前へ次へ
84/113

ヴィクトリアマイル ~玉の緒よ、絶えねば絶えね~


 1番のゼッケン付けた私は、いつものように最初にゲートの中へと案内された。

 牡馬達が暴れたマイルCSの時とは違い、今日の出走馬達は滞りなくゲートの中へ収まっていく。


 緊張する。私は今、すごく緊張している。どの位緊張しているかと言えば、誰か暴れてスタートを遅らせてくれないかと思う程度には、緊張している。


 ゲートの中でこんなにも緊張を感じるのは、新馬戦の時以来だ。

 それでも新馬戦の時は、本番までにやれることは全てやったという自信があったので、緊張しつつも早くレースよ始まれと思っていた。


 今日は違う。郷田先生の下、やれるだけのことはやったつもりだが、それが通用する自信が持てない。

 自信がないままスタートを待つということが、こんなにも不安なのだということを、私は今更ながらに知った。


 私の緊張が伝わったのだろうか。東條がそっと私の首を撫でてくれる。


「大丈夫だ。俺がお前を勝たせてみせる」


 この言葉もきっと、気休めなのだろう。東條とて自信はないのだろう。それでも、東條は励ましの言葉を掛けてくれる。


 その言葉で、私の中の集中の糸が、ピンと張るのを感じた。


 緊張はある。危機感はなくならない。負けるのは怖い。けれど、もうやるしかない。負けたくないなら勝つしかない。


 前を向いた。私を撫でてくれた東條の手が、私の頭を押す。スタートする為の姿勢に、戦う為の体勢に、東條が私を導いてくれる。


 大きく息を吸う。大きく鼻から息を吐く。

 同時、ゲートが開いて、私は勢いよくコースへと飛び出した。


 いける! スタートして1歩コースの芝を踏んだ時、私はその感触に思わず高揚を覚えた。


 私の蹄が力強く地面を噛む。一蹴りで身体が前に押し出される。去年怪我をした右前足が、芝を勢いよく後ろへ蹴り上げる。


 乗った。会心のスタートが切れた。一歩目でダッシュがついた。


 今日のコースは東京1600、NHKマイルで一度走ったコースだ。私が去年、最後に勝ったGⅠのコースだ。


 このコースはスタートと同時に緩やかな下り坂が始まり、そのまま500m近い直線が続く。傾斜と直線で勢いが乗り、スタートと同時に私の走りに更なるスピードが加わる。


 今、先頭だ。絶好のスタートを切った私は、他の馬達より半馬身前に出ている。

 いつもならここで、周囲の出方を窺いながら逃げ馬を先に行かせる。けれど、今日は私が先に行く。


 逃げる為に。私が初めて出会った強い逃げ馬に勝つ為に。その馬を潰すために、今日は私が逃げてテクノスホエールに挑む。


 先行策だったのだろう馬達を置き去りにする。1馬身前に出た。下り坂の勢いに乗って更なる加速を得る。2馬身前に出た。


 先頭に陣取り、逃げの位置に着いた。私は今、『逃げ』ている。このまま後ろに追いつかれず、先頭のままゴールまで逃げ切れば、今日の勝者は私になる。


 ゾクゾクと、いつもと違う走り方をしている違和感に、馬群に入らず先頭を進む不安感に、私の背筋を悪寒が伝う。


 このまま、こんなスタート直後から、遥か先のゴールまで、ずっと先頭を守り続けるなんてことが本当に出来るのか。


 スタート直後の、この500mに渡る長い長い直線を走り抜け、その後のコーナーを曲がり終えた先に待つ、気が遠くなるほど長い東京の最終直線を、ずっとずっと先頭で走り続ける?


