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先生、教えてください


 日本ダービーの開催近づく5月下旬。


 東條は郷田と共に、美浦トレーニングセンターの正門からしばらく車を走らせた先にある居酒屋を訪れた。


 そこは定食屋と居酒屋が一緒になったような造りの店で、周りには酒を頼まず飯だけを食べている客もちらほらといる。


 カウンターの席に着いた東條は、おしぼりを持ってきた店員にとりあえずのビールを頼みつつ、冷房の風を受けてホッと息を吐いた。


 美浦の気温は、まだ梅雨と呼ぶにも早い時期だというのに、ここ数日30度を超える猛暑を記録していた。

 隣に座った郷田を見れば、冷えたおしぼりで豪快に顔をふいている。顔をぬぐう為というよりも、暑さで火照った顔を冷やしたいがための行為のようだった。


「日も沈んだのに暑くて参るな。東條君のお手馬達の様子はどうだい? こう急に暑くなっちゃ、暑さでバテている馬も多いんじゃないか?」


 おしぼりで目元を抑えながら、郷田が質問を発する。

 この人とも随分気安く話せる間柄になったなと思いつつ、東條は質問に答えた。


「そうですね。夏バテとまではいかないですけど、調子を落としている馬は多いですよ。でも、この暑さじゃどこの厩舎の馬もそうなんじゃないですか?」


「まあな。うちの厩舎でも、暑さに負けず元気なのはバインとその妹位なもんだ。あの姉妹は季節関係なく元気に走るから」


 言いながら、郷田がおしぼりから顔を上げて東條の顔を見た。


「暑さ寒さに強いってのも、その馬の強さの一つだよな。バインにあってテクノスホエールにはない、大事な強みの一つだ」


 そう話している内に注文したビールが運ばれてくる。いくつかのつまみを注文し、軽く乾杯してから、東條は郷田と二人ビールをあおった。


 よく冷えたビールが喉を通り、火照った身体を内側から冷やす。東條は、思わず一息でグラスの半分近くを飲み干してしまった。


「どうだ? 東條君から見て最近のバインの調子は」


「かなり良い、というか、一日おきに目に見えて良くなっていっていると感じています。レース後2週間でここまで回復するとは、正直思っていませんでした」


 アルコールが入り出して間もなく、おもむろに切り出された郷田の質問に、東條は自分が調教で感じていたままの答えを返す。


 ヴィクトリアマイルが終わった直後、疲れ果てたバインの様子を見て、ここから3週間で安田記念に出走するなんてことが可能なのかと内心東條は危ぶんでいた。

 しかし、いい意味でバインは東條の予想を裏切り、順調にその体力と動きを回復させている。


 東條の回答に、郷田は頷いた。


「バインの真面目さがいい方向に働いた結果だろうな。よく食べ、よく飲み、よく休む。今のところ、バインの回復と調教は理想的に進んでいるよ。次の安田記念でバインがホエール相手にどこまでやれるかは、まぁ、俺と高橋調教師の腕比べといったところか」


