかオープンすら勝てていない状態だ。


 その種付け料も年々下がり、ついには小規模牧場の巴牧場でも手が出せるレベルにまで落ちぶれていた。


 そんな繁殖馬として残念な成績の両親の間に生まれた馬が、今日は新馬戦で3番人気に押されている。


 馬主の知名度がなければ、中々難しいことだった。


「でも勝って欲しいわよね、ダイ子ちゃん。待望の女の子ですもの」


 友恵が呟くと、友蔵は神妙な面持ちで頷いた。


 バインバインボインは、トモエロード産駒初の牝馬だった。

 なんと、トモエロードがこれまで産んだ7頭は、偶然にも全て牡だったのである。


 そして、雄馬が繁殖馬になる条件はとても厳しい。

 トモエロード産駒で繁殖馬入りした馬は、まだ1頭もいない。


 このままではトモエロードの血が一代限りで途切れてしまう。それは友蔵が常々口にしている不安だった。


 巴牧場の宝であるトモエロードの血を何とかして次代に残したい。それは最早友蔵の中でやらねばならぬ使命となっていた。


「ダイ子は引退したら肌馬としてうちに帰ってくることになってる。売る時にそういう契約を大泉と結んだからな」


 そう、バイン自身は知らぬことだが、トモエロードの血を残すため、バインは引退後巴牧場で繁殖馬になることがもう決まっているのだった。


 なので実は、例え未勝利馬のまま引退することになったとしても、バインは殺処分されたりはしない。

 故郷の巴牧場で平和に暮らす将来が、実はすでに約束されている。


 もしバインが知ったなら、そういう大事なことはもっと早く教えろとブチギレること確実な話だが、まさかバインが人語を解すると知らない二人は、馬であるバインにそんな話を聞かせていないのである。


「だから、ダイ子にはなるべくたくさん勝ってもらわないといかん。将来ダイ子が産む仔馬達の売値にも関わってくるからな」


 極めて即物的、かつ俗な理由で、友蔵は自分が走るわけでもないのに緊張してテレビを視ていた。


 やがてパドックが映し出され、新馬達が観客にお披露目されていく。


 祈るように手を組んでその様子を見守る友蔵は、きっと世界で一番真剣にこの新馬戦を視聴している人間だろう。


「よーしよし。ダイ子のやつ、落ち着いてるじゃないか。毛並みも一番綺麗だ。今日のレースの馬の中じゃ、ダイ子が一番美人だぞ」


 取り留めないことを呟く夫の様子に呆れつつ、いつの間にか空になっていた夫の湯呑みに、友恵はお茶を注いでやったのだった。



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 6月第2土曜日の正午過ぎ。


 ついにこの日が来たかと、私は鼻息を荒くしていた。


 私は今、東京競馬場のパドックをスタッフの人に引かれながら歩いている。

 そう、私は生まれて初めて、競馬場と呼ばれる場所を歩いているのだ。


 何故、こんな場所に私がいるか?


 理由は明白。今日これからこの場所で、私のデビュー戦が始まるからだ。


 東京競馬場 第5レース 2歳新馬戦 左回り 芝 1400m。


 ちなみに私がこのレースに出走することになった理由は、私の馬主である大泉笑平のせいであるらしい。


 初めて買った馬のデビュー戦をどうしても生で観戦したい、という馬主のワガママによって、大泉笑平の自宅に一番近い東京競馬場でのデビューがまず決まった。


 そして大泉笑平のスケジュールに合わせる形で、今日のこのレースに出走することになってしまった。


 調教師の郷田先生としては、本当は違う競馬場での1600mのレースでデビューを考えていたらしい。


 私につけられたこのふざけた馬名といい、大事なはずの新馬戦を決めた経緯といい、どうにもあの大泉笑平というバカ馬主に、私は酷い妨害を受けているような気分になる。


 だが、もういい。今はもう、いい。

 