 頭でイメージするのと、実際にレースで走る違い。

 初めて逃げに挑戦するが故に、今の自分の走りが正解なのか分からないという、新馬戦に逆戻りしたような心細さ。


 それらを振り払う為に、更に加速して後ろとの差を広げようとしたその時、私の右目が黒い影を捉えた。


 大外、一番外側の位置から、私に向かって迫ってくる、巨大な漆黒を捉えた。


 来た。


 来ると分かっていた。来ない訳がなかった。


 テクノスホエール。今日のレースの主役。今日のレースの圧倒的1番人気。今日のレースを見るほとんどの人間達から、勝つに決まっていると信じられている最強の逃げ馬。


 テクノスホエールの巨体が、大外から幅寄せするように私に迫る。大きな体、大きな脚、吸い込まれるような黒い馬体。大地を揺らし、芝を蹴り上げる、そのダイナミックな走り。


 その巨体が私に迫って来て、私の隣にぴたりと張り付いた。その大きな影に、自分が丸々飲み込まれたような錯覚に陥る。


 デカイ。隣に並ばれると、改めてこの馬はデカイ。下手な牡馬より断然に大きい。私の身体を優に3回りは上回るその圧倒的な巨躯。


 その巨体に、自分より大きな生物が迫ってくる圧迫感に、身体が(すく)みそうになる。

 音が大きい。テクノスホエールの蹄の音が大きい。そのダイナミックな音と迫力に呑まれそうになる。


 大きい。近い。迫力がやばい。苦しいほどの圧迫感を感じる。逃げ出してしまいたい。……怖い。


 怖がるな。怖がるな、怖がるな、怖がるな!


 ハミを噛んで更に前へと加速する。テクノスホエールの圧から逃れる為ではない。この馬に勝つ為だ。


 ビビッて横によれるわけにはいかない。圧力に屈して馬場の荒れた柵側に寄れば、私の方が不利になる。


 加速した私に、ぴたりと横に張りついてテクノスホエールが付いてくる。天童善児が付いてくる。

 鞍上の東條が、天童を睨みつけているのを感じた。

 私もテクノスホエールを見る。テクノスホエールの瞳を見る。


 テクノスホエールは私に見られていることに気づいたのか、ちらりと私の顔を確認した。


 その顔に、パドックで見せた優しさは欠片も残っていなかった。


 そこには私のことを品定めするような、自分について来れるのかと問いかけてくるような、傲慢な上位者の睥睨があった。


 私がその視線に睨み返す前に、テクノスホエールが私から視線を切る。天童が軽く手綱をしごく。テクノスホエールの速度が更に上がり、私の半馬身前に出た。


 こんなに飛ばすのか、こんなに序盤で。その速度に動揺し、しかし自分も速度を上げてそれに食らいつく。

 今日のレースにおいて、私の役割はずっとテクノスホエールに張り付くことだ。テクノスホエールに競りかけ続け、その体力を削り続ける。


 競って、競って、競って、競って、テクノスホエールが力尽きるまで競り続ける。

 テクノスホエールの体力を削り切って勝つ。それが今日の作戦。それが私がテクノスホエールに望める唯一の勝ち筋。


 だから離されるわけにはいかない。テクノスホエールに楽に前を進ませてはいけない。


 半馬身差を保ったまま、テクノスホエールに並走する。


 スタートして300m近く走った。まだ、300mしか走っていない。スタート後の最初の直線すら走り終えていない。


 テクノスホエールのスピードは緩まない。半馬身後ろで必死にそれに食らいついていく。

 400mを超えた。まだホエールのスピードは緩まない。長い。直線が長い。まだたった400m、レース全体の4分の1。こんな序盤でこんなに消耗したことはかつてない。

 けれど、テクノスホエールは悠然と、当たり前のような顔で走っている。


 速い。テクノスホエールが速い。スタミナとかそういう問題じゃない。シンプルにこの馬の逃げる速度が速い。

 馬群の中で体力を温存しながら眺めていては分からなかった。この馬は、こんなバカげた速度で先頭を走っていたというのか。


 そのスピードについていくだけで、私のスタミナが恐ろしい勢いで削られていく。


 覚悟の上だと、自分自身に気合を入れる。この馬が私より速いことなど、負けた私が一番よく知っている。そもそもここまで逃げておいて、今更後ろの馬群に帰る道など私には残されていない。

 500mを超えた。ようやく直線が終わった。第3コーナーに入る。


 そこでまた、ゆるやかな下り坂が始まった。傾斜に乗ってテクノスホエールの速度が更に上がる。


 まだ、速くなるのか。この馬は更に加速するのか。どうなっている。この馬のスピードはどうなっている。この馬の体力はどうなっている。


 だが、それでも、私が勝つ為には、この馬についていく以外に道はない。この馬のバカげた逃げ速度と、張り合い続ける以外の選択肢はない。


 テクノスホエールに合わせ、ヤケクソ気味に加速する。もういい。もう考えない。ゴールまで自分の体力が持つかなんて考えない。ただただこの馬の、巨体の隣に張り付くことだけに集中しろ。