 さして気負ってもないように、次の勝負の鍵は調教師である自分が握っているのだと郷田は言っていた。

 その言葉を軽く言ってのけた郷田の態度に、東條はバインという馬に郷田が寄せる信頼の厚さと、やるべき仕事を理解している郷田のプロとしての覚悟を見た。


 同時、ヴィクトリアマイルで刻まれた天童騎手に対する敗北感と劣等感が、フラッシュバックするように東條の胸をちくりとつついた。


「郷田先生」


 気づけば、東條は無意識の内に背筋を伸ばし、郷田に向き直っていた。


「ん? どうした、急に改まって」


「郷田先生から見て前回のヴィクトリアマイル、俺の騎乗の敗因はどこだったでしょうか?」


 そして、レース直後にも聞いた質問を、もう一度郷田にぶつけてみた。

 レース後に同じ質問を郷田にした時、郷田は『東條君の騎乗に文句はない』と言うばかりで、まともに答えてはくれなかったからである。


「ヴィクトリアマイルの敗因ねえ」


 呟いて、郷田は手元に残ったビールを一気に飲み干した。


「質問を質問で返して悪いが、東條君自身はどこが悪かったと思っているんだ。今更そんなことを聞きたがるってことは、何か引っかかるものがある負け方だったんだろう?」


「……そうですね。勝負の分け目になったのは、第3コーナーの下り坂を下り終えた後だったと思っています。あそこでテクノスホエールに息を入れさせてしまったことが、」


「ああ、そりゃ違うな。見るところがズレている」


 郷田が東條の言葉を遮った。驚いて郷田の顔を見れば、郷田は運ばれてきた新しいビールを店員から受け取っていることころだった。

 暑さのせいでアルコールの回りが早くなっているのだろうか。まだそう何杯も飲んだわけでもないのに、郷田の顔には赤味が差し始めていた。


「ヴィクトリアマイル、正直俺は東條君の騎乗に文句なんてないんだが、それでもあえて敗因になった箇所を挙げるなら、テクノスホエールにハナを譲った場面だよ」


 郷田からの指摘を受け、東條の脳内でヴィクトリアマイルのレースが早回しで再生される。

 郷田が指摘した箇所はスタート直後、大外からテクノスホエールがバインに迫って来て、そのままハナを獲った場面だ。


 そんなレースの最序盤の時点で、すでに勝負は決していたと、郷田はそう言っていた。


「俺はレース前に言っておいたはずだぞ。テクノスホエールのペースでレースをさせてはいけないと。その為に逃げを打ち、ハナを獲れと。なのに東條君は天童にプレッシャーを掛けられて、早々にハナを譲ってしまった。バインより半馬身前にテクノスホエールを行かせてしまった」


 言いながら郷田がつまみの枝豆を手に取り、口に含んだ。


「君が相手にしていたのは天才天童だぞ。あいつにハナを獲らせたら、レース展開があいつの思うがままになるなんて当たり前じゃないか。あそこでハナを譲らず、最初の直線からもっとムキになって先頭争いをしていれば、まあ、写真判定位には持ち込めたかもしれない」


 怒気も呆れもなく、淡々と済んだことを述懐するようにしながら、郷田は食べ終えた枝豆のカラをカラ入れに捨てた。


「とはいえ、所詮タラれば話だ。バインがホエール相手に最終直線で並ぶことができたのは、ホエールと一緒に減速して息を入れたおかげでもある。そういう意味で、目論見とは若干ずれたが、東條君のヴィクトリアマイルの騎乗に俺は何の文句もないよ」


「完敗だったのに、ですか?」


 負けではなく勝つ為の準備だと、郷田は言い切った。


「テクノスホエール陣営は、1年でGⅠを5勝するなんて無茶な目標を掲げてる。それを達成する為の一番の難所は、レース間隔の短いヴィクトリアマイルと安田記念の連戦クソローテだ。それを乗り切るために、天童はヴィクトリアマイルでホエールの体力をなるべく使いたくなかった。つまり、あいつは鞭を使わずに勝ちたかったはずなんだよ」


 言って、郷田は機嫌よくビールを更にあおった。


「だが天童は鞭を使った。使わなければ負けると、追い詰められて最終直線で鞭を使った。バインに張り付かれて想定以上に消耗したホエールを、鞭で追って更に消耗させてしまったんだ。東條君とバインが、あいつにそれをさせた」


 ビールグラスを持った手の人差し指で東條の顔を指さしながら、郷田は言葉を続ける。


「テクノスホエールは回復の早い馬じゃない。高橋調教師が余程上手くやらない限り、次走安田記念、ホエールは必ず前走の疲労を残して出走することになる。そうなれば、その安田記念でもう一度消耗戦を強いることが出来たなら、天童はもう安田の最終直線で鞭を使えない」


