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潰した騎手 潰された騎手


「……ゼッ、ハ……ゼェ」


「ブフゥーッ……! ブフゥーッ……!」


 ヴィクトリアマイルを走り終えた東條は、バインと共に息を整えるのに苦戦していた。


 酸欠で視界がチカチカと明滅している。限界を超えた激走で、バインは歩くことすらままならず、時折ふらつきながら、辛うじて立った姿勢を維持していた。


 厳しい戦いだった。消耗戦を調教師からオーダーされた時点で覚悟していたが、想像を遥かに上回る過酷なレースとなった。


 そんなレースを走り抜いた東條の勝負服は汗を吸って隈なく変色し、息は未だ整わず、指先は痙攣したように震えている。

 だが、騎手以上に消耗しているのは走ったバインの方だ。


 レース中、最終直線の中で東條はバインが死んでしまうと思った。明らかに限界を超えた走りを見せるバインに、これ以上この馬を走らせたら死ぬと思った。


 そう感じた上で、東條はバインに鞭を振るった。このままバインが死ねば、その背に乗る東條もまた死ぬ。

 全力疾走中の馬が突然死んで倒れるということは、時速70キロで走る車から飛び降りることと同義であり、即ち騎手の死を意味する。


 それでも、バインと一緒に死んでやるつもりで、東條は鞭を振るった。

 負ける位なら死んでやると、そうまでして勝とうとする馬に、応えられずして何が騎手かと、東條は死を覚悟してバインと共に勝とうとした。


 しかし、それでも届かなかった。それすらも通じなかった。

 テクノスホエールの圧倒的なポテンシャルに、そして、あの天童善児の騎乗に、完敗した。


 レースを終え、汗とも涙とも分からぬ水で顔を濡らす東條の胸を占めるのは、かつてない激走を見せたバインへの感嘆でも、自分とバインがゴールした後もまだ生きていることへの驚きでもなかった。


 天童善児にしてやられたという、苦い苦い敗北感だ。


 天童善児が一度だけ振るった鞭。それに応えてテクノスホエールが見せた最後の伸び。


 あれこそがテクノスホエールの強さの真骨頂だった。他を寄せ付けぬ圧倒的なスピードで逃げた上で、あの馬はそこから更にもう一伸びしてみせる。


 逃げて差す、という、競馬の常識を無視するかのような走りを、あの馬はやってのける。


 並走して先頭争いをしても、後ろから差そうとしても、その最後の一伸びが出来るが故に、テクノスホエールは全ての逃げ先行の馬を置き去りにし、全ての差し追い込みの馬を突き放す。


 だからこそ、その最後の一伸びをさせない為の消耗戦だった。


 鈴を付け、ペースを乱し、スタミナを削り、脚を使わせる。必殺たる最後の一伸びを使わせない為に、ゴール前までにそれが出来ない状態までテクノスホエールを疲弊させる。その為の消耗戦だった。


 だが、使われた。バインの限界を超えた激走を持ってなお、テクノスホエールの体力を削り切ることは出来なかった。死闘の果て、最後の一伸びできっちりとどめを刺された。


 レース中終始バインが張り付き、そのペースを乱し、体力を削り続けてなお、テクノスホエールは伸びた。


 何故、テクノスホエールはそんなことが出来るのか。スタミナが無尽蔵だからか? バインのスタミナがテクノスホエールより劣っていたから負けたのか?


 違うと、東條は冷静に分析する。


 敗因はペースだ。テクノスホエールの走るペースを乱せなかった。いつからかは分からない。走っている最中、東條は間抜けにも全く気づけなかった。


 だがいつの間にか東條とバインは、テクノスホエールに『ついていこう』という意識で走らされていた。


 競りかけて、相手のペースを乱す役割に徹するはずが、いつの間にか敵のペースに合わせて走らされていた。


 だから息を入れられたのだ。おそらくは第3コーナーの下り坂を終えた辺りで、天童はテクノスホエールのスピードを緩めた。

 下り坂の傾斜がなくなるタイミングに合わせ、天童は真横を走る東條やバインに悟られることなく減速し、テクノスホエールを休憩させ、脚を溜めた。


 テクノスホエールに『ついていく』ことに一杯いっぱいになっていた自分とバインは、それに気づけなった。


 気づけないまま、自分達は全速力でテクノスホエールの体力を削り続けていると、錯覚させられた。


 そしてその錯覚のままゴール争いに突入し、溜めた脚を解放されて、なす術なく敗れた。


 消耗戦でテクノスホエールのスタミナを削り切れば、バインにも勝機はある。調教師郷田の読みは当たっていた。消耗戦の果て、ゴール前でバインはホエールに並んだ。


 しかしその策を、天童が打ち破った。その騎乗によって東條とバインを騙し、馬に息を入れさせる技術によって、テクノスホエールのスタミナを天童が残した。

 郷田が作ったバインの勝機を、天童によって潰された。


(ふざけるな。じゃあ俺はなんだ。何の為にバインの背中に乗っている)


 東條は、知らず歯ぎしりをした。

 調教師が勝機を用意した。バインはそれに応え限界を超える走りを見せた。それを敵の騎手が阻んだと言うのに、では自分は一体何をしたのか。バインに何をしてやれたのか。


 肉体を酷使し、死にそうになりながら走る愛馬を、何度も鞭で打って痛めつけただけではないか。


(……何が、俺が勝たせてみせるだ)


 東條は、もはや何で濡れているのかも分からぬ自分の顔を、グローブで拭った。


「すまん、バイン」


 口をついて出たのは相棒への謝罪。その声は届いたのか。バインはただじっと、荒い呼吸を繰返しながら、堂々とウィニングランをするテクノスホエールの姿を、見つめ続けていたのだった。



あっちこっちで潰し合いしております。明日も昼12時投稿です。



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