 この馬に、置いて行かれないことだけに集中しろ。自分が苦しい分だけ相手も苦しいと信じろ。この半馬身差を保て。いつかこの半馬身差が縮まり、自分が先頭にたどり着けると信じろ。いつかこの化け物が、この差を維持出来ず沈んでくると信じろ。


 信じられずとも、どれだけ相手に余裕があるように見えても、私に出来ることは、私がやるべきことは、自分の体力を犠牲にこいつの体力を削り続けることだけだ。


 第4コーナーが終わり、最終直線に出る。また、直線に出る。

 スタート直後の直線とほぼ同じ距離。500mを超える東京の最終直線が待ち受ける。


 テクノスホエールは、テクノスホエールはまだスピードを緩めない。その顔を見る。向こう正面でその顔を見た時と顔色が変わらない。疲労の色が見えない。消耗しているようにも見えない。


 もう最終直線なのに、まだこの馬の限界が見えない。いつまで続く。この並走はいつまで続く。

 まだ半馬身差。この馬の速度に必死については来たが、差は全く縮まらない。相手の限界が見えない。自分の限界が近い。


 まだ。最終直線に入ったばかりなのに、首が持ち上がりそうになる。脚を前に出すのが遅れそうになる。

 まずい。疲労が襲って来た。私の身体に、限界が近づいている。ゴールまで残り、400m。


 東條が私のことを拳で押す。脚で押す。少しでもこの身体を前へ進めようと、私の騎手が全身で私の走りを補助してくれている。


 坂、坂だ。私は今、東京の高低差2mほどの小さな坂を登っている。きつい。東京の坂を、こんなにきついと感じたことはない。

 テクノスホエールは、テクノスホエールは私の隣で涼しい顔をしてその坂を登る。私を苦しめる坂を、平然と踏破していく。


 離される。まずい、このままだと私は離される。必死に守った半馬身差を広げられる。テクノスホエールのスピードについていけず、逆にスタミナを絞りつくされて、何も出来ずに沈んでしまう。


『また』手も足も出ずに、負けてしまう。


 こんなにも違うのか。スピードも、スタミナも、何もかも。

 通用、しないのか。こんなに走っても、どれだけ覚悟を決めても、どれだけ必死になっても、やっぱり私には初めから、何をやっても勝ち目なんてなかったのか。


 嫌だ。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!



 ハミを噛んだ。踏み込む一歩に力を込めた。

 やっていない。私はまだやり切ってない。私はまだ、全力を出し尽くしていない。私の限界はここじゃない!


 上がりかかった首の位置を元に戻す。脚の回転数を無理やりに上げる。悲鳴を上げる心臓の痛みなど無視する。


 まだだ。まだ私はやり切っていないだろ。出し尽くしていないだろ。


 思ったはずだ。牧場で、負けたまま諦める位なら死んだ方がマシだと。誓ったはずだ。負けたまま生き続ける位なら、いっそのこと死んでやると。


 何が『何をやっても』だ。自分の全力すら出し切っていない奴が、一体何を言っているのか。私はまだ、全然全力なんて出していない。


 だってその証拠に、私はまだ生きている。心臓が動いている。脚だってまだ走っている。


 本気で負けるより死んだ方がマシだと思っているのなら、本当に全てを出し尽くしたと言うのなら、私の心臓は破裂していなければおかしい。私の脚は千切れていなければおかしい。私はとっくに死んでいなければおかしい。


 まだ生きているということは、まだ怠けているということだ。出し尽くしていないと言うことだ。サボって走っているということだ。


 なら走れ。サボらずもっと動け。もっと加速しろ。もっと前へ出ろ。


 死んでもいないくせに、やれることは全てやったなどと、下らない妄言を垂らすな。


 私が命を賭けて勝ち獲ろうとしているものは、私の全てを賭けずして手に入れられるほど、安いものではないはずだ!


