笑わない男
意外にも面白いレースだったと、自宅へと向かう車中で、陣内恋太郎は今日のヴィクトリアマイルを述懐した。
対抗馬不在、陣内の持ち馬であるテクノスホエールの楽勝になると思われていた今日のレース。
しかしバインバインボインという2番人気の馬が、レース序盤からホエールに競り掛けて来たことで、今年のヴィクトリアマイルは先頭の逃げ馬2頭による壮絶な逃げ合いとなった。
馬にとっては負担の大きいレースになってしまったと言える。しかし、見ている側からすれば面白いレースだった。
最終直線、バインがテクノスホエールに並んだ時、陣内はまさかと動揺し、思わず立ち上がりそうになった。
天童騎手の鞭でホエールがバインを突き放した時は、興奮のあまり拳を握った。思わず身体が動いてしまうほどの、見ていて楽しいレースだった。
そのレースを勝ったのが、自身が所有するテクノスホエールであることが陣内は誇らしかった。
また、そのレースを面白くし、2着に入賞した馬がバインバインボインという馬であることが、陣内には不思議だった。
陣内は『日本一の馬目利き』と呼ばれている。陣内が買った馬達が次々とGⅠレースを勝利していく内に、いつの間にかそんな風に呼ばれるようになった。
しかし、陣内は自分に相馬眼があるなどと思ったことはない。
何故将来強くなる馬を見抜けるのかと聞かれても、自分でもどうして自分の馬達があんなに勝ってくれるのか分からない。
何故なら陣内は、ただ単純にテクノスグールと似た馬を集めているだけだったからである。
テクノスグールという馬を初めて見た時、陣内は第一印象でその馬を『怖い』と思った。馬に対しそういう感想を抱いたのは、その時が初めてだった。
そしてそれ以来陣内は、一目見た時に少しでも『怖い』と感じるものがある馬を買うようになった。
テクノスホエールもそうして買ったし、ホエール以外のGⅠを制したテクノス冠馬達も、そうやって買った。
陣内にとって何より特別な馬であり、GⅠを5勝した名馬でもあるテクノスグール。
そのテクノスグールと似た『怖さ』を持つ馬ならば、もしかしたらテクノスグールのような素晴らしい馬に育つかもしれない。
そう思って陣内は馬を買い、そうして買い集めた馬達の内の多くは、実際に次々と重賞GⅠを制した。
だからこそ、『怖い』という自分の感覚を信じて馬を買い、それに出来過ぎなほどの結果が伴ってきたからこそ、陣内には分からなかった。
バインという馬のことが、何故あんな馬が強いのか、レースで結果を残しているのか、理解出来なかった。
理解出来ないばかりか、もっと明け透けに言ってしまえば、陣内はバインという馬のことが嫌いだった。
あんな馬はもうレースに出て欲しくないとさえ思っていた。
何故ならあの馬は、馬っぽくない。これっぽっちも怖さを感じない。代わりに気色が悪いほどに人間っぽく、馬らしい馬の強さが感じられない。
何故あんな、人間じみた不気味な馬が、精強なサラブレッド達と神聖なレースを走り、あまつさえ7度も勝利を手にしているのか。
バインという馬が活躍し、それがマスコミに取り立たされるのを見る内、陣内は段々腹が立つようになり、どんどんバインのことを嫌いになっていった。
あの馬がレースで勝つのを見ると、自分にとって大切な場所が汚されるような、言いようのない不快感を覚えるようになった。
つまり、陣内にとってバインという馬は、生まれて初めて出会った『嫌いな馬』だった。
陣内が敬愛するテクノスグールやテクノスホエールとは、正反対に位置する馬だった。
だが、そんな大嫌いな馬のレースを見て、今日陣内はそれを面白いと思ってしまった。
最終直線、テクノスホエールにバインが並んだ時。バインが命すら投げ捨てるかのような激走で先頭を獲ろうと前に出たあの時。
その姿が陣内の中で、一瞬だけテクノスグールに重なって見えた。
