総力戦に臨め ~テクノスホエールをぶっ潰す~
「今までと同じ走りではもちろん勝てんさ。バインの末脚ではテクノスホエールに追いつけないということは、去年のマイルチャンピオンシップで証明されてしまったからな」
郷田厩舎の事務所内、その日のバインのトレーニングを終えた東條は、調教師の郷田とテーブルを挟んで向かい合っていた。
気軽にも聞こえる調子で、テクノスホエールに対するバインの勝ち目のなさを語る郷田。
だが、東條は知っている。この郷田という調教師は、少なくともバインという馬のレースに限っては、簡単に勝ちを諦めるようなことはしない人だということを。
そして、バインの騎手として付き合う内に東條は学んだ。
郷田が『こういうやり方では勝てない』という話し方をする時は、『こうすれば勝てる』という勝ち筋が、すでに郷田の中にある時だということを。
「……末脚で勝てないということは、走る位置を前にあげて戦うということですか?」
郷田の考えを半ば予想しながら、東條は質問を投げる。
「バインで『逃げ』を打つ。それが、ヴィクトリアマイルでの俺達バイン陣営の作戦ということですよね?」
その確認作業とも言える東條の質問に、郷田は不敵にも見える薄い笑みを浮かべながら頷いた。
「まあ、簡単に言ってしまえばそういうことになるな。トップスピードで届かない相手に勝とうというなら、後はもうスタミナで挑むしかないという訳だ」
至極単純な話だよ、と、郷田は呟いてテーブルに置いてあったコーヒーを口にした。
郷田の話す作戦。テクノスホエールを後ろから差せないのなら、テクノスホエールより前で逃げて粘り勝つという単純な発想は、もちろん東條の中にもあった。
しかし、そんな単純な作戦であのテクノスホエールと天童に勝てるのだろうかという疑念から、東條はそれを口にするのをためらっていた。
そもそもバインはデビュー以来、ずっと先行策で勝ってきた馬である。逃げに近いような位置でレースをしたこともあるが、それは展開でそうなっただけであり、狙って逃げたことは一度もない。
あくまで先頭集団で控え、勝負所で飛び出し、先頭を捉えたら、その後は後ろから差されないようゴールまで粘り続ける。それがバインの必勝パターンだ。
逃げを打つということは、そのスタイルを捨てると言うことになる。
古馬と呼ばれる四歳になってから、これまでの実績あるやり方を捨て、まったく新しい走りに挑戦するということである。
「ここにきて逃げを試す訳ですか。バインが逃げられる馬かどうか、俺は未知数だと思うんですか」
「それは俺にとっても同じだよ。とはいえ、ずっと前目の競馬で勝ってきた馬だからな。やろうと思えば逃げだって出来るだろうという期待はあるが、こればっかりはな。レースで試してみなければ、その走りがその馬に合うかどうかは結局分からん」
試してみて駄目ならそれはもうしょうがないな、という、どこか突き放すような郷田の言葉。
東條はその態度に少しむっとして、質問を続けた。
「なら、ヴィクトリアマイルの前にどこかで一度逃げを試すことは出来ないんですか。何もGⅠでいきなり初挑戦の逃げを試さなくても、どこかで一度叩きで使って、」
「それは駄目だ」
きっぱりと、郷田がそれまでの会話の中になかった強い声で東條の言葉を遮った。
東條が驚いて言葉を飲み込み、郷田の顔を見る。
「バインにとって、次に出るレースは特別だ。何せ2連敗中だからな。3連敗などしてたまるかと、あいつは休養明けも叩きも関係なく全力で走る。絶対に全力で、走ってしまう。でもそれじゃ駄目なんだ。それじゃ本番でテクノスホエールに勝てなくなる。テクノスホエールに勝つ為の体力を、叩きで使わせるわけにはいかない」
郷田の顔には、東條が初めて見る真剣味があった。その瞳の奥が、燃えていた。