 テクノスホエールとの差が、3分の1馬身に縮む。


「ハイヤアアアア!!」


 私の気迫に、鞍上の東條が裂帛で応え、鞭を振り上げる。

 疲労する私を気遣い、今日のレース東條はここまで鞭を使わなかった。その気遣いを、東條が捨てた。


 その鞭を受けて、私は更に加速する。テクノスホエールとの差が、クビ差に縮まる。


 更なる速度を求めて、東條の鞭が私の身体を連打する。


 そうだ。そうだ東條。全て出せ。私に全てを出させろ。全部だ。全部全部全部全部全部出させろ。

 私では、出し尽くさねばこの女に届かない。全て賭けなきゃこの女に並べない。この女に勝てない。


 勝つ為に全てやりつくす。全て出し尽くす。


 視界が白く明滅する。関係ない。まだ足が動いている。なら問題ない。心臓が動いている。死んでいないならまだ足りない。


 さらに振り絞って前に出る。テクノスホエールとの差がさらに縮まる。テクノスホエールとの差が、差が、縮まって、その差はあと、もう、ない。


 テクノスホエールとの差が、消えた。


 並んだ。ようやく、ようやく私はテクノスホエールに並んだ。見える。ゴール板が見える。ゴールまであと、100mを切っている。


 一瞬で良い。あのゴール板を駆け抜ける瞬間だけでいい。その瞬間だけ私の身体がこの女の身体より、1mmでも前に出ていれば、私の勝ちだ。


 このまま、このままあと数十メートル。私の身体がもちさえすれば、勝てるかもしれない。勝てるかもしれない。勝てるかもしれない場所に、ようやく辿り着けた!


 だがその瞬間、テクノスホエールに並んだ瞬間に、強烈な視線を感じた。


 見た。見てしまった。私の右目が視線に気づくと同時、本能でその視線の主を確認してしまった。


 視線の主は、天童だった。


 天童は、テクノスホエールの鞍上からじっと私のことを見下ろしていた。

 獲物の殺し方の算段を付けるように、冷たい視線で私を見下ろしていた。


「―――チッ!」


 風の音に紛れて、天童の舌打ちが私の耳に届く。


 天童は私から視線を離し、前を向いた。真っすぐにゴールを睨んだ。

 天高く、天童が今日のレースで一度も使っていなかった鞭を振り上げる。


 よせ、やめろ。


 その時、天童が振り上げた鞭を振り下ろすまでの刹那、隣を走るテクノスホエールと目が合った。


 テクノスホエールの瞳が、隣を走る私のことを映していた。その目は喜びに満ちていた。

 自分に本気で勝ちに来た挑戦者の登場を喜び、今日のレースが一人旅にならなかったことを嬉しがっていた。


 その瞳は喜びと共に、私の健闘を称えていた。

 素晴らしいと。見事な走りだったと。私のことを認め、賞賛していた。


 やめろ。やめてくれ。喜ぶな。私はお前を玉座から引きずり下ろしに来たんだ。それなのに上から目線でよく頑張ったなどと、そんな風に私のことを褒め称えるな!


 天童の鞭の音が風鳴りに消える。風を(つんざ)いて、テクノスホエールが大地を踏みしめる。


 風に乗る様に加速して、風を割る様にテクノスホエールは前へと飛び出した。


 巨鯨が海面から飛び出すように、先頭へと躍り出た。


 私より半馬身前へ、私が死に物狂いで必死に詰めた差が、振り出しに戻された。ようやく並んだと思ったら、鞭一発で突き放された。


 待ってくれと、思う間もなく、大きく美しい黒馬がゴール板を駆け抜ける。後ろから迫って来た差し馬達に追いつかれそうになりながら、私が続けてゴールする。


 王者を称える大喝采が、テクノスホエールを包む。


 敗者の健闘を称えるまばらな拍手が、私に降り注いだ。



半馬身差で2着

続きは明日の12時投稿します。



「面白かった!」と思っていただけた方は、下にある☆マークから作品への応援をお願いします!


ちょっとでも「続きが気になる」と思っていただけた方は、是非是非ブックマークをお願いいたします。


何卒よろしくお願いいたします。

前へ次へ目次