勝つ為に走りながら勝利を捧ぐ
「お願いします、郷田先生。俺に、天童騎手の倒し方を教えてください」
その問いを口にした瞬間、東條と郷田の間に流れていた空気がピンと張りつめたのを東條は感じた。
「……天童騎手に勝つ方法?」
しばしの沈黙の後、郷田は東條の質問をオウム返しした。
「はい。教えてください」
「ないんじゃないか、そんなもの。天童に弱点だとか、こうやれば勝てるというハウツーだとか、そんなものがあるなら、それを世界で一番知りたかったのは俺だよ」
東條君は俺を何だと思っているんだと、郷田は呆れたような声色を返した。
「俺は騎手時代10年間リーディング2位で、その間天童はずっと1位だった。つまり、俺は10年天童に負け続けた男だよ。ライバルだの因縁だの色々言われることはあるが、実際のところ俺は騎手としてあいつに勝ったことはおろか、横に並べたことすら一度もない」
こんな恥でしかない話させないでくれと、郷田はやや不機嫌そうに呟いてから、ツマミの揚げ物を口に運んだ。
「でも郷田先生は現役時代、何度も天童騎手に勝っているじゃないですか」
「それを言うなら東條君だって、天童に勝ったことくらいあるだろう。例えば桜花賞と秋華賞では、どちらも天童が乗るノバサバイバーに先着している」
天童騎手の年間勝率は25%前後。トップ騎手の中でもずば抜けて高い勝率を誇るが、それでも4戦中3戦は負けている計算になる。
郷田や東條に限らず、天童騎手に勝ったことがある騎手などいくらでもいるだろうと、郷田は揚げ物を口の中で噛みながら付け加えた。
その言葉にそうではないと、東條は首を振る。
「俺が聞きたいのは、『一番強い馬に乗っている時の天童騎手の倒し方』です。郷田先生は現役時代、それこそ単勝1.5倍以下に推されるような馬に乗った天童騎手に、何度も勝って大番狂わせを起こしている。テレビで何度も見ました。強い馬に乗った天童騎手を倒すのはいつだって、ライバルの郷田騎手だった。俺は、そのやり方を教えて欲しいんです」
「一番強い馬に乗っている時の天童ねえ」
困ったように郷田は眉を八の字に曲げながら、ごくりと音を立てて口の中のツマミを飲み込んだ。
「例えば、テクノスホエールの強さを100とするなら、東條君はバインの強さはいくつ位になると思う?」
そして、郷田は突然バインのことを東條に質問してきた。
「……その『強さ』というのは何の指標でしょうか。単純な速さのことなのか、レースでの勝ちっぷりのことなのか」
「難しく考えず、印象で答えてくれていいよ。東條君がバインとテクノスホエールの間にどの位差があると感じているか、それをざっくりとしたイメージでいいから数字で表してみて欲しい」
東條が少し考えてから、『80』という数字をバインに付けた。
「80ね。なら騎手は? 天童善児を100とするなら、東條薫は何点の騎手になる?」
「……ろ、70点位でしょうか」
「随分自分を過小評価するな。まあ、悪いとは言わんが」
言って、郷田はずっと持っていた酒のグラスをテーブルに置いた。
「では、100点の騎手が乗った100点の馬と、70点の騎手が乗った80点の馬。その2頭が争えば、どちらが勝つと思う?」
「それは、普通に考えれば100点の馬の方だと思います」
東條はその質問に素直な答えを返す。
「そうだよな。なら、100点の馬に70点の騎手が乗り、80点の馬に100点の騎手が乗る。この場合は? 合計点が高い80点の馬の方が必ず勝つと思うか?」
「それは……」
東條は答えに窮した。その様子を見て、郷田が面白そうに口の端を上げた。
「騎手の力なんてそんなものだよ。天童がバインに乗り、東條君がテクノスホエールに乗る。それでどっちが勝ちそうかと聞かれれば、やっぱりテクノスホエールの方が勝ちそうに思える。競馬の主役はあくまで馬だ」
つまり、例外事例がどれだけあったとしても、基本的に競馬は強い馬が勝つものなのだと郷田は言った。
「走った君とバインの本気を承知の上で言うが、俺にとってヴィクトリアマイルは、ホエールが持つ100の力を90や80、あるいはそれ以下に削り落とすための戦いだった。そして、今の俺の仕事はバインが80点満点の走りができるよう仕上げることだ。安田記念までにバインをベストコンディションまで戻す。そして、高橋調教師がテクノスホエールを復調させ切れないことに賭ける。それが調教師である俺にとっての勝負だ」
「なら、俺は?」
郷田の言葉を遮り、東條は問いを放った。
『自分』がどうやってバインを勝たせるか。その答えを淀みなく話すことが出来る郷田に対し、東條は無意識に拳を作っていた。
「郷田先生が調教でバインが勝てるよう準備を整える。バインはそれに応えてレースで全力を尽くす。なら、騎手である俺の役目はなんです」
郷田に噛みつくような東條の物言い。しかし、アルコールに背中を押されるようにして、東條は胸の内を吐き出すことを止められなかった。
「騎手としての仕事は全て、天童騎手に上をいかれます。俺は、天童騎手ほど上手く馬に乗ってやることが出来ない。天童騎手との実力差の分だけバインの足を引っ張ることはあっても、俺の騎乗じゃあいつを助けてやることは出来ない」
ダン、と、思わず東條は感情に任せテーブルを拳で叩いた。
居酒屋全体がその音に驚いて一瞬静かになり、すぐまた飲み屋の喧騒が戻って来る。東條は構わずに吐露を続けた。
「教えてください、先生。俺はもう二度と、バインを天童とホエールに負けさせたくないんです。このままだと、きっと俺のせいで負けてしまう気がするんです。天童善児に勝つ方法を、俺に教えてください」
