郷田の炎
『情熱を燃やし続けるというのは、一種の才能や。何事であれ、一生情熱を失わずにいられる人間というのは稀や。弱い情熱は3日ともたずに消える。勢いに乗って燃え盛る情熱も、1度の挫折であっさり消える。燃え続けるというんは、それほどに難しい』
郷田は考える。バインの引退を決めた大泉笑平オーナーの言葉を考える。
情熱を燃やし続けるのは難しい。笑平はそう言った。それに対し郷田はこう反論した。
バインは情熱を失ってなどいない。敗北と怪我から立ち上がり、再戦に向けトレーニングに励んでいると。
郷田の言葉に、笑平は力強く頷いた。
『初めて負けて怒り、続けて負けて落ち込み、天狗の鼻をへし折られて、去年のあいつはこの世の終わりみたいな顔しとった。でも、そこからあいつは悔しさをバネに立ち上がりよった。何度負けても勝つまで続けてやると、覚悟を決めて戻ってきよった。よく折れずに帰って来たと、俺はあいつの顔を見て嬉しくなった。けどな、』
その時、笑平の顔にわずかに残っていた微笑みの跡が、消えた。
『あいつ、立ち上がったのに、立ち直っとらん。負けを丸ごと抱え込んだまま帰って来てしもうた。もう後がないと思い詰めた人間と同じ目の色をしとった。あれは、危ない。あいつは今、長くはもたん危ない立ち方をしとる』
笑平の言わんしていることが抽象的で分かりづらく、それはどういう意味かと聞き直せば、笑平は難しい顔をして腕を組んだ。
『負けた時に反省し、切り替えて、次勝つことを考える。それが健全な精神的強さというものやろ。その切替が出来る器用な奴だけが、情熱を持ったまま長く続けることが出来る。その切替が出来ず、いつまでも負けを抱え込んで悔しがり続けるというのは、情熱の火力を強めはするが、長くはもたせられん。そういう奴は燃えて燃えて、ある日突然パタッと燃え尽きてしまう』
郷田先生で言うたら、騎手引退1年前のダービーの時がそうだったろうと、笑平が不意に指摘した。
自身の騎手としての活動の限界を悟ったレースを突然言い当てられ、思わず動揺する郷田をよそに、笑平の言葉は続く。
『あいつは今、負けを取り返そうとしとる。負けた分を取り返すために、負けた時の倍のものを賭けて次の勝負に出ようとしとる。あいつの炎は悔しさと覚悟をほおりこまれて、今激しく燃えとる。俺は、その炎上の限界を1年と見た』
言って、笑平はぐっと身を乗り出した。
『後1年であいつは一生分の情熱を燃やし尽くし、燃え尽きるというのが、俺の見立てや。だからそこで期限を切るんや。あいつの情熱が燃え尽きるまでの最後の1年で、俺はあいつが『本物』に『成る』瞬間を見たい。それが俺があいつに賭ける、馬主としての夢。俺という男があいつにぶつける、最後のワガママや』
そしてそのワガママに、郷田先生や東條騎手にも付き合ってもらうと、有無を言わせぬ調子で笑平はその話を打ち切った。
四歳で引退というオーナーの言葉を、郷田は結局撤回させることが出来なかった。
郷田は考える。大泉笑平という男のことを。
あの男は、バインが『本物』に『成る』ところが見たいのだと言う。
大泉笑平の言う『本物』が何を意味するものなのかを郷田は掴みかねているが、その達成条件だけは、以前会話した時に教えられている。
テクノスホエールかニーアアドラブル、もしくはその2頭に匹敵するような馬にバインが勝つことだ。
それを達成すると、バインは『本物』に成るのだという。
逆に言うとそれ以外、バインの勝利数を増やすことも、獲得GⅠタイトルを増やすことも、繁殖入りした時の評価を高めることも、笑平にとってはどうでもいいことであるらしかった。
馬主がバインという馬に見切りを付けた。つまりはそういうことなのだろうと、郷田は笑平の話を自分の中で総括する。
今年1年、四歳の内にニーアアドラブルかテクノスホエールに勝てないならば、もうバインがその先『本物』に成ることはないだろうと、大泉笑平はそう判断したのだ。
何と言うことはない。『今年1年試して駄目ならば、この馬は自分の期待に応えてくれそうもないから、もう引退させてしまおう』。
多くの馬主が下す普遍的なその決断を、あの大泉笑平という馬主はバインという馬に対して下したのだと、郷田は理解した。
そしてそうなってくると、もうバインと郷田にはチャンスがそう多くは残されていない。
何故なら四歳の春はもう始まっている。ニーアやホエールに挑戦する機会、そのチャンスがバインに与えられるのはこの先2度か、3度か。
巡り合わせが悪ければ、1度の挑戦すら出来ずに今年が終わってしまう可能性すらある。
勝たせなければならない。郷田は心の中でそう決意する。
バインという馬。郷田厩舎にGⅠ初勝利をもたらしてくれた恩ある馬。自分なんかのところにやってきてしまった、誰より勝とうと必死な馬。
そして、テクノスグールの生き写しである、ニーアアドラブルのライバルでもある馬。
そんな馬を、このまま負けっぱなしで引退させるなどあってはならないと、郷田は無意識に自分の奥歯を噛みしめた。
条件の達成は困難を極める。何せ、勝つ相手はニーアアドラブルかテクノスホエールでなければならない。
しかしそれ以外の馬への勝利を馬主が求めていない以上、その2頭に勝つ以外道はない。
ならば勝つしかないのだろう。
バインという自分が育てた名馬に、『今年勝てなきゃもう無理だろう』などという安い評価を下した馬主の鼻を明かすためには。
その評価が間違っていたと分からせるためには、郷田とバインには勝利以外の手段はない。
勝つ。勝たせてみせる。郷田は知らず拳を握った。自分の手で、郷田太の手で、バインをあの2頭の怪物に勝たせてみせると。
郷田は誓った。バインの姿をその胸に思い描きながら。
その決意を生み出しているものが、自分自身の胸の奥で燃え始めた、『勝ちたい』という消えたはずの炎であることを、まだ自覚しないまま。
退路を断たれ、期限を切られ、ブレーキ役の郷田がアクセルを踏み込み始めました。
続きは明日の昼12時更新です。
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