調教師から見た主人公
騎手をその背に乗せ、ウッドチップコースを走るバインを見ながら、その調教師である郷田太は改めて思った。
この馬は果たして本当に強いのだろうか? と。
バインという馬が賢い馬だということは、出会ってすぐ郷田にも分かった。
馬名を呼ばれると耳を後ろに倒し、あからさまに不機嫌になったからだ。
おそらくそのユニークな名前を呼ぶ時の人間の態度から、馬名を『自分を馬鹿にする言葉』として覚えてしまったのだろう。
人間の感情を読み取ることが出来る頭の良い馬なのだと、そう思った。
だが賢い馬がレースで勝てるかというと、必ずしもそうではない。当たり前だが、頭の良さと脚の速さは別問題だ。
賢いがために手を抜いて怠けることを覚えてしまい、そのせいでレースで活躍出来なくなってしまう馬もいる。
とはいえ、バインは賢い『だけ』の馬ではなかった。
まず、走るのが大好きな馬だった。生産牧場でも群れから離れ、一頭で牧場を駆け回る変わり者だったという。
郷田厩舎に来てからも、その走りに対する姿勢は変わらなかった。
何せトレーニングが終わった後も、厩舎に帰ろうとせず更に走ろうとしてしまうのである。
トレーニングそのものよりも、トレーニングを終わらせる方が大変という、おかしな馬だった。
その対策として、バインを満足させるため通常より多めのトレーニングを課すこととなり、結果デビュー前にして馬体は随分と仕上がった。
走るのが好きなバインの為に、ウッドチップやポリ、坂路など、様々なコースを走らせてみたことも、その仕上がりに大いに貢献したと郷田は考えている。
気性についても、多少我侭なところはあり、若い人間を舐めてしまうきらいはあるが、気性難というほどではない。
年若い厩務員は時折反抗され苦労しているようだが、郷田の指示には驚くほど素直に従ってくれる。
人を背に乗せて走ることについては全く嫌がらず、鞭すら嫌がらず、ゲート試験も一発で合格した。
そう。バインバインボインは、そのふざけた馬名とは裏腹に優秀で頭のいい馬なのである。
これだけ好条件が揃っているのだから、本来ならそれこそ重賞を期待していいほどの馬であるはずだった。
ましてバインの馬主はテレビで有名な大物タレントだ。
もしもバインが重賞を勝ったなら、それがテレビで注目されるのは必然で、そうなれば郷田厩舎も名前が売れて今後の調教依頼も増えるかもしれない。
そういった点でもバインは、郷田厩舎の期待を一身に背負ってしかるべき馬であるはずだった。
だがしかし、しかしである。
何故だろうか。郷田はどれだけバインが好タイムを出しても、バインを『強い馬』だとは思えなかった。
どれだけバインが頑張る姿を見ても、レースで『勝てる馬』だとは思えなかった。
コースを一周し終え、バインが主戦となる予定の騎手と共に戻ってくる。
時計を見れば、やはりそのタイムは優秀だった。
「……今日はもう一周走ろう。次は俺が乗るから」
「え? あ、はい」
「ぶるる!」
予定になかった郷田の言葉にバインの騎手は慌てた様子を見せ、バインは嬉しそうに鼻を鳴らした。
そして早く乗れと言わんばかりに、バインが郷田に自分の身体を摺り寄せてくる。
本当に、人間の言葉が分かっているような仕草をする馬である。人懐っこい、とても可愛い馬である。
騎乗の準備を終え、郷田はバインに跨りコースに立った。
そして鞍上に乗った郷田は今日も、バインに対しいつもと同じ感想を抱いた。
別に『普通』の馬だよな、と。
郷田は元騎手である。20年に渡る騎手生活によって培った感覚で、郷田は騎乗さえすればその馬がどの位走れる馬なのか、ある程度判別できる自信があった。
その感覚が言っているのだ。バインという馬は、賢さ以外に特筆する要素のない『普通』の馬だと。
頑張ればオープン馬位にはなれるかもしれないが、重賞を勝つ見込みはほとんどないような平凡な馬だと。
郷田がスタートの合図を送ると同時、バインが勢いよく走り出す。
見事なスタートだった。直線でもよれることなく、そのまま真っすぐ走り続ける。
コーナーに差し掛かると、これまた膨れることなく綺麗に曲がる。
相変わらず器用に走る馬だと、郷田は胸の中で呟いた。
乗りながら、ラップを頭の中で数える。
騎手の必須技能でもある、馬に乗りながら体内時計でそのラップを計る技術を、郷田はもちろん会得していた。
そうして計ったタイムは、残念ながらそこまで速いものではない。とはいえ、ついさっきコースを一周してきたことと、馬なりで走らせていることを考えれば、十分及第点と言えるタイムだった。
人を嫌がらない懐っこい性格、癖のない乗り心地、綺麗な走り、優秀なタイム。
2歳の春にここまで仕上がる馬など、早々いるものではない。
しかし何故だろう。これだけ優秀な馬を預けられたのに、自分は何故この馬を『普通』としか思えないのか。
自分は一体何が気に入らなくて、この馬の走りを『真面目で面白味に欠ける凡庸な走り』と思ってしまうのか。
そしてバインに乗る度に感じる、正体不明の違和感。
この、乗るたびに感じる、『この馬は馬っぽくない』という違和感は、一体何なのか。
そうして今日も郷田は自分の違和感の正体を掴むことなく、バインを『速い』とも、『強い』とも、『勝てる』とも思えないまま、コースを一周し終えた。
手綱を引き、バインにトレーニング終了を伝える。走るのを止めたバインは、ご機嫌な様子で尻尾を元気に上下に揺らしていた。
バインから降りたところに、先ほど交代した騎手がやってくる。念の為タイムを確認すれば、郷田が数えた通りのタイムだった。
「この調子なら新馬戦もいけそうですね」
能天気に騎手が言う。だがその通りだ。
郷田の感覚がどれだけ否と言おうとも、タイムという動かしようのない数字が、バインという馬の優秀さを証明している。
そして郷田とて分かっているのだ。
自分の根拠のない感覚よりも、重視しなければいけないのは現実の数字。
これほど仕上がっている馬のデビューを、遅らせていい理由はない。
「そうだな。いよいよ来月が本番だ」
今の季節は、日本ダービーの開催が迫る春の5月。
競馬の世界には、1年はダービーに始まりダービーに終わるという言葉がある。
何故そんな言葉があるのか。
その理由の一つは、ダービーの翌週から新馬戦、すなわち2歳馬達のデビュー戦が始まるからだ。
「ブルルル!」
郷田の不安を余所に、いつにもまして勇ましく、バインは鼻を鳴らしたのだった。
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