 そしてそれこそが次の安田記念の勝負の肝になると、郷田の目が語っていた。


「『逃げて差す』。競馬の常識を無視したテクノスホエールのあの最後の加速が、安田記念では使えなくなる。バインと東條君が使えなくしたんだ。そして最後の一伸びがないホエールならば、バインでも届き得る。ようやくあの別格の女王を、バインと勝ち負けを争う混戦の泥試合に引きずり下ろすことが出来る」


 そして東條を勇気づけるように、郷田はドンと自分の胸を叩いて見せた。


「東條君はもっと自信を持っていい。東條薫の技術と判断は、日本最強のジョッキーとマイルの女王を、確かに追い詰めつつあるんだからな」


 東條を励ますような郷田の言葉。

 おそらく郷田は、東條が天童騎手に対し苦手意識を持ってしまったことも、天童騎手に勝てるという自信を持てなくなってしまっていることも、きっと見抜いているのだろう。


 だからこうして飲みに誘ってくれ、長々とレースの話をして東條を勇気づけようとしてくれている。


 そんな郷田調教師の配慮を理解した上で、それでも東條は郷田の言葉に頷かなかった。自信を持てという郷田の言葉に、頷くことが出来なかった。


「でも郷田先生、追い詰めるだけでは足りません。俺は天童騎手やテクノスホエールの妨害をする為に、バインに乗っている訳じゃない」


 そう。天童騎手やテクノスホエールをどれだけ追い詰めたところで、勝てなければ意味がない。


「郷田先生は、ヴィクトリアマイルで負けても安田記念で勝てばいいと思っているのかもしれません。でも、俺とバインはヴィクトリアマイルだって本気で勝つつもりで走っていました」


「そりゃそうして貰わなきゃ困るさ。東條君達が勝つつもりで走らなきゃ、天童があんな潰し合いに乗ってきたりするものかよ。消耗戦に応じなければ負けるかもしれない。そう天童に思わせるには、騎手と馬の本気は絶対に必要だった」


 東條の本気は必須だったと言う郷田の言葉。

 しかし、東條にとってはその本気こそが問題なのだった。本気を出して敗れたからこそ、東條にとってその負けは重たい。


 次勝てれば結果オーライになると、そう気軽に流せるほど、ヴィクトリアマイルでの負けは東條にとって軽いものでは最早ない。


 ヴィクトリアマイルは東條にとって、『全力を尽くしてなお何も出来なかった』という感想しか浮かんでこない、リーディングジョッキーと自分の差を決定的に突き付けられた敗戦だったのである。


「本気で走って負けたんですよ、俺は。俺が騎手として天童騎手に及ばなかったせいで、バインはホエールに負けたんです。俺はもう、バインにそんな思いをさせたくない」


 東條は郷田から、バインにとって次の安田記念がどれだけ重要な意味を持つかをすでに教えられていた。


 バインの馬主が、バインを今年一杯で引退させることをもう決めてしまったということ。

 そして今年テクノスホエールにバインが勝てるレースがあるとすれば、それは安田記念だけだと郷田が考えていること。


 つまり、次の安田記念でバインを勝たせることができなければ、高い確率でバインは一度もホエールに勝てないまま競走馬を引退することになってしまう。


「俺は次の安田記念であの天童騎手に、日本最強のジョッキーに、どうしても勝たなくちゃいけないんです」


 だからこそ東條はこの場を、年長者の話をハイハイと聞くだけで終わらせる訳にはいかなかった。

 どうしても目の前の男から、聞き出さなければならないことがあった。


「お願いします、郷田先生。俺に、天童騎手の倒し方を教えてください」


 その答えを世界で唯一知っているはずの、かつての天童善児のライバルの瞳を、東條はじっと睨むように見つめたのだった。




次勝つ為に敵の馬は削った。あとは騎手。

郷田先生の回答は次話にて。続きは明日の昼12時更新です。



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