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馬主の決断


 冬の寒さが徐々に鳴りを潜め、春の暖かさが広まりつつある3月の終わり。巴牧場での長期放牧を終え、脚の骨折が無事に治癒した私は、郷田厩舎に戻ってきていた。


 郷田厩舎に戻ってからの生活は、私が脚を折る前とそう変わらない。放牧明けの負荷の少ない緩いトレーニングから始まり、最近では徐々に負荷の高いトレーニングをするようになってきた。


 去年の放牧明けの時期にやっていた内容と、そう大きくは変わらない調教内容である。


 骨折してからしばらくゴロゴロと寝転がっていた私の体からは、筋肉が大分削ぎ落ちていた。

 放牧中はきちんとご飯を食べていたので、体重だけは増えているが、筋肉の量は減ってしまっている。


 今はそれを回復させている最中だ。脂肪を燃やし、筋肉を増やし、痩せた筋肉の上に鍛えた筋肉を積み重ねていく。

 レースに向けて、本番に向けて、テクノスホエールとの再戦に向けて、身体の筋量を戻していく。


 身体を放牧前に戻すだけで勝てるのかという不安が、ずっと私の中にある。

 勝てる訳ないという囁き声が、私の頭の中でずっと止まない。


 私が怪我をしたすぐ後、ニーアアドラブルはジャパンカップというGⅠを勝ち、3月に入ってからは、ドバイへ行って海外でもGⅠを勝ったという。

 テクノスホエールもついこの間高松宮記念というGⅠレースを制し、GⅠ6勝目を挙げたという。


 私が休んでいる間に、私より強い馬達が更に強くなり、私を突き放しながら、前へ前へと進んで行っている。

 その事実に、ただただ歯がゆい焦りを感じる。


 私の復帰開け最初のレースは5月下旬、テクノスホエールが出走するヴィクトリアマイルというGⅠレースに決まった。


 5月。私が最後に勝ったGⅠも去年の5月だった。


 つまり私は、去年の5月にNHKマイルを勝ったことを最後に、丸1年GⅠで勝利を挙げていないということになる。


 ニーアアドラブルやテクノスホエールと比べ、私だけがただ一頭勝利から遠ざかった位置にいる。


 その事実が、私の心にどこまでも焦燥感を募らせる。


 果たして私はこのまま、この調子でトレーニングを続けて、テクノスホエールの出るヴィクトリアマイルに勝利できるのか。


 東條の中に、私を勝利させるプランはあるのか。郷田先生の中に、『こう鍛えれば勝てる』という計画はあるのか。

 今私がしていることに、意味はあるのか。本当に勝利へ繋がっているのか。


 私の中にはない。こうすればテクノスホエールに勝てるというビジョンが、ない。


 マイルチャンピオンシップでは万全の身体で全力を出し尽くし、ミスさえほぼなく走り抜いて、それでも負けた。


 メンタルを整えることが出来ていれば勝てたというレースではなかった。

 ああすれば勝てた、こうすれば勝てたという負け惜しみが浮かぶ実力差でもなかった。


 相手がどうしようもないほど強く、自分の力がまるで通用せずに負けた。ただそれだけの戦いだった。


 その相手と、また戦う。その相手に、また挑む。


 私は今、暗闇の中を走っている。そう思う。光明がない。勝ち目という可能性が見つけられない。


 それでも走らなければならない。この暗闇の中で一生立ち続けない為には、出口が見えずとも走り続けるしかない。


 今日も、おしゃべりな厩務員がやって来る。私を馬房から出し、東條が待つトレーニングコースへ私を誘導する。


 私は今日も走る。少しでも近づくために。少しでも可能性を作る為に。例え一度も報われず、テクノスホエールという自分の憧れの体現者に、負け続けて終わることになったとしても。


 私は、出口の見えない真っ暗なトンネルの中を、ただ淡々と走り続ける。


 焦りと不安で、潰されそうになりながら。




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 バインが郷田厩舎に戻って来てから2週間が過ぎたころ、バインの馬主の大泉笑平が郷田厩舎にやって来た。