そして、最初にした質問をもう一度繰り返す。
気炎を吐いた東條を、郷田の静かな瞳がじっと見つめていた。
郷田は無表情だった。口を真一文字に結び、強面なその顔に宿る迫力がいつもより増しているように見えた。
目を逸らしてなるものかと、その目を東條が睨み返す。5秒、10秒、異様な緊迫感の中で、無言のままどれだけ時間が経っただろうか。
郷田の瞳の奥の色が揺らぐのを、東條は見た。何かを迷うような、相手を気遣ってためらうような、そんな揺らぎだった。
「……教えて下さい」
今だと思い、追い打ちをかけるように東條は言葉を発した。
「今の俺には必要な、安田記念で天童善児に勝つ為に、どうしても必要なことなんです」
郷田は東條の視線から逃げるように瞼を閉じると、フーっと長い息を吐いた。
「俺は、騎手として天童に勝ったことなんて一度もないよ」
そして、観念するように郷田は閉じた瞳を開いた。
「俺はただ、俺が乗る馬達に天童に勝って貰っていただけだ」
ようやく話し出した郷田の言葉。その真意を東條が聞くより先に、郷田は言葉を続けた。
「レースに負けた時、馬のせいで負けたと言う騎手は一生二流のままだ。敗因を自分の中に見つけられない騎手は成長しない。なら勝利は?」
「え?」
「レースの負けは騎手のもの。なら、レースの勝利は誰のものだ?」
東條の脳裏に、生まれて初めて行った競馬場で見た、ウィニングランをする騎手の姿が浮かんだ。馬上で手を高く上げ、観客の喝采に応えるダービージョッキーの姿だ。
「それを捧げられるか?」
「捧げる?」
「勝った後に、勝てたのは馬のおかげです、支えてくれた皆さんのおかげですと、殊勝なことを言うのは簡単だ。だが勝負の最中、ゴール争い真っただ中で、どうしても勝ちたいレースで、どうしても勝ちたい相手に、後ほんのちょっとで勝てる。そんな時に、その勝利を馬に全部くれてやることが出来るか?」
そう話す郷田の目には、何故か東條を憐れむような色が浮かんでいた。
「100点の馬に乗る100点の騎手。そんな相手に、80点の馬に乗る70点の騎手はどうやって勝てばいいか。勝てないんだよ。騎手の力が突然120点になることも、天童が突然下手糞になることもない。普通にやったら、普通に負ける。ならどうするかって言ったら、点数をくれてやるしかない」
「……くれてやるというのは、」
誰に? と聞き返そうとした東條に、郷田は頷いた。
「自分の点数をな、自分の馬にくれてやるんだ。80点の馬に、騎手が持つ70点を渡すんだよ。そうすればその馬は80足す70で、150点の馬になる。100点の馬より強い、そのレースで一番強い馬になってくれる」
感覚的な話になってしまって申し訳ないが、と断ったうえで、郷田は話を続けた。
「一番人気の馬に乗った天童が相手の時、俺はいつもそうやって自分の馬に勝って貰った。自分の全部を馬にくれてやるつもりで乗るんだ。そしてそれを馬に受け取って貰えた時、馬は応えてくれる。勝利という形で、俺の代わりに天童を倒し、馬が俺の代わりに勝って応えてくれる」
「それは、何と言うか、人馬一体の騎乗を目指せとか、そういう類の話でしょうか」
技術でも戦術でもない、どちらかというと騎手の心構えについて語るような郷田の言葉。
しかし、それが郷田なりに東條の質問に真剣に応えてくれているものであり、また単純な精神論的な話ではないように東條は感じた。
故に質問をし、東條はその言葉をどうにかして自分の中で理解し消化しようとする。
「人馬一体、そんな高尚な話じゃない。強いて言うなら奴隷だ。自分の馬の奴隷になるというような話だ」
ふざける様子も茶化す様子もなく、郷田は真剣そのもので言葉を紡いだ。
「乗る馬の奴隷になるつもりで騎乗するんだよ。奴隷になって全てを捧げる。それが出来た時に、馬は勝ってくれる。俺が勝つんじゃない。俺ではどうやっても勝てない天童に、それでも馬が勝ってくれるんだ。その為に、俺の全部を馬にくれてやるつもりで馬に乗る」
勝利も、喝采も、栄光も、賞賛も、勝ちたいという気持ちも、負けたくないという意地すらも、何もかも捨て去って、何もかも馬に捧げる。
それだけやっても、馬には受け取って貰えないことの方が多い。応えてくれないことの方が多い。けれど、もし受け取って貰えたならば、馬がそれを受け取ってくれたならば、馬は必ず応えてくれる。
全てをなげうった奴隷の懇願に、馬が応えてくれる瞬間が来る。
「そうやって、自分の中のものを燃やして燃やして、捧げて捧げて捧げ尽くして、俺の中は空っぽになって、俺は騎手を引退したんだ」
言って、郷田は酒の入ったグラスを手に持った。しかし、グラスの中に残った酒をしばし眺めてから、飲まずにそれをテーブルに置き直した。
「自分じゃ出来ないことを、馬にやって貰おうっていうんだ。自分なんかじゃ決して敵わない相手に勝って貰う。自分の全てを懸けても出来ないことを、代わりに馬にやって貰う。その為ならば、自分の全部を見返りに渡すくらい、どうってことでもないと思わないか?」
そこまでやって、勝てるかどうか。自分の全てを馬に受け取って貰えて、初めて並べるかどうか。
騎手の頂点『天童善児』はそれほどの相手なのだと、恐ろしい昔話を語る老人のような口調で、郷田は話を締めくくったのだった。
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