その燃えているものは、天童騎手の瞳の奥で常に燃えているものと同じだった。
あるいは歴戦の調教師達や、ゴール前で必死に馬を追う騎手達の瞳に宿るものと、同じ種類のものだった。
瞳の奥を煌々と燃やしながら、郷田は言葉を続ける。
「次走ヴィクトリアマイル、バインにやって貰うのはただの逃げじゃない。ただ普通に逃げるだけでは、天童とテクノスホエールには届かない。バインにはホエールに消耗戦を仕掛けて貰う」
「消耗戦?」
東條が聞き返すと、郷田は強く頷いた。
「そう、消耗戦。それも、自分の体力を敵の体力ごと絞り尽くすような、徹底的な消耗戦だ。誰より早く前に出、誰より全力を振り絞り、誰より過酷に走りぬく。そういう走りを、バインと東條君にはしてもらう」
パシッ、と、話しながら気合を入れるように、覚悟を決めるように、郷田は自分の左手の平を右の拳で打った。
「君達がテクノスホエールを潰すんだ。作戦も騎乗技術も通用しない、ただただ根性とスタミナを削り合う泥仕合に、ホエールと天童を引きずり込む。それが現状唯一の、バインという馬が逃げの名手であるテクノスホエールに逃げ勝ちする、ただ一つの勝ち筋だ」
逃げ。レース序盤で先頭に飛び出し、後続を突き放しながら走り、そのまま誰にも追いつかれずにゴールするという競馬の作戦の一つ。
一言で逃げと言っても、その様態は様々ある。
圧倒的な速度で終始後続を寄せ付けないスピード型。先頭で馬群のペースを制御し、レース展開そのものをコントロールする駆け引き型。先頭でレースを高速化させ、後続のスタミナと脚を削り潰すスタミナ型。
つまり、数ある逃げの形の中から、最も逃げ馬の身体に負担を掛けるスタミナ型、消耗戦の戦法をヴィクトリアマイルで実行しろと、郷田は言っているのである。
「怪我からの復帰明け1戦目、放牧明け最初のレースで、そんな過酷なレースをバインにさせろと言うんですか?」
「そうだ」
「ただでさえ実戦で初めて逃げに挑戦するのに、その中でも一番馬に負担の掛かる方法で逃げてみろと?」
「そうだ」
「バインは、バインにそれが出来ますか?」
『バインは無事で済むのか?』という不安を飲み込んで、東條はその作戦の可否を問うた。
2敗目となったレースで骨を折り昏倒するまで無茶をしたバイン。負けたくないがためにそこまで無茶をしてしまう奇馬。
そんな馬を、今までのどんなレースよりもスタミナを消耗し、肉体を酷使する作戦で、3連敗の掛かったレースに挑戦させる。
そのリスクの高さを想像し、東條は自分の手の平が汗ばむのを感じた。
「出来る出来ないではなく、それをやる以外現状バインに勝ち目はない。そしてそれを出来るようにするのが俺の仕事だ」
しかし東條の確認に、それでも郷田は消耗戦を推すことを止めなかった。
「これは負け惜しみにもなるが、去年のマイルCSの敗因の一つは、中距離の秋華賞の後そのままマイル戦に乗り込んでしまったことだ。当たり前だが、2000mを走り抜く身体作りと、1600mを全速力で逃げ切るスタミナ作りは全く違う仕事になる」
そして、郷田が語ったのは去年のマイルCSと、これから挑むヴィクトリアマイルとの状況の違いだった。
去年の秋、バイン陣営の大目標はあくまで秋華賞の勝利による牝馬二冠の達成だった。
その為に中距離戦を戦い抜けるよう、バインは夏から厳しいトレーニングを乗り越え、中距離戦用の身体を作った。
だが、それはあくまで中距離2000mを走り抜く為の身体づくり。それは当然、1600mのマイル戦で勝つ為の調整ではない。
去年のマイルCSで、バインは中距離用の筋肉をその身にまとったまま、マイルの女王に挑戦したのである。