姿も、性別も、血統も、走りも、何もかも違う、怖さの欠片もない、一番嫌いなはずの馬。その姿が、最も愛する馬の姿と重なって見えてしまった。
その動揺で、陣内は席から立ち上がりそうになったのである。
そこでふと、思い出す。去年の秋、バインとホエールとの初対戦となったマイルCSで、無遠慮に陣内の隣の席に座って来た、あの馬の馬主のことを。
『陣内さんは、自分の馬が勝っても笑わんのですね』
その馬主はテレビで有名なバラエティタレントだった。陣内の知己を通じ、何度か馬主席で挨拶を交わしたことがあるだけの男だ。
会う度に何故か熱心に話し掛けてくるので印象には残っているが、特別親しい間柄という訳ではない。
何が面白い訳でもないのに、いつもヘラヘラと作り笑いを浮かべている男だった。
そんな男でも、自分の馬がレース後倒れた時は、青い顔で茫然自失になっていた。
見かねた陣内が『心配せずとも多分あなたの馬は無事だ』と言ってやると、何故か男は陣内の言葉を鵜呑みにし、途端に明るいいつもの表情に戻った。
『もう少し待っとって下さい。きっと俺の馬はもっと面白くなりますさかい。今日の負けを乗り越えることが出来たら、あいつはまたちょっと本物に近づく。まだもうちょっと、あいつは面白くなれる』
そしてその後は自分の馬を心配する素振りも見せず、そんなことを嘯いていた。
そんな男を見て、その言葉を聞いて、陣内はあの時何を思ったか。
少し考えて、ああ、と思い出す。不快感だった。陣内はあの時あの馬主に対し、不快を感じた。
陣内が嫌う唯一の馬が、陣内が愛するレースを面白くする。そんなことを言われて、陣内は不愉快だと思ったのだ。
男の言う『面白い』という言葉が、陣内が競馬に求めているものと違うものを指している気がして。
陣内が何より愛しいと思っているものを、男の言う面白さが冒涜しようとしているように思えて。あの時陣内は、例えようもなく不快になった。
馬だけでなく、その馬主のことまでが嫌いになった。
『誰に似たのかあいつは、人を笑かすのが得意な奴なんですわ。だからきっと陣内さんのことも、その内絶対笑かしてみせまっせ』
確かあの男はそう言って、ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべていた。
あの時はただ無性に腹が立っただけだった。
だが、今はどうだろうか。陣内が嫌いな馬が活躍した今日のヴィクトリアマイル、それを見て、陣内はどう感じたか。
面白いと、思ってしまったのだ。なんて楽しいレースだと。またあの馬とホエールが走るところを見てみたいと、そんな風に思ってしまった。
今日のレースを見て陣内の胸は、わずかにだが弾んだ。
陣内はそっと、自分の頬に自分の手を当ててみる。
陣内の頬は、冷たかった。頬の筋肉が硬くなっているように感じられた。
笑っていない。確かに今日自分は、テクノスホエールという愛馬が勝利したと言うのに、笑っていない。
ホエールが勝って嬉しいはずなのに、今日のレースを不覚にも面白いと感じてしまったはずなのに、自分はまだ笑っていない。
いつからだろう。自分は一体いつから、愛する自分の持ち馬達が勝利しても、笑うことがなくなっていたのか。
あるいは、あの怖さも馬らしさもない、大嫌いな馬のレースをまた見れば。あの憎らしい馬を、自分の愛するホエールが三度倒す様を見たならば。
あるいはその時に自分は、久しぶりに競馬で心から笑うことが出来るのだろうか。
頬から手を外し、車の窓を開ける。
まだ5月だと言うのに、もう夏の暑さを宿し始めた空気が車内に流れ込んで来た。
その空気の熱をもってしても、陣内の冷え切った頬の筋肉は、温まることはなかったのだった。
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