 怪我が治り元気になったバインの姿を、自分の目で一度確認しておきたいとのことだった。


 郷田厩舎の関係者の間では有名な話だが、大泉笑平はバインに嫌われている。

 笑平の姿を見るとバインは不機嫌になり、笑平が近付けば即座に噛みつこうとする。


 じゃれて遊ぶ為の甘噛みではなく、本気で敵を攻撃するための噛みつきを笑平にしようとするのである。


 そして、バインに会いに来る度噛みつかれそうになる笑平を、あわやのところで何度も助けて来たのは、他ならぬ郷田である。


 なので今回の笑平の訪問に際しても、郷田は笑平とバインの面会に付き添うことにした。

『大物芸能人が馬に襲われ大怪我!』などという事件が、明日の朝刊に載ることを未然に防ぐためである。


「さあて、バインの奴はどこまで元気になりましたやろか」


 しかし、そんな郷田の警戒と気苦労も知らず、何度も自分の持ち馬に噛まれかけている馬主本人は、実に暢気(のんき)なものだった。


 今も郷田の隣をニコニコと笑顔を浮かべながら、バインの馬房へ続く道を歩いている。


「毎度の注意喚起になりますが、馬房に入ってもバインにはあまり近づかない様にして下さい。それと、他の馬もいるので大きな声は出さないようお願いします」


「分かってますて。あいつとの付き合いももう3年目、流石に俺も覚えましたわ」


 目の前の馬主が、これまで何度も郷田の注意を無視して馬に近づき、その度バインに噛まれかけていることを知っている郷田は、本当に頼むぞという思いで、相手に分からないよう小さく溜息を吐いた。


 そして馬房に到着し、その中へ笑平を案内する。


 馬房の中はいたって普段通りだった。馬達は落ち着いており、突然見知らぬ笑平がやって来たことにも動揺する様子もない。


 秋華賞の直後のような、苛立つバインに馬達が怯えているピリピリした雰囲気は消えていた。

 マイルCSの後の、バインが傷つき横たわっていた時のような、不自然に静かで空虚な空気感もまたない。


 馬房を幾度か訪れたことがある笑平は、去年の秋からの馬房の雰囲気の変化を感じ取ったのか、『ほぉ……』と小さく呟いた。


 そして、バインの馬房の前までやってくる。バインはこちらに気づくと、郷田達の方へ近寄って来た。

 そして、郷田と笑平のことをじっと見つめてくる。何を考えているか分からない馬のガラス玉のような瞳に、郷田と笑平が映っていた。


「…………」


 そしてそのバインの瞳を、笑平が黙って見つめ返す。


 笑平とバインの面会はいつもこうだった。この一人と一頭は、まるで言葉を交わすかのように、出会うといつも無言で見つめ合う。


 そしてしばし見つめ合うと、笑平はいつもニカっとした笑みを浮かべ、バインに『その調子で頑張れよ』と言って離れていく。

 あるいは、離れずに一歩二歩柵に近づき、そこでバインに噛まれそうになる。それが大泉笑平が馬房を訪れた時の、いつものパターンであった。


「…………。思っとったより危ないな。お前、せっかく怪我が治ったのに、まだ崖っぷちで片足立ちしとんのか」


 しかし、今回はいつもと同じにはならなかった。笑平はいつものように笑わず、『その調子で頑張れ』とも言わなかった。


 バインもまた、いつもと様子が違った。いつもなら笑平に噛みついてやろうと、柵のギリギリのところまで寄って来て、笑平が馬房を去るギリギリまで恨めしそうな視線を送ってくる。


 しかし、今日のバインにはそうした様子がなく、笑平の呟きを聞くと、プイっとそっぽを向いて柵から遠ざかり、馬房の奥へ引っ込んで行ってしまった。


 笑平は困ったように自分の頭を数度掻くと、郷田に向き直り、馬房の出口を指さして『とりあえず出ましょう』と言った。


 その笑平の様子に、郷田は何か嫌な予感を感じた。

 今のバインと笑平のやり取りを見て、やり取りと呼んでいいのかも分からぬ見つめ合いと、人間の呟きと、馬の態度を見て、言いようのない不安を感じた。


 虫の知らせとしかいいようのないその不安感から、郷田は自然早歩きになる。

 早く事務所に戻り、一刻も早く笑平に帰って貰おうと思った。自分の中に湧き出た嫌な予感が的中する前に、とにかく笑平を帰らせてしまおうと思った。


「……よし。決めたで郷田先生」


 しかし、郷田の早歩きも虚しく、笑平が歩きながらしゃべり出してしまう。


 何も決めるな黙って帰れ、などと言う訳にもいかず、郷田はしばしの躊躇いのあと、仕方なしに聞いた。


「……決めたって、何をですか」


「バインの引退や。バインは今年一杯、4歳で引退させる」


 そんな大事な話を、GⅠを3勝もしている名馬の生末(いくすえ)を、こんな道すがらで決め、こんな道端で話すのかと。


 自分の嫌な予感が的中した後悔以上の驚きをもって、隣を歩く非常識な馬主の顔を、郷田はまじまじと見たのであった。



明日も昼12時投稿です。



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