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東條の約束


 天童が乗る逃げ馬を、東條は差し馬に乗って追い掛けていた。


 重賞でも何でもない、ただ普通の3歳未勝利戦。

 東條が乗る馬は1番人気、天童が乗る馬は4番人気。


 上がりの時計も、当日の仕上がりも、東條の乗る馬は出走馬の中で最も良かった。十分に勝ちを狙えるレースであるはずだった。


 だが、蓋を開けてみればどうか。東條は鞭を振るい、拳で押して、馬を全力で追っている。2位の位置から先頭との差を徐々に徐々に詰めている。実況が興奮を伝え、観客は湧いている。しかし、


(駄目だ。これは、これはもう届かない……)


 天童と同じレースに出、天童に負ける時、東條はいつもこの感覚に襲われる。

 この、『どうやっても最初から勝ち目などなかった』という感覚に。


 そして結局、東條の馬は1馬身差に追いつき、半馬身差に迫り、クビ差まで届いたものの、それ以上差を埋めることなく2着でゴールした。


 ゴール後、健闘を称える拍手を聞きながら、東條は思う。天童の思い通りのレース運びになってしまったと。負けて思うのは、自分とリーディングジョッキーである天童との実力の隔絶だ。


 今日のレースの馬の実力は、東條が乗る馬の方が上だった。東條自身の騎乗についても、ミスらしいミスなどなかった。馬場も、天気も、枠番も、マイナス要素など何一つなかった。


 それでも負けた。当たり前のように、初めからそうなると決められていたように、気付けばどうやっても追い抜けない位置に天童がいて、何も出来ないままゴールした。


 僅かクビ差での敗北。今日このレースを見た者は、惜しかったと言うだろう。あともう少しで勝てたのにと。

 しかし、負けた東條にだけは分かる。今日のクビ差は、絶対に埋まらないクビ差。今日のレースを何度繰り返したとしても、あれ以上差を詰めることは出来ない絶対的な差だと。


 テクノスホエールよりずっと弱い馬に乗って逃げる天童に、天童の乗る馬より強い馬に乗った東條は、完膚なきまでに負けたのである。


 悔しさを感じる一方で、東條の頭の冷静な部分が、負けるのは仕方のないことだと囁く。

 天童騎手は押しも押されぬリーディングジョッキー、2位以下の騎手を大きく突き放して騎手の世界の頂点に君臨する、日本最強の騎手なのだから。


 天童が一番人気の馬に乗ってレースに出る時、同じレースに出走する騎手達はよくこんなことを口にする。『天童が強い馬に乗っている日は負けて当然、勝てたら自慢』だと。


 実際に東條も、そんな心持で天童に挑んだことは何度もある。そして、負ければ仕方ないとそれを気にしないようにし、運良く勝てた時はそのレースを自慢にしてきた。しかし、それでも思う。東條は思う。


