お前はまだ負けちゃいない ~勝ちに向かっている途中~
ヴィクトリアマイルでバインが3敗目を喫した日の夜。郷田は水の入ったバケツを片手に馬房を訪れた。
郷田が馬房の中へ入ると、バインの房の前で厩務員の小野が一人佇んでいる。
郷田は小野の隣まで行くとその肩を叩き、バインの様子を尋ねた。
「駄目です。バインのやつ、やっぱり今日は水も餌も食べません」
「そうか」
相槌を打ちつつ、郷田は馬房の中のバインを見た。
ほんの数時間前に、マイルの女王を相手に文字通りの死闘を演じたバイン。
そのバインは今、力なく馬房の中で横たわっていた。薄暗い房の中、普段は輝いて見えるその栃栗毛の毛並も、今はどこかくすんで見える。
満身創痍、疲労困憊、全てを出し尽くしてもう動けなくなった馬。厩務員の小野が側にいても、郷田が近付いても、起き上がる気力すらないのか、バインは横たわったまま首すら持ち上げようとはしなかった。
郷田が馬房の前にしゃがみ、柵の下の隙間からバインの顔を覗き込む。
すると、バインはぎょろりと目玉だけを動かし、郷田を睨むような目付きを作った。疲れているんだから今は構うなと、そう抗議するようなジト目だった。
その目を見て、郷田は思わず笑みをこぼす。
バインは大丈夫そうだった。この馬の心は折れていない。去年のマイルCSの時とは違い、負けてなお闘志をなくしていない。
郷田はバインの恨めし気な視線を無視し、柵をくぐってバインの馬房の中へと侵入する。そして横たわるバインと目を合わせるようにしゃがみ込み、その顔の前にバケツを置いた。
「バイン、お前、今日のレースで自分は負けたって思っているだろう?」
郷田からの問い掛け。その声に反応したのか、『負け』という単語に反応したのか、バインの耳がぴくりと動いた。
「確かにお前は今日ヴィクトリアマイル2着だった。お前の戦績には3敗目が記録された。でもな、俺は今日お前が負けたとは思っていない。お前はまだ勝負の途中にいる。今日ゲートが開いて始まったテクノスホエールとの戦いは、今もまだ続いている」
耳を数度揺らした後、バインはその首をおもむろに持ち上げた。後ろで郷田とバインを見守っていた小野が、横たわり動かなかったバインが突然動いたことに息を呑む。
しゃがんで話す郷田を見下ろすようにしながら、バインは話の続きを催促するような視線を送ってきた。
「俺はな、バイン。お前がどうやったらテクノスホエールに勝てるかをずっと考えていた。去年マイルCSでお前があの馬に負けた日から、ずぅっとそればかりを考えていた」
例えば中距離のレースならば、バインにも勝機はあるだろう。しかしテクノスホエール陣営は、今年一杯マイル・スプリントのレースでGⅠ10勝を目指すと公言している。
バインに勝ち目がある距離のレースに今年テクノスホエールが出てくることはない。そして、バインは今年一杯で引退することがすでに馬主によって決められている。
「スピードも、スタミナも、末脚も、経験も、騎手も、何もかもお前より優れている最強のマイラー。そんな相手にどうやったら勝てるのかを考えて、考えて考えて考え抜いて、そして結論に達した。マイル・スプリントのレースでは、バインバインボインがテクノスホエールに勝つのは無理だ、とな」
郷田を見下ろすバインの目が、血走った。続ける言葉を間違えれば、自分はこの馬に噛み殺されるかもしれない。そう思いつつ、郷田は言葉を続けた。
「そして同時に思いついた。1600mのマイルレースで勝てないのなら、3200mのレースで勝てばいいと。1600m足す1600mのレースなら、お前にだって勝ち目はあるよな、と」
「は?」
後ろで黙って郷田とバインを見守っていた小野が、思わずといった様子で素っ頓狂な声を上げた。
郷田はそんな小野のことを無視した。バインはまだ郷田から目を逸らさず、話の続きを待っている。
「スピード、スタミナ、末脚。1度のマイルレースで使う能力において、テクノスホエールは絶対的な強さの数値を持っている。単純にあの馬は世界一脚が速い1600mランナーなんだ。あの馬より脚の速い馬は、お前含め誰もいない」
故に、万全の状態のテクノスホエールにマイルレースで勝つことが出来る現役競走馬は、少なくとも今の日本には一頭もいない。
「テクノスホエールが万全の状態では、どうやっても勝てない。あの馬に勝つ為には、あの馬を弱らせ、絶不調にし、本来の走りが出来ない状態に追い込む必要がある。その為に俺は今日お前に、あの馬の体力を限界まで削って貰った。そしてお前はそれをやり遂げた。あの馬を追い詰め、天童に鞭を使わせ、あの馬の体力を削りに削った」
