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私の原点 ~選ぶ道は二つに一つ~


【11日目】


 私は思い出す。幼い頃の記憶を思い出す。それは私が生まれた日の記憶。母のお腹から産まれた日の記憶だ。


 暗く狭い場所から、広くて空気のある場所へ這い出てきた私を最初に包んだのは、小さな人間の大きくて太い腕だった。


 多分、それは友蔵おじさんの腕だったのだと思う。そして次に私が感じたのは、私の顔を舐める舌の感触。


 友蔵おじさんは、生まれたばかりの私を抱きかかえて母の前まで持っていき、母はすぐに私の濡れた身体を舐めてくれた。


 全ての母馬が仔馬にそうするように、母は私の身体を優しく優しく、何度も何度も舐めてくれた。


 そこからの記憶は曖昧だ。気づけば私はふらふらになりながらも、なんとか自分の四本足で立っていて、母はずっと私の身体を愛おし気に舐め続けた。


 その時の母の姿を、覚えている。


 薄暗い馬房の中、吊るされた電球の頼りない明りだけが、母の身体を照らしていた。


 出産を終えたばかりの母は、全身に疲労の色が見て取れた。その身体は汗で濡れ、その呼吸は整い切っておらず荒かった。


 けれど、疲弊していてなお、母の姿は美しかった。


 四本の脚で堂々と地に立ち、ずっと私の側を離れず、労わるように私の身体を舐め続けてくれていた。


 生まれて初めて見る母は、大きかった。その体は強さに満ちていた。

 こんなにも大きくて強い存在が自分の側にいてくれる。それだけで、幼い私は無限に安心することが出来た。


 そして、そんな大きくて強い存在が、優しく私のことを舐めてくれて、私を愛してくれている。

 そう思うと、身体の中から力が湧いてきて、母の姿を真似るようにして、私は自分の震える細い脚で踏ん張り立つことが出来た。


 生まれて初めて見た母は、


 大きくて、強くて、優しくて、美しかった。


 それに憧れたのは、いつからだったか。あるいは、私が生まれたあの日から、もうそれは始まっていたのかもしれない。


 母のようになりたいと願った。母のような、大きくて強くて優しくて美しい、そんな馬になりたかった。


 母のようになる。それが私の夢であり、馬として生まれて最初に抱いた望みだ。


 私が生まれて最初に抱いた、大切な願い。


 私の一番初めの、欲だ。


 いつか大人の馬になれば、自分も母のようになれるのだと、仔馬の頃は無邪気に信じていた。


 けれど今はもう、そんな風に無邪気に自分の将来を信じることなど出来ない。本物を知ってしまったからだ。


 幼き日に憧れた母のような馬と、出会ってしまったから。母以外の、大きくて、強くて、優しくて、美しい馬の存在を、知ってしまったから。


 その馬に格の違いを見せつけられ、自分の身の程を知ってしまったから。


 何故、自分がこんなにも考え悩んでいたのか、その原因にようやく辿り着く。

 ただ単純に負けたからではない。全部テクノスホエールのせいだ。テクノスホエールが、母に似ているせいだった。


 幼き頃に憧れた母の姿。その憧れの要素の全てを兼ね備えたあの馬に完敗したことが、成長して大人になったつもりでいた私の全てを否定した。


 テクノスホエールは、私の理想像だった。

 私の夢が母ならば、私の理想はテクノスホエールだ。


 そんな馬とのレースだったから、私はその敗戦をこんなにも引きずっている。


 そんな馬に勝負すら挑めず負けたという事実が、私の根幹部分を打ち砕き、私の心をへし折った。


『全部捨ててお坊様みたいに悟りを開くか、欲の炎に全身突っこんでみるか、結局、その二択以外道はないんやで』


 そう。だから問題は、私が何を許容するかという点に帰結する。


 選択肢となる道は二つだ。欲を叶える為に『諦めず挑戦し続ける』か、『負けを受け入れて全て諦める』か。


 諦めずに挑戦する道は、私にとって受け入れがたい。

 前提として私は、もうテクノスホエールに勝てる気がしない


 コースが違えば、距離が違えば、馬場や天候が違えば、レース展開が違っていたら、そういった条件の全てが私に有利な状態で再戦したとしても、私はきっとテクノスホエールには敵わない。


 そう思わされるほどに、私はマイルCSで完敗した。心を折られるというのはつまり、その相手に対し自分の勝ち目を信じられなくなるということだ。


 私の心は、脚と一緒に完全に折られた。


 それでも挑戦するということは、負けを前提に戦いを挑むということだ。負けると分かっているのに、あえて挑戦するということだ。


 でも私は、もう負けるのが怖い。秋華賞で負けた。マイルCSでも負けた。負ける度に私の心はぐしゃぐしゃになって、今だってまだ立ち直れていない。


 テクノスホエールやニーアアドラブルといった化け物クラスの馬に挑むということは、本気で走らなければならないということであり、本気で挑んで負ければ、その度に私の心は傷だらけになっていく。


 私はまだ2回しか負けていない。たった2回負けただけで私の心はこんなにもズタボロだ。


 この傷を3に増やし、4に増やし、5に増やす。いつまで増やすか。勝てるまでだ。けれど、勝てる保証などどこにもなく、負け続ける可能性の方が高い。


 何の保証もない『いつか勝てる日』を信じて、何度も何度も負け続ける。負けても負けても挑み続ける。


 そんな日々に、私は耐えられるのか。そんな、負けて泥水をすすり続けるような暮らしを、私が許容出来るのか。

 だから、挑戦する道は受け入れ難い。


 では、もう一つの『全て諦める』道はどうか。


『諦める』ということは、このまま負けたまま、負けた自分を許容するということだ。


 それをしたならば、私は何不自由なく暮らせるだろう。

 この牧場で、母のような馬になれなかった私が、母のような馬に負けたという事実を背負って、優しい母と友蔵おじさん達に囲まれて、幸せに暮らす。


 毎日おいしい干し草を食べて、時々おやつにバナナを貰って、日向ぼっこをしながら、平和に過ごす。


 それは、私が子供の頃なりたかった姿とはかけ離れた、負け犬の生活だ。

 母のように堂々と振る舞うことも、自分は強いと胸を張ることも出来ないまま、俯いて、負けた自分に引け目を感じながら、狭い牧場で他の馬に道を譲って生きていくということだ。


 諦めて生きていくとはそういうことだ。幼い頃の夢を、執着を捨てて、弱い自分を受け入れて、許して、他者に気を使って生きていく。


 私の憧れである母を隣で見上げながら。母だけが特別なのでなく、同じ位強い馬も世界にはいるということを知りながら、『自分自身はそうではない』とうな垂れて生きていく。


 この先ずっと、そうやって死ぬまでずっと、そうやって時を過ごす。


 それを許容するかという問題だ。


 ……。


 …………。


 ……………………。


 ああ、そうだ。


 ようやく、ようやく結論が出た。


 10日以上考え続けて、一時期はろくにご飯も食べずに考え続けて、ようやく結論が出た。

 問題の在り処を履き違えて、間違えた結論に拘泥したりもしたが、ようやく正しい答えが出た。


 結論は単純だった。


『そんな風に生きる位なら、死んだ方がマシ』だ。




【12日目】


 水を飲んだ。


 ご飯を食べた。




続きは明日の昼12時更新です。




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