 勝ちたいと。次こそは、次だけは勝たなければならないと、そう思う。


 叶うなら今年のヴィクトリアマイルで、バインに乗って、テクノスホエールに乗る天童騎手に東條は勝ちたい。


 何故なら去年の秋、東條はバインをテクノスホエールに勝たせてやることが出来なかった。


 バインという馬は、レースの勝ち負けを理解している馬である。レース中、どんな無茶をしてでも勝とうとする、特別に強い闘争心を持った競争馬だ。


 だから秋華賞で初めてバインが負けた後、その後バインが厩舎で奇行を繰返し、暴れるようになったと聞いた時、東條はそれに対して驚きを感じなかった。


 バインほど賢い馬ならば、悔しがってそういうことをすることもあるだろうと思った。

 負けると機嫌が悪くなって厩務員や他の馬に当たる馬、負けると落ち込んで餌を食べなくなる馬、そういう馬はたまにいる。


 競争心の強いバインもそういう気質を有していたのだと、そう大事に考えなかった。


 ことがそんな簡単な話ではないと分かったのが、マイルチャンピオンシップ。他でもない、テクノスホエールと天童騎手に負けた時。


 あの日も東條は、レースの最中天童の背中を睨みながら、負けを悟った。これはもうどうやっても追いつけないと、最終直線の最中で諦めに呑まれかけた。


 だがバインは諦めなかった。テクノスホエールに追いつけるはずもないのに、そのガムシャラな走りで何とかその差を詰めようとした。


 そしてそれは、バインという馬の限界を超える走りだった。

 脚の骨に亀裂が入り、心拍が狂ってまともに心臓が動かせなくなるほどの、肉体の酷使だった。


 その時、ようやく東條は理解したのだ。バインがどれだけ秋華賞の敗戦に傷ついていたのかを。バインという馬が、負けることに対しどれだけ弱い馬なのかを。


 どんな馬よりも、誰よりも勝つことに必死になる馬、バインバインボイン。

 そんな馬が負けた時にどうなるのかという重大さを、東條は理解していなかった。


 バインは負けた時、それを引きずる馬だった。

 負けたことを反芻するように何度も何度も悔しがり、切り替えることなく抱え込み、そのまま次のレースに突っ込んでいく、そういう馬だった。


 そしてその心の持ちようは、次こそ絶対に負けないという執念を産む。しかし、それでも次また負けてしまった場合、より大きく傷ついてしまうという脆さにも繋がる。


 バインは強い馬だ。けれど、本当はその強さ以上に脆い馬でもあった。そのことに、デビューから勝ち続けてしまったがために、3歳の秋の終わりまで誰も気付けなかった。


 マイルチャンピオンシップで、限界を超えた走りの果てにバインが倒れた時、『予後不良』の4文字が東條の頭をよぎった。

 レース後、落ち込み過ぎるほど落ち込み、餌すらろくに食べなくなったバインを見て、東條の頭に『引退』の2文字が浮かんだ。


 バインという馬の、限界を見た気がした。

 競馬という競技は、本来勝つことよりも負けることの方が多い。生涯無敗の馬など滅多にいるものではなく、GⅠを制した名馬であっても、生涯戦績を確認すれば勝ったレースより負けたレースが多いことなどザラだ。


 騎手として突出した実力を誇る天童騎手ですら、年間勝率は25%を超える程度。あの天才をもってして、出走するレースの半分以上で負けている。


 競馬に絶対はない。それほどに競馬で勝ち続けると言うのは、人にとっても馬にとっても難しいことなのである。


 そんな競馬の世界において、たった2度負けただけであそこまで追い込まれ、メンタルを崩してしまうバインという馬の脆さは、現役続行を不安に思うに十分な要素だった。


 たった1度の負けの後、2度目のレースで脚を折ったバインが、3度目のレースでも負けるとなれば、その時どこまで無理をしてしまうか分からない。


 あるいは本当に、競走馬として最悪の結末すら想定しなければならなくなる。


 ならばいっそ、最悪の事態に至る前にここで。

 これ以上負ける前に、ここで引退させて安全な牧場に帰してやることこそが、馬の幸せになるのではないかと。


 東條は本気でそのように考え、しかしそれでも、負傷して放牧に向かうバインに向かい、『待っている』と言った。


 それは、東條のエゴでしかない言葉だった。これ以上は危ないと感じながらも、東條はバインという馬を諦めることが出来なかった。


 自分が出会った、自分に本当の勝負というものを教えてくれた、あの素晴らしい馬が、手も足も出ずに負けたまま引退するだなんて、そんなことを認められるはずがなかった。


 だから、身勝手にも言ってしまったのだ。傷ついたバインに向かって、無責任にも『待っている』などと。


 そして、バインは帰ってきてくれた。牧場から戦場へ。東條の下へ、再び天童とテクノスホエールに挑むために。


 だからこそ、東條は東條の言葉に応えてくれたバインに報いなければならない。


 東條はかつてバインに約束した。自分が必ずバインをGⅠに勝たせてみせると。


 その約束は、東條の中ではまだ終わっていない。『GⅠを1度だけ勝たせる』とは東條は約束していない。


 東條はその約束を果たさなければならない。誰が相手であろうとも、どれほどの困難であろうとも、バインが勝利を望むのならば、東條は何度でもバインをGⅠで勝たせなければならない。


 それがバインと初めて会った日の約束であるが故に。その約束は、自分がバインに相棒と認めてもらう為に交わしたものであるが故に。


 勝ちたい。勝たなければならない。


 ウィニングランを終え、計量室に下りて来た天童を横目で睨みながら、東條は無意識に、強く拳を握ったのだった。




本日は2話投稿。続きは本日夜8時に投稿します。

次話はヴィクトリアマイルの作戦会議です。




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