「今年の春のバインの身体はマイル専用に特化させる。去年のマイルCSの時のような、心に身体がついていかずに倒れるような無様は、二度とバインにはさせないつもりだ」
最悪の事態にならないよう準備を整えた上で挑む、という郷田の言葉。
その言葉に、東條は郷田もまたバインという馬の脆さや、バインがこのまま負け続ける危険性を理解しているのだと悟った。
この調教師は全ての危険を分かった上で、あえて消耗戦をバインにやらせようとしている。
つまり、本当にもうそれくらいしか勝つ手段がバインにはないということなのだろう。
どれほどのリスクを背負ってでも、テクノスホエールという格上に挑戦することを絶対にやめないという、調教師の覚悟のほどを東條は理解した。
そしてその覚悟と同じものを、バインという馬もまた抱いているということを、東條はもう知っている。
東條は、手汗の滲む手の平を静かに机の下で握った。東條もまた、覚悟を決めた。
「ヴィクトリアマイル当日の話になりますが、バインは逃げを打つとして、別の誰かがテクノスホエールに鈴を付けに行った場合は?」
そしてレース本番の話を調教師と進める。本番当日どう乗るか、どう走るか、何を想定し、何を避けるか。
自分のするべき騎乗と、調教師の思い描く勝ち筋、それを本番で一致させるために。本番で勝つ可能性をわずかでも上げるために。
「鈴を付けに来た馬は無視だ。ホエールに鈴を付けるのはあくまでバインの役目。他の馬がホエールを潰してくれるかもしれない、という期待は捨ててくれ。極端な話、ホエール以外の馬はいないものと思っていい」
鈴を付ける、とは、レースにおいて逃げ馬に競りかけてそのペースを乱す役割を担うことである。
先頭を進む逃げ馬のペースを乱し、スタミナを削り、妨害する仕事だ。
テクノスホエールに消耗戦を挑み、そのスタミナを削ろうと言うならば、当然ホエールに鈴を付ける役割はバインが担うことになる。
その役目を他の馬に譲ってはならないと、郷田はそう言っている。
「テクノスホエールに競りかけて、バインとホエールの2頭が逃げ合いながら互いの体力を削り合う、そういうレースになるということですよね」
「それが俺達にとって理想の展開だな」
「そもそもホエールは、というか天童騎手は、その競り合いに応じてくれるでしょうか?」
逃げのリスクは終盤のスタミナ切れだ。
あの天童騎手が自分の馬のスタミナ管理をミスって競り合いに応じるとは、東條には想像出来なかった。
「それは天童というよりも、ホエールがバイン相手にムキになってくれるか次第だ。結局それもやってみなければ分からないとしか言えん。ホエールに後ろで控えられてしまったら、その時はもう観念して大逃げするつもりで走るしかない」
相手が消耗戦に応じずとも、バインの体力を限界まで使い切ることは変わらないという方針。
こちらにとって決死である消耗戦ですら、相手に乗って貰えなければ成立しないという現実。
一か八かの賭けが成立するかどうかが、他ならぬ敵の出方次第で決まると言う不確定さ。
「……何もかも上手くいき、天童騎手が消耗戦に応じてくれ、バインがホエールの体力を削り切って沈めたとします。その後に他の馬にバインが差されてしまう可能性、というか、それが出来そうな馬はどの馬だと郷田さんは考えていますか?」
「そんな無駄なことは考えないよ。考える意味がない。ホエールを沈めた上で、他の馬に追いつかれてしまったなら、その時は差した相手を褒めてやれ。東條君とバインは、ただただホエールと心中するつもりで走るべきだ」
それは、本当にテクノスホエール以外の馬をいないものとして走るという暴挙。
他の馬に勝ちを譲る結果になったとしても、テクノスホエールだけには勝たせないという、執念の消耗戦。