言いながら、郷田はバインの首に自分の手の平を置いた。撫でる為ではない。言葉の通じない馬に、どうか自分の思いよ正しく届けと、そう願ってその手をその身体に添えた。
「分かるか。お前は今、順調なんだ。お前は今日のレースで負けたが、お前とホエールの勝負はまだ決着していない。今日のスタートゲートを飛び出し始まったお前とホエールの戦いのゴールは、3週間後の1600m先にある」
言いながら、バインの瞳をじっと郷田は覗き込んだ。その奥でマグマでも煮え滾っていそうな、バインの黒く深い瞳をじっと見つめた。
「お前とホエールの勝負はまだ続いているんだよ、バイン。お前のスピードと末脚では、去年あの馬に勝てなかった。スタミナで勝負しても今日あの馬に勝てなかった。だから今度は、回復力と連戦力で挑むんだ。今日のレース、あの馬は万全だった。しかし今、ホエールは消耗している。お前が消耗させたんだ。3週間後の安田記念までには、完璧には戻れぬほどにお前がホエールを弱らせた。だからお前は、あのチャンピオンにトドメを刺す為に、テクノスホエールよりも早く回復しなければならない」
優秀なサラブレッドとはどのような馬のことを指すか。
脚の速い馬か。長い距離を走れる馬か。強い子供を産む馬か。否、それだけではない。馬の優秀さを示す能力はそれだけではない。
無事是名馬。怪我無くレースを走り抜くこと。レースの後すぐに回復して次のレースに臨めること。疲労が残っていてもパフォーマンスを落とさずにレースを走り切れること。
そうした能力もまた、間違いなくその競走馬の優秀さを示すバロメーターの一つだ。馬が持つ強さの指標の一つだ。
「そして、お前が回復力や連戦力であの馬に挑めるのは、次の安田記念が最初で最後の機会になる。つまり、お前がテクノスホエールに勝つ最後のチャンスが安田記念だ」
安田記念の次にホエールが出るスプリンターズステークスは秋。夏の放牧で十分な休息をとって、万全の状態でテクノスホエールは出てくる。
その更に次のレースであるマイルCSは、スプリンターズステークスの2か月後。短距離レースの疲労を抜くには十分過ぎるレース間隔が空いてしまう。
テクノスホエールが前走の疲労を背負った状態で、万全でない状態でレースに出て来る可能性があるのは、次の安田記念が最初で最後のチャンスとなる。
「だから今のお前には、落ち込んでいる暇なんてないんだよ。回復の早さ比べがもう始まっているんだ。分かるか? お前は今、逆転出来るかの境目にいる。ホエールよりも早く回復出来た分だけ、お前とホエールの差は埋まる。あの馬のスピードとスタミナに追いつき追い抜けるかの回復勝負が、今、すでに始まっているんだ」
言いながら、郷田は持ってきたバケツの水をバインの前に差し出した。
競走馬にとって、レース後の食事は大きな意味を持つ。
レースが終わったその日の内にバケツ一杯の水を飲めるかどうかだけでも、馬の疲労の回復度合は目に見えて変わってしまう。
郷田がバインの前に置いたその水は、疲労を回復させるビタミンB群、筋肉を保護するビタミンE、飲みやすくするための果糖、その他今のバインに必要な栄養が混ぜられた特製のドリンクだった。
「だからバイン、飲め。食え。回復しろ。お前はまだ負けちゃいない。今もまだ勝負の途中だ。勝ちに向かっている最中だ。本当の決着は3週間後だ。今日のレースは相手をどれだけ消耗させられるかの第1ラウンド。これからの3週間が回復比べの第2ラウンド。そして安田記念が決着の最終ラウンドだ。勝ちたいのなら、負けたくないのなら、お前が今やるべきことは、そうして寝転がっていることではないはずだ」
ガバっと、突然馬の巨体が立ち上がり、しゃがんでいた郷田が馬の影に覆われる。
立ち上がったバインは、鼻を一度鳴らすと、勢い良くバケツにその顔を突っ込み、猛烈な勢いでその中身を飲み始めた。
あまりの勢いに、バケツの中で水がばしゃばしゃと音を立て、バケツの隙間からそれが零れる。構わずに、バインはその中身を飲み続ける。
その様子を見て、郷田は立ち上がり、ずっと心配そうにしていた小野に声を掛け、バインの食事に関するいくつかの指示をしてから、馬房を後にした。
3週間後の決着に向けた、戦いの第2ラウンドが始まった。
水を飲んだ。ご飯を食べた。
さあ、勝つぞ。
続きは明日の昼12時投稿予定です。
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