 今日はレース本番当日。レースの距離が短かろうが長かろうか、やれるだけやるしかない。

 私の馬名についても、業腹(ごうはら)ではあるが、このレースが終わるまでは一時忘れてやろう。


 今はただ、レースのことだけに集中力を使いたい。


 そう思いながら、私は列をなしてパドックを回る17頭の馬達を見やった。


 何となく新馬戦というものは10頭以下の少ない頭数で走るものだと思っていたが、今日の新馬戦は随分たくさんの馬が出走するようである。


 牡馬もいれば、牝馬もいた。大人しくスタッフに従う利口そうな馬もいれば、興奮して頭を振り回す馬鹿丸出しの馬もいる。

 嫌々スタッフに引かれる馬もいれば、楽しそうに尻尾を揺らして歩く馬もいる。


 色々な馬がいた。ただ、見ただけではどの馬が速いのか皆目見当がつかなかった。


 とりあえず、毛並みの美しさは私が一番だ。母譲りの私の美しい栃栗毛に敵う美馬は、今日のライバル達の中にはいない。


 私がひとまずの格付けを自分の中で済ませた頃、パドックの周回が終えられた。


 そして騎手を背に乗せ、返し馬という準備運動をこなした後、しばし待機してからスタートゲートに向かう。


 一枠一番、最もコースの内側の枠からの出走になった私は、一番最初にゲートへ案内される。

 特に抵抗する気もないので、騎手とスタッフの誘導に従いゲートの中へ入った。


 ゲートの中は狭く、圧迫感があった。

 私はじっと前を向いたまま、他の馬達がゲートに入るのを待つ。


 初めての競馬場、初めてのレース、初めての勝負。


 思えば、私は前世の記憶を取り戻してから、ずっとこの日を待っていた。

 この日が来るのをずっと恐れ、何とかしなければと足掻いてきた。


 毎日走り、トレーニングし、鍛えてきた。その結果が今日、分かる。


 私は速い馬なのか。勝てる馬なのか。あるいは他の馬達に劣る存在なのか。


 私は人間にとって無価値な、最後には処分されてしまう馬なのか。

 それとも人間に価値を認められ、母のように人間からすら尊敬される馬になれるのか。


 その評定が、今日これから始まる。今日から続くレースの中で、私は私の価値を人間達に証明しなければならない。


 育ててくれた友蔵おじさんの『お前なら大丈夫だ』という言葉を思い出す。


 鍛えてくれた郷田先生の『頑張ってこい』という激励を思い出す。


 母の、あの、堂々とした佇まいを思い出す。

 勝利して己の価値を証明した馬の、誰に媚びることもない、気高い姿を思い出す。


 不思議と緊張はしていなかった。

 仔馬だった頃と違い、今日という日を怖いとも思っていなかった。


 騎手が私を落ち着かせようと、私の首を撫でる。


 大丈夫だ。自分でも何故かは分からないけれど、怖がっているわけではない。

 それどころか今は、ゲートよ早く開けとすら思っている。


 今日の為、やれる限りのことはやってきたという自負が、私の心をレースに向けはやらせる。


 左目でライバル達の様子を確認すれば、中々ゲートに入ろうとしなかった最後の馬が、係員に押し込まれようやくゲートに収まったところだった。


 意識をライバル達から目の前のゲートに戻す。


 スタートのコツは郷田先生にしっかり教わっている。


 正面を向いて待ち、ゲートが開いた瞬間に飛び出す。これだけだ。


 ゲートが開いた。


 私は同時に飛び出した。騎手がスタートの合図を送るよりも更にコンマ数秒早く、ゲートから飛び出した。


 左目に映る、よそ見をしていた隣枠の馬が、わずかに出遅れるのが見えた。


 少しの優越感。自分は失敗しなかったという安心感。


 気付けば、私は先頭を走っていた。


 私の戦いが、始まった。




続きは明日朝6時更新です。


実は殺処分エンドをすでに回避していた主人公。

しかしそんなこと知る由もない主人公は、一人必死で生き残ろうと鼻息荒く頑張り続けるのであった。

そういう悪役令嬢ものが作者は好きです。



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