マイルCSで負けて以来、東條はずっと考え続けてきた。バインに乗って天童とテクノスホエールに勝つ方法を。しかし、結局今日まで東條はそれを思いつくことが出来なかった。
こうなれば勝てるという現実的な可能性を、見つけることが出来なかった。
しかし今日、それを調教師が提案してきた。東條がついぞ見い出せなかった、『こうやって勝て』という方法を、郷田に披露された。
作戦と呼んでいいのか定かですらない、薄い薄い勝ち目に縋ったその指示。
復帰明け一戦目でどこまでバインのコンディションを整えられるのか。
バインが逃げられる馬なのか。
過酷な消耗戦を怪我無く走り抜くことは出来るのか。
そもそも相手が消耗戦に応じてくれるか。
応じてくれたとして、怪物テクノスホエールの体力を削り切ることが出来るのか。
削り切ったとして、その後ゴールするだけの体力がバインに残るか。
すべて上手くいったとしても、その後他の馬に漁夫の利を奪われるリスクが残る。
そしてそのつらつらと浮かぶ懸念事項のどれもが、ぶっつけ本番で試さなければどうなるか分からないという恐怖。
勝つ為には、その条件全てを本番一発勝負でクリアしなければならないという無理筋。しかし、その無理筋を全て通しきらなければ、勝てないという現実。
「やってみなければ分からないことだらけ。本番でどうなるか分からないことだらけ。博打も博打、大博打としか言いようのない作戦ですね」
不安を紛らわせるために、東條は呟いた。
「博打じゃない。挑戦だよ」
しかし、その呟きを郷田が否定する。
「勝てるかどうか分からないレースは全て博打、いつだったか東條君はそんな話をしたな。俺もその通りだと思う。だが、勝つか負けるか分からない博打というのは、運次第で掴める勝ち目があるということだろう」
郷田の言葉に東條は頷く。バインがまだ二歳の時、阪神JFを控えていた頃、確かに東條は郷田とそんな言葉を交わした。
「だがこれから俺達がやるのは、博打ではなく挑戦だ。勝ち目のほとんどない勝負に、それでも勝とうとする挑戦だ。競馬に絶対はない。不可能もまたない。だから勝つ為に、まともに考えれば不可能なことにバインは挑まなきゃいけない」
郷田の瞳の奥が、燃えていた。
「俺達が連れて行くんだよ。バインを賭場まで連れて行くのが俺と東條君の仕事なんだ。不可能をこじ開けて、バインを賭場まで運び込む。それが出来た時初めてバインは、一か八かの賭けに出ることが出来る。不可能を乗り越えた先で、幸運を掴めるかの勝負が始まる。俺達がこれからするのは、そういう挑戦なんだ」
その瞳の奥の炎。その声に宿る力。その顔に宿る、挑戦の先にこそ勝利があることを知る確信。
その全てを見て、東條は悟った。この人はこうやって勝ってきたのだと。
郷田太。かつて美浦の頂点に君臨した天童善児のライバル騎手。天童を差し置いて、GⅠに最も強い騎手と言われた男。
何故、郷田は天童のライバルとなり得たか。何故、天才天童を差し置いて数々のGⅠを制したか。
挑戦し、勝ってきたからだ。自分より強い天童を相手に、自分より良い馬に乗る天童を相手に、不可能や無謀とも言える騎乗で幾度となく挑戦し、それに勝ってきた。
そんな男が口にした『挑戦』という言葉の意味と重さ。それを東條は理解し、バインという馬の立ち位置を郷田と共有した。
勝ちを確信できる勝負だった、2歳GⅠ。
ライバル達が台頭し、勝つか負けるか分からない博打を駆け抜けた3歳シーズン。
それらが終わり、4歳になり古馬となった今、バインの戦いは新たなステージに入ったということなのだ。
格上への挑戦。不可能への挑戦。無理筋を辿り、無茶を通した先で、一か八かの勝負を仕掛ける、負けて当然を勝つ為の戦い。
バインにとっての、そして東條と郷田にとっての挑戦のシーズンが、春と共にもう幕を開けていた。